僕、発進
『多重人格』って、知ってる? たじゅーじんかく。
一人の人間の心の中にいくつもの人格があって、それらが代わる代わる表に出てくる現象。
この『多重人格』の特徴は、一つの人格が表に出ている時、他の人格は心の奥に引っ込んでいて出てこれないっていうこと。
同時に二つの人格が表に出ることはない。肉体を動かせる権限を持っているのは表に出ている人格だけ。
つまり、僕は厳密な『多重人格』じゃない。だって、僕は僕のほかに、『右手』『左手』『右足』『左足』『目』『鼻』……ああ、全部言おうとしたらキリがないや。
「言い出す前に気付けっての」
……聞いた? 今しゃべったのが『右手』さ。
「これこれ、ご主人」
「私たちの事もちゃんと右と左に分けて言ってくださいな」
ああ、ゴメン、ゴメン。『右目』に『左目』。
わかった? 僕は体中のあちこちに『人格』があるんだ。
『右手』には『右手』の人格。
『右目と左目』には『右目と左目』の人格がある。
当然『左手』や『右足』『左足』にも、ね。
コイツらは心の奥に引っ込んだりなんかしない。いつも、いつでも、僕が起きている限りコイツらも起きている。
――ああ、ほら、『左手』の爪が伸びているよ。『右手』、切ってあげて。
『「ヘイヘイ……」
『右手』はちょっと口が悪い。僕が右利きだから、自分が一番偉いんだと思っているんだ。
「なにか言ったかい?ご主人」
んーん、何も。
あ、そうだ。爪切りは隣の部屋の机の上だった。
『右足』『左足』ちょっと立ち上がって隣の部屋に行っておくれ。
「了解ッス」
「同じくッス」
今、僕は『足』にしか命令しなかったけど、立ち上がって歩くのって結構大変なんだ。
上体のバランスをしっかり保って、背筋を伸ばして、『右目』と『左目』にしっかりと開いてもらわなくちゃいけないんだもの。
誰かが間違えたら転ぶか、何かにぶつかってしまう。
ほら、1、2。1、2。到着。
『右目』と『左目』から送られた情報を使って机の上の爪切りを捕捉。『右手』に取ってもらって、『右足』『左足』着席!
どうして、僕の手足や目が人格を持って話はじめたのかはわからない。気がついたらそうなっていたんだ。……そうそう、『左手』はティッシュを一枚とって下に敷いて。その上で爪切り開始。
パチン、パチンという音を『右耳』と『左耳』が捉える。『耳』は二人ともとても律儀な性格なんだ。『目』はまぶたを閉じれば休めるけど、『耳』それに『鼻』は休めない。ふたがないからね。『耳たぶ』ならあるけど、たぶとふたは大違いだ。
「痛いっ! ちょっと『右手』! 深爪にしないでよ!」
「うるせーな」
ああ、また『右手』と『左手』がケンカしている。ちなみに、なぜか『左手』は女の子だ。
「ヘタクソ!」
「なんだとぉ!? 左の方が不器用じゃねーか!」
こらこら、もう『両手』ったらケンカしないでよ。手を取り合って、仲良く……ね。
……あれ? どうしたの、『右耳』。
「ワン、ワワン、ワン! ……キャーッ!」
犬の鳴き声と女の人の声。――ああ、また、野良犬のブチが人を襲っているんだな。あいつは人間が怖がっていると調子にのっているくせに、こっちが強気になるとすぐに逃げ出してしまう。よし、助けに行こう。
こんなときは、いちいち体の各部に命令なんて出しているヒマはない。こうするんだ。
――全たーい、起立! 発進!
これで僕は立ち上がり、『目』と『耳』の情報を基に現場に駆け付けることが出来る。もちろん、各部にそれぞれ命令を出した時と比べて大雑把だから、たまに転んだりぶつかったり、場所を間違えたりする。いわゆる、慌てる、とか急いでいる、状態だ。
今回は転ばずに辿り着いた。
『右足』、けっとばすフリをしてブチを追い払って。
「了解ッス」
「同じくッス」
ちょ、ちょっと『左足』! 君まで動いちゃダメだよ! ……危ない、危ない。
どうにかブチを追い払って、うちに戻る。
さて、そろそろお昼寝の時間だ。『眠る』という行動は僕の命令がなくても勝手にしてくれる。……やっと静かになった。
それにしても、『目』の二人、もう少し若々しくなれないかなぁ。これじゃ老眼だよ。まったく。
あ、そうそう。僕のこと、誰だと思う?
……脳ミソだろうって? ちがう、ちがう。僕は『脳ミソ』の代わりにしゃべっていただけさ。
そう、『口』だよ。僕は。じゃないとこうして君と話ができないじゃないか。
『脳ミソ』はもう夢の中さ。
え?『脳ミソ』が眠っているのにどうして僕はまだしゃべっていられるのかって?
それはね……
「この子ったら、また寝言いってる」
律儀な『耳』が、そんな声を拾ったような気がした……
正確には、脳が完全に眠っていると寝言も言えないのですが……あんまり細かく考えないでください(汗)