02 タケシ
午前11時―――――
開店と同時に入ってきたのは、常連客のゲンさんだ。
またタクシーを表の路地に停めてきたんだろう。
レッカー車に持っていかれるぞと大将が咎めたところで、カウンター左端の指定席を陣取ったゲンさんに動く気配はない。
早速 新聞を広げ、今日は どの馬が狙い目だのオッズが どうだのと ぶつくさ言いながら細かい文字を睨みつけている。
「おう、タケシ! 昨日お前が言うた馬に全財産 注ぎこんだったぞ」
「タケシじゃねェよ、タケルだっつーの! つーか、ハアァァ!? 何やってんだよ、バカだろ! 負けたら生活どうすんだよ」
「アホか。俺は、この界隈きっての勝負師やぞ。勝負師が勝負せんとって どないすんねん。それにお前、先週も、その前も当てたやろが。俺はなあ、お前の才能に投資したんや。お前がそんな弱気で どないすんねん」
弱気になっているのではなく呆れているのだと返したところで このギャンブル狂いには、真面目に働きコツコツ稼ぐジャパニーズワーカーの信念は通用しない。
まさに馬耳東風。
あ、上手いこと言ったなと思ったところで来客だ。
銜えタバコで やけに上機嫌に現れたのは、近くの鉄工所で働いているヤッさんだ。
灰皿にタバコを押しつけ いつのもカウンター席に座ったヤッさんは、水を置こうとしていた武を見るなり節くれ立った分厚い手で肩を引っ叩いてきた。
辛うじて水は こぼさずに済んだが、その威力はといえば、例えるなら、2位に三馬身ほど差をつけてゴールした馬にそのまま追突されたような衝撃と破壊力を併せ持っている―――――
と誇張したくなるほど痛い、とだけ言っておこう。
「オイコラ、タケシこのヤロー! 今朝、カミさんから連絡あってよぉ、4人目やぞ4人目! この前 上のボンが学校 行きだして、真ん中は幼稚園、チビは やっと掴まり歩きができるようになったとこだっつーのに、参っちまうよなあ~」
参っちまっている割には顔が緩みまくっているところを見ると、本心は明らかだ。
そんな、喜びをストレートに ぶつけるよりも遠まわしに自慢したい複雑な大人心に溜め息したところで ようやく名前間違いに気づき慌ててツッコんだ武だったが、大人3人から一斉にダメ出しをくらってしまった。
「修行が足りひんぞ、タケシ。そんな腕で生き残れるほど大阪は甘ないで」
「せやせや。おもろない男には女も寄ってこん」
「うるせェ! いいんだよ、オレはこのままで! 女だって、大阪でモテなきゃ京都とか奈良でつくってやる」
言いながら、カウンターに出された とんこつラーメンと激辛チャーハンを2つずつ岡持に入れフタを閉める。
これは、ここの3軒隣で不動産を経営しているシゲさん夫妻の注文だ。
仕事が立て込んでいる時は こうして出前を頼んでくるのだが、いつも決まってゴルフクラブを持って陽気に出てくるので真偽のほどは分からない。
とはいえ、これがある おかげで この関東人に優しくないオッサンたちから 一時的にとはいえ逃れられるのだから ありがたいことだ。
所々 引っかかる扉を膝で微調節しながら開けて出ようとした その時だった。
何かが鳩尾に突っ込んできた。
驚き半分、おどけ半分で仰け反りながら岡持の無事を確認した武は、扉に貼り付けてある“飛び出し注意”のプレートを無視して ぶつかってきた相手に文句を言ってやろうとした。
ところが、見やった先にあるのは煤けた壁だけだ。
まさか これが最近 流行っているという当て逃げというやつかと憤慨したところで、どこからか聞こえてきた声に視線を漂わせる。
そして、ようやく気づいた。
目線をかなり下げたところで、つばの大きい帽子に水色のワンピースと この界隈じゃ そうそう見かけないエレガントな格好をした女が倒れている。
どこの貴婦人を撥ねてしまったのかと慌てて助け起こしてみれば、まあどうだろうか。
つばの下から現れたのは、こんな薄暗い路地裏でも輝いて見える白い肌と丸顔が愛らしくも垂れ目が艶やかな美少女だ。
ここ1年ほど、オッサンかオバサン、若くても小学生か幼児のガキしか目にしていなかったということもあったのだろう。
武は、美少女から声をかけられるまでの間、素で見とれていた。
そうだ、来客だ と美少女の手を取ったまま店に戻ると、オッサンらの訝しげな視線に曝される。
無視してテーブル席に案内するなり、それは何かを確信したような いやらしさを滲ませだした。
「出前に行くんやなかったんか、タケシ」
「うるせー、客だ客!」
下層感 丸出しで下品に はやしたてる外野を睨みつけた武は、水を手に、駆け足でテーブル席に戻る。
帽子を手にしたまま壁の品書きを見上げる横顔に胸を高鳴らせながら水を置こうと近づいたところで、細くしなやかな肩から流れる美しい髪を揺らして美少女が こちらを向いた。
その瞬間、ふわりと漂った甘い香りに軽い眩暈を覚えた武は、とっさにテーブルの端を握りしめることで なんとか持ち直す。
注文を訊くと、鈴の音のように透き通る声で、おすすめを と返ってきた。
それなら断然あれしかないと厨房に駆けこんだ武は、ヤッさんが受け取ろうとしていた醤油ラーメンを引ったくって美少女に差し出した。
すぐにヤッさんが ヤニ汚れが目立つ歯を剥き出しにして文句を言ってきたが、出稼ぎで こっちに来ているくせに関西人と一緒になってイタイケな青少年を虐げる裏切り者に順番を守れなどと言われて応じるわけがない。
第一、こっちの陣地に入った時点で この醤油ラーメンは美少女のものだ。
オッサンが、過ぎたことをグダグダ言うな と嘲笑雑じりに一蹴した武は、即座に美少女に向き直った。
笑顔で礼を言ってきた美少女は、上品な所作で箸を手に取り麺を掬い上げる。
オッサン連中とは違い、啜る音ひとつしない。
しかし、見た目や音に現れない分、口に合っているのかどうかは不明瞭だ。
期待半分、不安半分で恐る恐る訊いてみると、美少女は長い睫毛の下で綺麗な瞳を揺らしながら頷いた。
「美味しいです」
「マジすか! そ・・・・・・それ、オレが麺切ったんす」
「麺切ったくらいで威張るな」
外野の野次も構わず天にも昇る気持ちで厨房に戻ろうとした武だったが、突然美少女に呼び止められた。
その艶やかな双眸に、もしや気があるのではと思い頭が沸騰しそうになる。
とはいえマンガじゃあるまいし、こんないかにも良家のお嬢様といった感じの美少女が、自分のような学も金も無い住み込みアルバイターを相手にするはずがない。
そんな保険をかけておいて、本当に良かった。
すっと上がった細い指がさししめしたのは、壁の品書きだ。
「この、“大将オススメ激辛チャーハン” と “炎を吹く餃子”をお願いします」
「・・・・・・はい! 喜んで」