完璧なプログラム(三十と一夜の短篇第21回)
昼前に、二人は依頼主の『道場』へ赴いた。
表向きは肉体と精神の鍛錬と自己啓発を云々というセミナーがメインらしいが、実態はよくある新興宗教のひとつではないか、という話だった。
『先生』やら『開祖』やらと呼ばれている中年の男性が、今回の依頼主だ。
応接間に通された二人は、その男性――小向健流と相対した。
「お二人とも、我が道場のプログラムには目を通していただけたでしょうか?」
穏やかな笑顔で話し掛けて来る小向は、小学校の教師のようにはきはきとした様子で、怪しげな新興宗教の教祖にはまるで見えなかった。
「見ましたけど……僕にはよくわかりません」
憮然とした様子で口を開いたのは、赤味のある茶髪が特徴的な昭等の方だった。
明等は一瞬、眼鏡の奥から相棒を嗜めるような視線を送り、小向に向き直る。
「申し訳ありません、連れが失礼なことを」
「いやぁ、実に正直でよろしいと思いますよ」
小向は気を悪くした様子もなく、朗らかに笑った。
「こちらは高見さんの……あー、ひょっとして弟さんでしょうか? よく似ていらっしゃる」
「えぇ、まぁそんなところです。こちらは昭等。一緒に仕事をしています」
明等は営業用スマイルで答える。
小向が主張するところの『プログラム』とは、一種の自己啓発だった。
自分は恵まれていない。自分ばかり不幸だ……こういった考えに囚われている人々や、あいつのせいで自分が失敗した。自分より幸せなあいつが恨い……というように誰かに責任転嫁をしてしまう癖が抜けない人々の心を、解放して、もっと自由に、豊かにするものだという。
「うちはあくまでも道場であって、宗教ではないのですけどね。私が奨めているプログラムがどうも宗教臭いというので、今までにも何度か会員の家族から苦情が来たり、嫌がらせを受けたりしているのです」
小向はため息をつく。
「でも今回のご依頼は、ボディガードなどではないのですね?」と明等は首を傾げる。
「ええ。そちらはうちの人間にやらせていますから」
この世は苦悩に満ちている。
そこから救われたい人間たちが、占いやヒーリング、自己啓発や宗教にハマるのは、そうではない者たちにも理解できなくはないだろう。
あるデータによると、毎年かなりの数の新興宗教ができては消えているとも言われる。
「――その『苦悩』を創り出しているいるのは、他でもない、自分自身の中にある『固執』や『執着心』なのです」と、小向は身を乗り出して語る。
「自分ばかり損をする。あいつばかりいい思いをしてる。そういうことばかり言う人を見たことがありませんか? または自分の能力に固執したり、逆に自分の価値を極端に見くびっていたり、それから――あなたがたにも、嫌いな人がいたりしませんか?」
「まぁ、それは――」
「僕にはいるよ。この話を持って来た奥井ってやつがまず嫌いだね」と、アキが横から口を挟む。
「ああ、彼ですか――彼は実に面白い人物だ」
小向は身を起こしながら笑う。
「面白くなんかない……そのせいでアキラがこんなめんど――」
「いい加減にしないか、アキ」
明等は隣に座っているアキの膝を叩いた。
「アキさん、あなたも非常に面白いかただ……奥井さんにも、高見さんにも強い執着を持っている」
「僕は――」
咄嗟に反論しようとしたアキを、明等は制する。
「しかし小向さん、あなたはこのプログラムに欠陥があるとおっしゃるんですよね?」
「そうそう、それが本題なのです。私たちは、人々を救いたいがためにこのプログラムを作りました。初心者には取り組みやすい身近なところから、そしてもっと深い救いを求める者には、更に上級のプログラムを。もちろん、私もそれを実践して来ました。ですが――」
小向の表情が曇った。
「上級プログラムの参加者のうち、約三割のかたが亡くなっていますね?」
明等は小向の顔を覗き込むように首を傾げる。
「そうなのです……しかし、私たちにはどこが問題なのか、さっぱりわからないのです」
小向は肩を落とし、ため息をついた。
「修業が厳しいんじゃないのぉ?」
アキは興味なさそうに、部屋の隅に並ぶ本棚を眺めながら茶々を入れる。
「そんなことは一切ございません。困難だと思ったら休息を取ることも規制はされておりませんし、彼らはお互いを励まし合いながらプログラムを進めて行くのですから」
「じゃあいじめとか?」
「いじめも、執着心の裏返しですよ。我々はそれを手離すように日々プログラムに取り組んでいるのです。もしもいじめを行っている者がいれば、当然上級プログラムからは外され、また中級や初級からやり直すことになります」
小向は首を横に振る。
上級プログラムを一年間通して行えた者には、『師範見習い』という肩書きがつくのだという。師範見習いは集団生活をしている中で、何か問題がないか気を配り続ける。
また、彼らが初級や中級のプログラムをコーチングすることもあるらしい。
「……お布施などは、どうなっているのですか?」と明等が問う。
「お布施という言い方では、まるでうちが宗教みたいじゃないですか――もちろん、毎月の会費はいただいております。それも金額は決まっておりますし、こちらからそれ以上要求することはありません」
小向は苦笑した。
「必要ならば、帳簿と通帳もお見せしますよ? まぁ、そこまでしなくても問題はないと思いますが」
「ええ、今は必要ありません――ですが、こちらにいるかたがたは……特に上級プログラムを何ヶ月もなさっているかたには、家財一式を処分してしまった人も多いですよね?」
「それは彼らの都合でしょう。私たちの方では、一切の強要をしておりませんし、全員がこちらに寄付をしているわけではありません。ただまぁ、ご家族との話し合いの上で、身の振り方を決めるようにという指導はしておりますが」
「それは何故……」
「以前、いたのですよ。奥様やお子さんたちに無断で、家財を処分してうちに寄付をしようとした者が」
「その人は?」
明等の問いに対し、小向は思い出すような遠い視線を向けた。
「もう少しで上級に行けるかも知れない、という段階だったのですが、彼にはここを出て行ってもらいました。ご家族と和解してからでなければ、プログラムの続行は許さないと伝えて」
「――その後は?」
「わかりません……ただ、奥様からは、その後離婚が成立したとのご報告を頂いておりますが」
* * *
「だからなんで引き受けちゃうんだよ」
道場から出た途端、昭等は不機嫌を顕わにした。
「だって、面白そうじゃないか」とこたえる明等は、本当に楽しそうに笑う。
「アキラは悪趣味だね」
「俺に言わせれば、アキの方が悪趣味だけどね……苦しんでいる人が好きだろう?」
そう言いながら、明等はヘルメットを投げて渡す。
「人聞き悪い言い方するなよ……僕は、困っている人を見ると、どうにかしてあげたくなっちゃうだけなんだから」
膨れ顔でヘルメットを受け取ると、アキは赤毛の頭をその中に押し込んだ。
「俺もそれと同じだよ。ただ、方向性が違うだけで」
明等はくすくすと笑った。
その後数日間、二人は道場に通い、彼らが『プログラム』をこなす様子を見学し続けた。
肉体の鍛錬は、いくつかの武道やスポーツから好きなものを選べるらしい。精神的な鍛錬については講師がセミナーを行い、グループによるディスカッションや一対一の対談など。セミナー中も、特に変わった様子は見られない。
「普段はもっと違うことしてんじゃないの?」とアキが耳打ちする。
「いや、普段からこんな感じらしいよ。その辺は奥井が――」
その名前を聞いた途端、アキの表情が歪む。
「わかったよ。もういい」
「……多分、もう数日もいれば、糸口が見えて来ると思うんだ」
明等は、アキの頭にぽんと手を載せて微笑む。
「だから、もう少し耐えてくれないか」
「別に……僕は全然平気だけど」
フン、と鼻を鳴らすのは、アキの照れている時の癖だった。
「先生……先生! どうしてもわからないんです!」
応接室の隣にある小向の事務室で昼食を摂っていると、一人の中年女性が駆け込んで来た。
「どうしたんですかマナミさん。今は昼食の時間ですよ? ――申し訳ありません、高見さん」
小向はすぐ立ち上がってマナミと呼ばれた女性を迎えたが、その表情は少し不快さがにじみ出ていた。
「申し訳ありません……でも、昼食を食べている時に、急に怖くなったんです」
「――よろしければ、お話を一緒に聞かせてもらっても?」と、明等が訊ねる。
「よろしいのですか?」
小向は眼を見開いた。明等は笑顔でこたえる。
「ええ、何かのヒントになるかも知れませんし」
椅子を勧められたマナミは、とつとつと話し始めた。
「わたしは、激太りと摂食障害とを何度も繰り返し、長年病院にも通っていました。でも薬とカウンセリングだけじゃ抑えられないという自覚がありましたので、ここのセミナーをきっかけにプログラムを始めることにしたんです」
家族間のストレス、仕事のストレス、ハラスメントや恋人の裏切り――よくまぁそこまで裏目を引けるものだという内容が、マナミの口から語られる。
「マナミさんは、自宅にいると過食をしてしまうということで、家族と離れてここで集団生活をしている人です」と小向が付け加える。
「初めの頃は色々ありましたけど――お陰様で、今はこの通り普通の生活ができていると思っています。食べ物も美味しいですし、自分からはなかなかできなかった運動も、周囲の人たちが誘ってくださるお陰で楽しく続けることができています」
三十代と聞いた割に、マナミの肌には張りが見られなかったが――そのせいなのか、もっと年上に見えていた――外見は標準的な体型だと見受けられる。
「楽しいのでしたら、問題はなさそうですが……それとも、ここの生活に何か問題でも?」と明等は微笑む。
明等の言葉を聞いて小向の表情が曇ったが、マナミは首を横に振った。
「いえ、ここの生活には何も。問題があるのはわたしの方なんです。今日の昼食も美味しくいただきました。でも、美味しいと思うことは、本当は食べ物に執着しているということで、よくないのではないかと思い始めると、途端に――」
マナミは言い淀み、顔を伏せる。
「あぁ、嘔吐したくなってしまったのですね」
明等が同情的な表情になった。
「……はい。ですが、思い留まりました。折角みなさんが作ってくださった料理です。わたしのせいで他の人たちが不快に思ってしまうようなことは、よくないだろうと」
「そうですか。思い留まれたのですね。マナミさんは素晴らしいかたですね」
「本当ですか?」
明等に笑顔を向けられ、マナミはうっすらと頬を染める。
「ええ、元々、自分ではどうにもできないレベルの欲求ですからね。それを留めることができたのは、マナミさんが成長できたということだと、私は思います」と続けた明等は、営業用の穏やかな笑顔を崩さなかった。
「でもそれなら何故、困っているんですか?」とアキが口を挟む。
「ええ、それなんですけど……さっきも言いましたが、何故未だに食べることが好きなのか、何故美味しいと思ってしまうのか、これが執着ならば、これも捨てなければいけないものなのではないのか、と」
マナミは困惑した表情になり、小向を見つめる。
「マナミさんは、今は食べることに執着しているのではないと思います」と、小向は穏やかな口調で語り掛ける。
「じゃあ先生、わたしの『コレ』は一体、なんなのでしょう?」
「そうですね。執着を捨てることに囚われている――つまり、執着を捨てることに執着してしまっているのですよ……わかりますか?」
マナミは要領を得ないという表情のまま再び問う。
「そこから抜け出すにはどうしたらいいのですか?」
「まずは心を落ち着かせるための瞑想です……それから、このプログラムに取り組むことです。捨てることに囚われてはなりません。執着がなくなれば、いずれ自然に剥がれ落ちるように、それがなくなっているものなのです」
* * * * * *
「今日は行かなくていいの?」
いつもより遅く起きて来た昭等は、リビングでのんびりと新聞を広げている明等に問い掛ける。
「あぁ――そういえばアキ、一昨日のマナミさんって覚えている?」
「うん、なんていうか……かわいそうな人だった」
そう言って、アキはアップルジュースを冷蔵庫から取り出す。
「そうだね」
「それが何か?」
「彼女がヒントをくれたんだ。昨日はその確認のために行ったけど、あとはもうしばらく待っていればそれが合っているかどうかの答えが出ると思う」
「待つって何を?」
ぴちん、と小さく音を立ててジュースの紙パックが閉じられる。
明等はにっこり笑うだけで何も答えなかった。
「また『道場』から死亡者が出たってよ」と、顔をしかめながら夕刊を読むアキ。
「そうか……じゃあ、そろそろ小向さんから連絡が来るかな……飲む前でよかったよ」と明等は笑い、冷蔵庫から取り出したばかりのビールをまた戻した。
「ってか、新聞に載るより先にこっちに連絡寄こすもんじゃないの?」と明等に向き直るアキは、すでに缶を二本空けていた。
「さあ……? 俺はどっちでもいいよ。ところでアキはどうする? ついて来る?」
「ん~……歯ぁ磨いて来る」
「ついでに、ちゃんとした服装をしてくれよ」と、明等はリビングを出るアキの背中に声を掛ける。
「小向さん、アキのことを男だと思ってるんだからさ……今更混乱させても面倒だろう?」
* * *
「何故だ……私のプログラムは間違っていないはずなのに。すべてのしがらみから解放され、そこから真の自由と新しい人生が――」
ソファに座った明等たちの前で、小向は落ち着きなくうろうろと歩き回っていた。外にはまだマスコミの取材が張り付いており、明等たちが顔を晒さずに道場に入って来るのも一苦労だった。
昨夜自殺した中年男性は、上級プログラムを半年ほど続けていたという。数年前に、立て続けに妻と子どもを失くし、そのショックから仕事でも大きなミスを犯してしまい自暴自棄になっていたところ、ここのセミナーに出逢ったといういきさつを聞いた。
明等たちと顔見知りになったマナミによれば、その男性は非常に親身になって他の者たちの話を聞いてくれる人で、「まるで仏様のよう」だったらしい。
「彼には悩みなどなかったはずだ……もちろん、家族を失った悲しみは数年で癒されるわけではないだろうが、ここで共同生活をし、心を穏やかに――」
「確かにあのプログラムは――瞑想と組み合わせて人の深層心理に働きかける、ある意味洗脳に近いプログラムで、よくできていました」
明等が穏やかな声で話し始める。
「そうだろう? 洗脳とは人聞きの悪い言葉だが、まぁ確かにそれに近い物はある。だがそれは良し悪しに関わらずある一定の効果を――」
「おっしゃりたいことはわかります。まぁ、言葉の綾ですよ」と、明等は手を挙げて小向を制す。
「ですが、ひとつだけ欠点がありました――あれは、よくでき過ぎていたのですよ、小向さん」
「どこが悪かったんだ! 教えてくれ。私は彼らを救いたかっただけなのに……一体何が」
すがりつくように、小向は膝をついた。
明等はその様子を見降ろし、ふぅ……とため息をつく。
「あなたの作ったプログラムは人々の執着を捨て過ぎて、彼らが決して手離してはいけないものまでを捨てさせてしまったんです。あなたはおっしゃってましたよね。『執着がなくなれば、自然に剥がれ落ちる』と」
小向の眼が、見開かれる。
「それはどういう……?」
「みなさんは元々、迷い、傷つき、ようやくこの道場へ辿り着いた人たちですから、それまでに自らの命を断とうと考えたこともあるでしょう。真面目なかたなら特に、自分を追い込んでしまいますから……」
「ええ、そういうかたがたも、ここには多いですが――」
明等は小向を制して言葉を続けた。
「……今回の男性だって、そういったかたのおひとりだったんじゃないですか? それをかろうじて防いでいた、この世に彼の命を繋ぎ留めてのは、救われたい、現状を変えたいという気持ちと共にあった『生への執着』――それだけは、決して捨ててはいけないものだったんですよ」