はじめの第一歩
ずっと、暗い森の中で1人だった。日中目に映るのは深い緑と僅かな青。夜になれば私の世界は真っ暗な闇に包まれた。
晴れの日は動物たちと戯れ、雨の日は一日中空を眺めた。
言葉なんて話せなくて、お肉なんて食べた事なくて、私以外の人間とも会ったことがなかった。
何もわからない、何も話せない、暗い森だけが唯一の世界だった私を、彼は見つけてくれたんだ。
『アニー』
いつものようにひとりぼーっと空を眺めていると、いつものように彼はやってきた。
『あ! ーーー!』
だけど、その日は少し様子が違って、私の真っ赤な髪の毛をすくった。
『前髪、ずいぶん伸びてるね。』
それまではそこらに落ちていた鋭い石で切っていたのだが、私はつい彼に甘える。
『切ってよ! ーーー』
彼は苦笑し、やったことないけどできるかな?と、鉛筆の入った箱からハサミを取り出した。
私は強ばりながら切ってくれるのを待った。
出来栄えは、というと、今思えば失敗だったのだろう。ちょうど右目の上を境に、前髪がななめにぱつんと切られていて、鏡を渡された瞬間お互い無言になった。
しかし当時九歳だった私には、それが『おしゃれ』に見えて、彼に大はしゃぎで飛びついた。
それから後ろ髪も二つに結んでもらって、お話して、お勉強して、魔法で遊んで、ずっとそんな日々が続くと思っていた。
でも、その日彼は言った。
『アニー、いいかい? 十八になったら王国軍に入るんだ。君は強い力を秘めてるから、今から頑張っていればきっと何だって乗り越えていける。そして、また、王都でーーー』
その後、彼は私にたくさんの本を託して、そのままどこかへ行ってしまった。
「待ちなさい、アニー!」
アニタ・カルレア。それが私の名前だ。それを親しく『アニー』と後ろから呼び止めた男性は、白魔族のコームさん。
私は勢いにのった身体を慌てて静止させ振り返った。
「なに? 急いでるんだけど」
「やっぱり僕もついて行こうか?」
「いらないよ!」
「いやでもさあ、王都だよ? ここと違って人もいっぱいいるし、迷子にでもなったら.......」
「入隊試験の時に一回行ったし、心配しすぎだってば!」
十八にもなってさすがに迷子はない、そう思って少々苛立ち気味に言うが、それでも心配は解けないらしい。永遠にごね続けるコームさんに痺れを切らし、私は大きく息を吸った。
「いい加減に………」
「いい加減にしなよ〜コームさん」
コームさんの後ろからひょこりと顔を出したのは、スキップという黒魔族の少年だった。
「いくら寂しいからって、アニー姉困らせちゃダメでしょ?」
「………そうなんだけれども」
ーー彼がいなくなって数日後、孤児院を営んでいるという男の人が私の元にやってきて、たくさんの本と一緒に森の中から連れ出した。以降、私はその孤児院にお世話になっていた。
黒魔族が主に生活している、セリュジア王国モンテマジョル領。その辺境にあるコミエン村の中の、小さな小さな孤児院。
私は今日、ここを出て、王都に向かう。
「………姉。アニー姉!」
「………ん?」
少しボーッとしていたらしく、スキップが不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。
「また例の人のこと思い出してたの?」
「……だって、やっと約束が果たせるんだもの。」
十八になったら、王国軍に入る。
そして、また、王都でーーー
王都で、会おう。
「じゃあ、もう行くね!」
「……たくさん辛いことがあるだろうけど、無理せずにね、アニタ。」
ようやく見送る決心がついたらしいコームさんは、見慣れた柔らかい笑みを浮かべた。
「……コームさんも、元気でね。」
2人に大きく手を振って、王都行きの魔力車に乗り込んだ。
そうして斜めに切りそろえられた前髪と、二本の長いおさげ髪を揺らし、私は約束への第一歩を歩む。
「待っててね」