「Jane Doe」
降り注ぐスポットライトの下、一枚の絵画が人目に晒されていた。
響き渡るオークショニアの声と共に、落札を示すガベルの音が大きく鳴る。
その日、俺は伝説のはじまりに立ち会ったのだ。
その人の絵が初めて世に出たのは数年前のオークション。
無名の画家にも関わらず、まさかの5000ロントからの高額スタート。
たかだが無名の画家の絵画に大きな屋敷が買えるほどの金額からのスタートなど聞いたことがなく、誰もが耳を疑った。
冷ややかな批判の声を帯びた会場の雰囲気が変化したのは一瞬の事だった。
ひとたびオークショニアが布を外し、絵画が人目に触れた時には会場中全ての人間がその絵の価値を正しく理解した。
騒がしかった会場がシンと静まり返り、目を大きく見開き固まった人々がその絵欲しさに喉を鳴らす。
誰もが呼吸すら忘れるこの異様な空気を、俺は生涯忘れることはないだろう。
その絵は、存在するだけで男女関係なく目で追ってしまう見目麗しい美青年が花に囲まれて眠る姿を描いた1枚の絵画であった。
花弁に垂れるひと房の艶やかな黒髪が色っぽくもあり、青年の純粋で穢れを知らない穏やかな寝顔と相反する美になんとも言えない神聖さを醸し出していた。
俺は当時、幼子ならではの浅い感想ではあるが、彼を神の使いだと思った。
それほどまでに美しく儚い、手に入れて自分だけで愛でたい。そんな、美しさとは反対にドロドロとした感情を起こさせる作品だったのだ。
翌日の新聞に白黒のあの絵画写真とオークションの落札詳細が掲載され大きな話題を呼んでいた。
名門貴族がこぞって値を吊り上げ、競りに競って最終的に絵画を落札したのは西側諸国の資産家、パトール家のご当主様だそうだ。
彼は、美術界でも有名な収集家でありながら独占的な人柄で有名である。彼の手に渡った美術品の多くはその後は人の目に触れることは無く、新聞によると今回の絵画も自国に持ち帰ってからは誰にも見せるつもりは無いそうだ。
二度とあの絵を見られない事実に悲しみにくれつつも俺は、素早く記事を読み進めて画家についての情報を探し続けた。
あの絵は二度と見れないかもしれないが、画家の名前が分かればあの絵に近い物が見れるかもしれないと考えたからだ。
だが続きを読んでも読んでも作品のタイトルはもちろん、画家についての情報は一切記載が無かったのである。
あのオークションから数年が経ち、時々あの人に感化されたであろう画家による贋作が出回るようになった。全くもって滑稽な事である。
どれだけの数の贋作が出ようと、人々があの画家と間違えることなどありえない。心中の奥深い、どす黒い感情を直接揺さぶってくるまるで、本人の命の欠片を燃やして描いているかと疑うほど肌に熱が伝わる独特な感覚。
人々をそんな感覚に堕とす画家は、1人しか居ないことを観客は知っているのだから。
鮮烈なデビューを飾り多くに人々を魅了した1人の画家はいつしか名無しを意味する「ジェーン・ドゥ」と呼ばれるようになった。
人々は正体不明の画家に日に日に魅了されていく。
まるで花に集まる蝶のように、熱烈に執拗に、執着を隠さず「ジェーン・ドゥ」を追いかける。
「ジェーン・ドゥ」――この世界においてそれは、1人の正体不明の天才画家を指す名であり、全画家の憧れでありながら同時に嫉妬の対象となった。
あのオークションの日、言ってしまえば無名の画家の絵画が1枚売れただけ。
だが、あまりに異質な物は他者の人生に大きな影響を与えていくのだ。
そんな正体不明の天才画家、「ジェーン・ドゥ」
その正体は、当時、齢わずか十一の1人の静かな少女であった。
悲しい感情を隠さず苦しそうにキャンバスに向かい続けて絵を描くその少女は、あの酷く惹き込まれる美しい絵を何を思って描いたのだろうか。




