キサラギ
一方で、部屋に籠っている千代は、扉を背に体育座りをして、頭を下げていた。
そして、あるワンシーンが彼女の頭に過ぎる。
それは、まだ母親が優しい時に彼女に教えてくれた言葉だ。
『きしゃらぎ?』
まだ、物心つく前の事だから余り詳しくは、思い出せないが何故かこの事だけは、思い出せた。いや、忘れられなかったのかもしれない。
『ふふ、違うわよ。ちよ、きしゃらぎじゃなくて、きさらぎ』
『しょれって、どーゆういみ?』
『むかしむかしの春夏秋冬のお名前よ』
『しゅんかしゅーんとー?』
母の暖かい膝に座り、抱きしめられながらまだいく歳もいかない千代が、首を傾げる。
『ちよには、まだ難しいかな?お母さんはね、その中でも如月が一番好きなのよ』
『にゃんで?』
『お父さんと、初めて出会ったのが如月だったの。それに、私たちのスノードロップって、お花もね、如月に咲くお花なのよ』
『わぁぁ!!しゅごいね!!』
『それに、アナタが産まれてくれた日も如月。お母さんに取っての如月は、特別で大切でだーいすきな年なのよ』
あの時の、母親の笑顔が忘れられない。あの時の、母親の温もりが忘れられない。
千代は、そんなことを思い出しつつ涙が流れていた。
彼女が、自分の苗字を『如月』にしたのは、まだ母親に未練があるのからかも知れない。
そこに。
「千代?」
大丈夫?と、遥が様子を見に来てくれたようだ。
千代は、急いで自分の涙を拭いていつもの笑顔で、扉を開けた。
「なにが?」
あからさまの、笑顔に遥は思わず千代を抱き寄せた。
「分かってるから……だから、もう僕の前で無理して笑わないで」
ゆっくりゆっくりと、彼女の顔を見つめると、千代の頬から流れる涙を優しく拭ってやる遥。
「遥さんっ」
千代は、遥かに抱きつく。遥の、暖かいな意外に分厚い胸板に顔を埋めた。
そんな彼女の小さな背中に手を回して、頭を撫でてやる。
「大丈夫……大丈夫やから、僕がおるから……千代は、もう泣かなくてええよ」
千代の顔を両手で優しく、包み込み笑う。
そんな、彼とは対照的に千代はくしゃっと、顔を歪ませる。
「ずるいです……そんなこと言われたら……離れたくなくなるじゃないですか」
「酷いなぁ~前までは、離れたいって思ってたん?」
あはは。と、笑う遥の唇を奪う千代。
「あら?今のは、誘っていると取ってええのかな?」
「さ、誘ってないです!!!お、おおおおお礼!!」
まるで、イタズラをしている子供のような表情で千代の顔を覗き込む。
千代は、熟した林檎のように顔を真っ赤に染める。
「バカ……」
「僕が守る……だって、千代は僕が初めて好きになった子やから」
少年のように微笑む、遥の笑顔が眩しくてもう1度、バカ。と、呟いてから遥の胸板に顔を埋めた。
「じゃあ、僕もう寝るな?千代も、暖かくして寝るんやで」
おやすみ。と、千代の頬に優しくキスをしてから部屋を出ようとする遥。
しかし。
ギュッと、部屋を出ていく彼のパジャマを握り締める。
遥は、ん?と後ろを向くとこれまた泣きそうな表情を浮かばせて遥を見上げる千代。
「どうしたん?」
「しないで……下さい」
「え?」
「独りに……しないで」
涙目、上目遣いの彼女にドキッとしない男はいないだろう。もしかしたら、千代は魔性の女なのかもれない。当の本人は、無自覚だろうが。
そんな、彼女に遥は、いつもの優しいヘラっとした笑顔で彼女の手を握り締める。
「こっちにおいで」
「うん」
ーー 真っ暗な部屋から、アナタは私を……こんな私なんかの手を引っ張り出してくれましたね。
その時、千代の脳裏に過ぎったのは遥ではなく……違う男の人だった。




