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ヒーローな彼女

作者: 青島楓

 風にふわりと甘い薫りが混じる。匂いに惹かれ視線を巡らすと、一軒家の庭先に植わったキンモクセイが山吹色の花をつけていた。

 ーーガムの匂いだ。

 半ば反射的にそう思い、思った自分に永井勇介は微苦笑した。子どもの頃、キンモクセイの匂いのガムがあった。特別好きだった記憶はないし、今となっては何という名前のガムだったかも覚えていない。けれど、キンモクセイの薫りが空気に混じる時分になると、黄土色をしたガムの包み紙がぼんやりと脳裏に浮かび、ああ、ガムの匂いだと、ひどく懐かしい心地になる。キンモクセイには申し訳ないが、この先もずっとガムの匂いとして認識してしまうだろう。

 緩やかに傾斜した細い路地を下り、十字路を右手に折れる。そのまま道なりに行けば地下鉄の駅だ。灰色とすみれ色とが混じった夕刻の空は穏やかで、暮れ泥む見慣れた街並みすら優しく映る。つと、今なら何もかも許せそうな気がして、そんな自分を永井はまた小さく笑った。

 ーー俺も結構、浮かれてんだな。

 ともすると無意識に緩みそうになる口元を引き締めて地下鉄に乗る。三つ目の広瀬通駅でこちらに来ている地元の旧友と落ち合う予定だった。

 改札を抜け、繁華街に近い出口から地上に出る。と、ラーメン屋の軒先に立つ、やたらガタイのいい男が目に入った。黒いスーツ、短く刈り込んだ頭髪、動くとぎょろりと音がしそうな双眸。永井には懐かしい旧友の姿だが、傍目にはどこぞのSPか極道にしか見えない。本人にそのつもりがなくとも軽く営業妨害である。

「おーい、シノ」

 手を上げて呼びかけると、永井を認めたシノこと篠田匠が「おうっ」と磊落に破顔した。

「悪かったな、急に呼び出して」

「いや、ちょうど休みだったし、俺もおまえに話したいことあったしな。てか、その格好、葬式か?」

「ああ。親戚の法事。ホントは親父が出るはずだったんだけど、ぎっくり腰やっちまってよ。で、俺が代打。ーーそれより話したいことって?」

「まーまー、それは店に入ってから」

 意味深に口角を上げた永井に篠田も負けじと不敵に笑う。

「奇遇だな、俺もおまえに報告があるんだよ。じゃ、ま、とにかくどっか入るべ。俺、仙台はよく分からねぇから店はおまえに任す」

「おっけ。じゃ、こっち」

 永井は顎をしゃくって篠田を促した。夕闇にネオンが燦めき、昼間とは違った活気が感じられる。誰かと待ち合わせしているのだろう。若者向けファッションビルの前には、突っ立ったまま無表情にスマホをいじる人の姿がやたら目についた。彼らの姿を横目に通りを右に折れると、飲食店がひしめきあう繁華街特有の景観が広がる。

「最近、秋田はどうよ?」

「どうもこうもねぇ。相変わらずだ。景気は悪ぃし、自殺率もワーストワンだし」

「あー、もう何年連続ワーストワンだっけ?」

「十数年ぐらい続いてんじゃね?」

「マジか。シノ、死ぬなよ」

「勝手に殺すんじゃねぇ」

 中身のない会話をかわしながら通りを歩く。永井は複数の飲食店が入居するビルを指さした。白地に「鳥正」と黒く染め抜かれた暖簾がかかる間口半間ほどの階段を下りる。階下から焼き鳥の甘く香ばしい匂いが漂った。

「とりあえず生ひとつと、ウーロン茶ひとつね」

 案内された席に着くや否や篠田が注文する。こちらの意向を確認せず、一方的に注文した篠田に永井はふっと息で苦笑した。

「おまえなぁ、勝手に俺の分注文すんなよ」

「え? あー、もしかしてジンジャーエールとかオレンジジュースがよかったのか?」

 真顔で訊き返され、永井は緩く笑みを浮かべたまま頭を振る。自分が酒を全く受け付けない体だと知る旧友との飲みはやはり気楽だ。

「ここ、よく来るのか?」

 おしぼりで手を拭きつつ、篠田が店内をぐるりと見回す。つられて永井も視線を巡らせた。焦茶色を基調にした店内を照らすオレンジ色の照明が、どこか祭りの夜の出店を彷彿とさせる。時刻は午後六時を回ったばかりだが、会社帰りと思しき客で既にテーブル席の半分は埋まっていた。

「んー、たまにサキと一緒にな」

「あー、大学ん時からの彼女だっけ?」

「うん。つーか、もうすぐ嫁さん」

 さらりと話したかったことーー結婚の報告ーーをする。目の前で篠田がギョッと目を剥いた。予想通りの反応に気をよくした永井はにやりと口角を上げる。

「マジで? おまえも?」

「え・・・おまえもって、まさかーー」

 思わず篠田の顔を指さす。おう、と頷かれ、したり顔が一転、今度は永井が目を剥く番だった。数瞬、互いに唖然とした顔で見合い、それから同時に吹き出す。

「あーあ、驚かせてやろうと思ったのに。相手は吉川か?」

「決まってんだろ。他に誰がいんだよ」

 毒づきながら訊ねると仏頂面で睨まれた。永井は篠田とは高校が一緒で、篠田の彼女の吉川美雪とは中学が一緒だった。それぞれ同級生として知る二人が結婚するということに不思議な感慨を覚える。

「とにかく永井、十一月十五、空けとけよ。式、呼ぶから」

「えっ?」

 永井は再び真顔になって目を瞠った。呆然と目の前の友人の顔を見つめる。こんな偶然があるのか。あっていいのか。

「なんだよ? ーーおい、まさか、」

 慄いたように身構えた篠田の目を見つめたまま、小さく頷いて告げる。

「俺の結婚式も十一月十五」

 ポカンとマヌケ面で固まること数秒、二人は弾かれたように声を張り上げた。

「マジかよ!!」

「偶然にも程があるべ!!」

 げらげらと笑い転げる二人に周囲の視線が集まる。だが、爆発するような笑い声など飲み屋では珍しくない。周りの注目を浴びたのはほんの一瞬ですぐに視線は霧散した。飲み物が運ばれて来たのを潮に二人も笑いを納め、グラスを軽く打ちつける。

「ちなみにシノ、挙式と披露宴は何時から?」

「俺は挙式が十一時、披露宴が十二時から。終わるのは大体三時半ぐらいかな」

「あー、秋田は披露宴長ぇからなぁ」

「おまえはこっちでやるのか?」

 篠田が人差し指を下に向け、突っつくような仕草で訊ねる。永井はこっくりと頷いた。

「俺が秋田でサキが茨城出身だから、まぁ中間取って仙台ってことになったんだ。親戚とか招待客のこと考えると、やっぱ仙台が一番交通の便がいいしな」

「そっか。出身違うとそのへんも考えなきゃならねぇもんな。ーーあ、健司たちどうする?」

 高校時代の共通の友人の名を挙げ、篠田が軽く顔をしかめた。お互い高校が一緒なので友人関係もかなりかぶっている。永井と篠田、双方から受け取った結婚式の招待状を前に、「同じ日かよ!」と突っ込んだ後で、「どっちに出りゃいいんだ・・・」と苦悩する友人たちの姿が目に浮かぶ。

「俺、高校は部活関係中心に呼ぶから、健司たちはシノの方で呼べよ」

「いいのか?」

「うん。健司たちもその方がいいだろ? みんな秋田にいるんだし。剣道部の連中は結構こっちにいるやつ多いから」

「おっけ。じゃ、帰省した時にでも健司たちと飲むべ」

「おう」

 軽く頷き、テーブルの端に立てかけられたメニューを取り上げた。篠田の方に向かって開いて見せる。下戸の永井は大の甘党で、飲みの最初からデザートを注文することも珍しくないが、腹が減ったという篠田に応じ、焼き鳥の盛り合わせや餃子など、腹にたまる物を中心に四、五品選んで注文した。永井が注文を済ませるのを待って、篠田が残念そうに唸る。

「しっかし、あれだな、俺たち、お互いの結婚式には出られねぇんだなぁ」

「まぁ、しょうがないだろ。俺もお前が吉川の隣で鼻の下伸ばしてるとこ、生で見たかったけど」

「誰が伸ばしてんだよ。ーーつーか、」

 中ジョッキに口をつけようとして篠田が眉間に皺を寄せる。

「ズルくね? おまえは美雪のこと知ってっけど、俺はおまえの彼女に会ったこともねぇんだから。オイ、今すぐ彼女呼べ。俺に紹介しろ」

「あー、ムリ。サキ、今週末は実家に帰ってっから、今こっちにいないんだ」

「ホントかぁ~?」

 篠田が胡散臭そうに目を細めた。永井の彼女・木村咲美が実家の茨城に帰っているのは事実なのだが、出し惜しみしていると勘繰る篠田の反応も分からなくはない。永井は「よし、分かった」と呟くと、シャツの胸ポケットからスマホを取り出し、篠田の目を見据えたまま咲美に電話をかけた。

「ーーあ、サキ? 俺。今、秋田から友だち来て飲んでんだけど、サキ呼べってうるさくてさ、ちょっと話してやってくれる?」

 途端、篠田が目を白黒させる。慌てる友人の様子に永井はニヤリと口角を上げ、スマホを突き出した。

「ほれ」

「あ、いや、んな急に言われても、こっ、心の準備が、」

「なんだよ心の準備って。ほら、サキ待ってんだから」

 笑いながら急かすと、篠田はなぜか手刀を切ってからスマホを受け取り、恐る恐るといった体で耳に当てた。

「あ、どうもー。ワタクシ篠田と申します。永井くんとは高校の同級生でして・・・あ、いやいやいやそんな、急に来た僕が悪いんで・・・はい、はい」

 まるで咲美が目の前にいるかのように、手をひらひら振ったり、こくこく頷いたり、表情豊かな篠田の姿に永井はくつくつと肩を震わせて笑った。と、話し終えたようでスマホを突き返される。

「もしもし? 急にごめん。また後で連絡するから。うん。じゃあ」

 永井が咲美に短く詫びを入れて電話を切る。ほとんど同時に篠田が盛大に息を吐き出した。

「ったく、焦ったじゃねぇか。ーーあ、そうだ。彼女の写真見せてよ」

 請われてポケットにしまいかけたスマホを取り出し、操作して咲美の写真を見せる。篠田が軽く目を瞠り、ひゅっと口を窄めた。

「おーっ、いいじゃん。かわいいかわいい」

 満更お世辞でもない反応につい口元が緩む。それを隠すように永井はウーロン茶を口に含んだ。

「彼女とはどうやって知り合ったんだ? 大学が一緒だったのか?」

 スマホを返しながら篠田が訊ねる。

「いや」

「じゃあサークルとかバイトが一緒だったとか?」

「いや」

「あ、じゃあ合コンか?」

「いや」

「え、じゃあどこで知り合ったんだよ? おまえあんまりしそうにないけど、もしかしてナンパか?」

「うーん、一応、ナンパになる・・・のかなぁ」

 咲美と出会った時のことを思い出しながら永井は言い淀んだ。面識のない異性に下心つきで声をかける行為がナンパなら、確かに二人の出会いはナンパかもしれない。だがそこに至るまでの経緯を思うと、自分たちの出会いを軽薄な印象が拭えない「ナンパ」という言葉で語ることに抵抗を覚える。

「え、マジでナンパ?」

「いや、ナンパっていうか・・・サキは俺の恩人なんだよね」

 篠田が餃子を咀嚼しながら怪訝そうに眉根を寄せる。

「恩人?」

「うん。おれにとってはヒーローなんだよ、サキは」


ーーこれで満足!?


 ダンッとジョッキでテーブルで打ち鳴らし、声を張り上げた咲美。あの日の彼女の姿を今でも昨日のことのように思い出せる。


「恩人だのヒーローだの、分かるように説明しろ」

 しびれを切らした篠田にせっつかれ、永井は咲美と出会った時のことを語り始めた。


                    *


 大学に入って二度目の夏だった。前期試験が終わった解放感そのままに、サークルの仲間たちと居酒屋になだれこむ。通された席は八人がけの掘り炬燵が等間隔で細長く縦に並び、廊下との間に間仕切りがある半個室の造りだった。店は似たような学生の団体客で溢れ、間仕切りがあるとはいえ竹のすだれがかかっているだけなので、方々から上がる歓声が渾然一体となり大変な賑わいだった。

 永井は下戸だが、飲み会は嫌いではない。大勢でわいわいやるのは単純に楽しいし、気が置けない友人とこぢんまり飲むのも心地いい。ひとり素面のままでつまらなくないかと訊かれたりもするが、つまらないと思ったことはない。むしろ酔いが回って次第に言動が怪しくなっていく周囲を俯瞰できるのは、下戸だけの楽しみだとひそかに思っている。ただ、下戸であるがゆえに厄介な事態に陥ることもなくはなくてーー

「よおー、おまえら元気でやってかー」

「わぁ成田先輩、お久しっす!」

 サークルの前幹事だった成田史彰が合流した時、周りは既に相当できあがっていた。不意の合流者におおーっと歓声が上がり、ぐだぐだに弛緩しきっていた空気が再び高揚する。追加注文した飲み物が行き渡ると、「乾杯!」の唱和の下、そこかしこでガチャガチャとグラスをぶつけあう音が上がった。

「成田先輩、就活どうすか?」

「酒がまずくなるような話、振るんじゃねぇよ」

 話しかけてきた後輩に軽く肘鉄を食らわせ、成田が苦笑する。目元に疲れがにじんでいた。当時、主だった企業の六割が夏前に内定を出しており、七月までに内定を取れるか取れないかがひとつの分かれ目だった。内定を手にできぬまま夏を迎えた成田の胸の内は、当然穏やかではなかっただろう。ひどく饒舌で飲むペースも異常に速く、次第にブラックジョークでは済まない尖った物言いで絡み始めた。

「ーーオイ永井、おまえ何飲んでんだ? またウーロン茶か?」

 触らぬ神に祟りなしの体で、永井は積極的に成田のそばには近づかなかった。しかしトイレに行って戻る際、うっかりつかまってしまい、強引に隣に座らされる。永井が下戸であることはサークル仲間には周知のことで成田も分かっているはずなのだが、既に成田はまともに話が通じる状態ではなかった。

「はい、そうっす。すんません。お子ちゃまなもんで」

 低姿勢で受け流すも成田は納得しなかった。傍らの中ジョッキを引き寄せ、不敵な笑顔を浮かべる。

「そうか。じゃ俺がおまえを大人にしてやる。ーーほら、飲め」

「いや、先輩、俺、本当に酒だめなんですよ。体質的に受けつけなくて、」

「んなもん、いつまでも飲まねぇからだよ。飲めば体も慣れる、ほら、一気にいけ。ーーオイみんな、永井が人生初の一気すっぞ!」

 成田が声を張り上げ、手拍子をつけて一気コールを始めた。周囲がやんわり止めてくれるのを期待したが、みな酔っ払い特有の緩んだ笑顔で成田に倣う。一気コールの大合唱はうねりとなって永井に迫り、もはや永井が飲まないことには収拾がつかない空気が完全にできあがってしまった。


ーー救急行き、決定かな。


 覚悟を決め、そろそろと中ジョッキに手を伸ばす。ーーと、それが一瞬早く、誰かの手にかっさらわれた。驚いて横を見ると、見知らぬ女の子が片膝をついた状態でジョッキを呷り、みるみる空にしていく。

「ーーこれで満足!? 一気飲み強要されて死ぬ人だっているんだからねっ! あんたら犯罪者になりたいか!」

 ビールを飲み干し、彼女はギロリと周囲を睨めつけると、ジョッキを高らかにテーブルに打ちつけた。不意の闖入者にみなすっかり毒気を抜かれたようで、場が水を打ったように静まり返る。

「ちょっ、ちょっと、木村くん、何やってんの!」

 慌てた様子で中年男性が顔を出した。胸に店長のプレートをつけている。呆気にとられていた永井は、二人が同じえび茶色の作務衣姿なのを見、そこでようやく彼女が店員だと気がついた。

「申し訳ございません、お客様。すぐに代わりの飲み物をご用意しますので。ほらっ、木村くんもお客様に謝罪して!」

 店長にせっつかれ、彼女は渋々の体で小さく頭を下げた。店長が彼女の頭を押さえつけるようにして深く頭を下げさせる。こちらに向ける申し訳なさそうな弱々しい笑顔とは対照的に、彼女の頭を押さえつける男の手には強い怒りが込められていた。何、客相手に面倒起こしてるんだよ、おまえは。そんな男の胸の内が聞こえてくるようで、彼女が男に半ば引きずられるようにして下がった後も、永井は彼女のことが気になり、二人の姿が見えなくなった厨房の方を窺っていた。

 一気コールで盛り上がっていた場は完全に白け、「あー、じゃー、そろそろ店変えて、二次会に行く人ー」と、二次会参加者の挙手を促す間の抜けた声が上がる。永井に絡んでいた成田は「何だ、あの女」とひとりごち、すっかり永井への興味は失ったようで、「うおー、俺は三次会まで行くぞぉー」と奇声を上げていた。


ーーあ。


 厨房の方から私服に着替えた彼女が出てきた。バイトが上がったのだろうか。それともーー


 一瞬の逡巡の後、永井は席を立ち、仲間に断ることなく彼女の後を追いかけた。



「ーーあのっ、ちょっと待って!」

 彼女は思いのほか歩くのが速かった。夜の十時を回った繁華街は一層の賑わいを増し、行き交う人に阻まれ、思うように近づけない。呼び止めようにも彼女の名前が分からず、見失いそうになって焦った永井は強引に彼女の腕を後ろから掴んだ。途端、弾かれたように彼女が振り向く。

「・・・あ、さっきの」

 どうやら永井が誰か分かったらしい。強ばった彼女の表情がわずかに和らいだ。それにホッとして思わず笑顔になった永井だったが、彼女はすぐに警戒に満ちた眼差しに戻り、冷ややかな固い声で告げた。

「手、離して下さい」

「あっ、ごめん!」

「・・・何か用ですか?」

「あ、その、さっきはありがとう。本当に助かった。俺、アルコール分解できない体質で、あのまま飲んでたら確実に救急車で運ばれたから」

「・・・別にあなたを助けたわけじゃありません。私がああいうの、嫌いなだけです」

「うん。それでも本当にありがとう」

 永井が重ねてお礼を言うと、彼女は困ったように口元をもじもじさせ、視線をさまよわせた。どうやらストレートに感謝され、照れているらしい。永井はまた口元が緩みそうになるのを堪え、気になっていたことを訊ねた。

「もしかして、俺のせいで、バイト、クビになったりとかしてない?」

 図星だったようで彼女が軽く顔をしかめる。

「ごめーー」

「あーー、いいの。気にしないで。あなたのせいじゃないから。バイトなんて他にいくらでもあるし、ホントに、全然、問題ないから。ーーそれじゃ」

 永井の謝罪を遮り彼女が一方的に話を畳む。こちらに背を向けた彼女の腕を永井は反射のように掴んだ。先刻のリプレイのように彼女がギョッとした顔で振り向く。

「あっと、ごめん! あのさ、甘いもの好き? この近くに深夜までやってるおいしいタルト屋があるんだけど、よかったら一緒にどう? さっきのお礼にごちそうするから」

 掴んだ腕を慌てて離し、ホールドアップの体勢で一息に提案する。彼女は呆れたように長息し、胸の前で両腕を組んだ。

「何、今度は下手なナンパ?」

「あ、うん。でも下心はまだちょっとだけ」

 まさかあっさり肯定されると思っていなかったのだろう。彼女は口をあんぐりと開けたまま、珍獣でも目にしたかのようにまじまじと永井を見た。

「いや、だってないって言ったら嘘になるし、それに女の子に対して、全く下心がないっていうのは、それはそれで問題っていうか、逆に失礼だと思うんだよね」

 大真面目に補足すると、彼女がふっと吹き出した。

「何それ、へんなの」

 言葉とは裏腹に声も顔も笑っていて、永井は口元が緩むのを抑えられなかった。

 こうして彼女のいうとうころの「下手なナンパ」に成功した永井は、タルト屋でブルーベリータルトと夏期限定マンゴータルト、クリームチーズタルトの三品を注文し、またも彼女の口をあんぐりと開けさせた。

 オレンジタルトを注文した彼女ーー木村咲美は、タルトをつっつきつつ、

「三ヶ月前、私のイトコが会社の飲み会で一気飲み強要されて、急性アルコール中毒で死にかけたの。新入社員だから断れなかったみたいで。それ以来、ああいう無責任な煽りがどうにもスルーできなくなっちゃって・・・」

 と、しゃしゃり出た理由を語った。確かに身近な人がそんな目に遭っていたら、他人事とはいえ見過ごせなくなるのもムリはない。かなり大胆に思えた咲美の行動に合点がいった永井は改めて頭を下げた。

「本当にありがとう。木村さんは命の恩人だよ」

「そんな、大げさだってば」

 咲美が手をひらひら振りながら面映ゆそうに笑う。そのくすぐったそうな笑顔がやたらかわいくてーー、ちらちらと彼女を盗み見ながら食べたタルトは、この上なく甘く幸せな味がした。


                    *


「ーーへぇー。すげぇな。なんか、ちょっとドラマみてぇ」

 篠田が目を瞠り、感嘆の声を上げる。なれそめ話というのは相手が誰であれ、披露する方が気恥ずかしい。永井は曖昧に笑って肩を竦めた。

「じゃあ、ほとんどおまえの一目惚れだったわけだ」

「うーん、どうだろう」

 永井は思案顔で首を傾げた。一目惚れとはちょっと違う気もしているが、最初から好印象だったのは事実だ。そもそも相手のことをいつから好きになったのか、正確な日時を答えられる方が稀だろう。

「なぁ、その彼女と行ったタルト屋、この近くにあるのか? 」

 訊ねられ、篠田が相当な飲兵衛なくせに甘い物にも目がない両刀遣いだったことを思い出す。永井はにやりと笑った。

「うん。夜中までやってるってのが重宝がられるのか、この辺、店の入れ替わりが激しいんだけど、潰れずにまだやってるよ」

「じゃあ今日の締めはそこな。ーー俺さ、美雪に甘い物禁止令出されててよー」

 篠田ががくりと肩を落とし、ため息をつく。

「甘い物禁止令? 何じゃそりゃ」

「いや、実はもう一緒に暮らしてるんだけど・・・永井なら分かるだろ? こう、食後にさ、ちょっとだけ甘いもん欲しくなる時あるじゃん。エクレアとかシュークリームとかプリンとかさ。で、俺、仕事帰りにちょくちょく自分のと美雪の分のスイーツ買って帰ってたんだよ。そしたら最初は喜んでたのに、この前『あんた、あたしを太らせたいの!?』ってキレてよー」

 むつかしい顔で理解不能とばかりに頭を振る篠田に、永井は「はいはいはい」と笑いながら何度も頷いた。

「わかる。俺も似たようなことでサキ怒らせたことあるから」

「おおっ同士よ!」

 芝居がかった調子で手を伸ばしてきた篠田に、永井は、うむ、と厳かに頷くと、差し出された手を固く握った。そのままくつくつと笑い合う。

「ま、吉川には黙っててやるから、がっつりこっちで甘いもん食ってけ」

「おう。ーーじゃあ、お互いに結婚おめでとう!」

 共犯者じみたイタズラな笑顔をかわしあい、もう一度互いのグラスをぶつける。ガチンと無骨な音が鳴った。シャンパングラスを軽やかにチンと鳴らして祝福するより、この方が自分たちには似合っている。


 ーーほろ酔いって、こういう感覚なのかな。


 自分には一生体験できない感覚。それは今のこのふんわりと満ち足りた気分に似たものではないのか。

 旧友と過ごす秋の夜、永井はふとそんな感慨にかられ、満足げに微笑んだ。





(完)


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