それはセクハラを容認するということ
昔ながらの関わりと言えば、「飲みニケーション」や「接待」「飲み会」などである。
コロナ禍を過ぎて就職した私たちには、馴染みのない文化であり、飲み会はあるものの友達間で行うものばかりで「飲み」の文化も日々変化していると言える。
私たちが支援している世代は男と女の役割が明確に分かれており、身体の関係で成り立つ繋がりも数知れない世界で生きていたのであろう。
いつの時代も人と人の仲を深めるのは下の話であるのは私達も共感する。仲の良い友人だけと共有する話であり、それはそれは盛り上がる。しかし、自分の親世代の上司などに話すことはしない。別に知りたくもないし教えたくもない。聞かれたとしても知りたがる奴の気持ちはわからず、盛り上がることはない。
よくよく考えてみてほしい。自分の孫よりも歳の離れている異性に対して、性的な興味が湧くことがあるだろうか。また、そこまで世代の離れた人間と下の話で仲良くなるのだろうか。もしそんなことがあろうなら友達のおじいちゃん、おばあちゃんなんて生きているうちは怖くて会えやしない。
私が最近受け取った言葉をここに書きたい。
「こんな傷、君が舐めてくれたらすぐに治るよ」「そんなに近づかれると大きくなっちゃうよ」「胸を触っていい?」「ちゃんと食べないと発育しないよ」「個室になんて入っちゃっていいの?2人きりだよ」
若いからか、女だからか。他の職員からはそのような様子は聞かれない。
私達は仕事柄、患者様の体にも触れるし、個室で必要な検査を行うこともある。しかし必要以上に身体的にも心理的にも距離は詰めない。
学校では医療従事者には「傾聴」が必要だと学ぶ。「傾聴」とは相手の話に耳を傾けて、共感・受容を行う、否定をしないコミュニケーション、であった気がする。確かに、患者様との仲を深める、本音を探る為には重要な技法であるが、これに値しないような人間に対しても行わなければいけないのか。
私たちはそういう人間を拒否する権利はあるのだろうか。そういう人間から身を守る権利はあるのだろうか。身を守る手段を取ったとして、社会は私達を守ってくれるのだろうか。
医者から家族に告げられる、「セクハラ発言・行動がありました」宣告。
大体家族は涙ぐんで、医者に謝る。そして、「そんなことをしない人だった」と悲しみに浸る。私達をみて「酷いことをされてないか」「昔はそんな人じゃなかった」と訴える。
私達はどうすればいいのだろう。支援者だからと言って心の傷を負わないわけではない。認知症だから、脳梗塞の後遺症があるからといって私達がされた事は変わらない。悲しいのは分かる、だかなぜ私があなた方の悲しみや絶望を慰めないといけないのだ。
「何かされたか」と聞かれて「旦那様がこんなことを言いました」と正面から言ってやれるほど私には勇気がない。私が夫婦の関係を壊してしまわないか恐れているからだ。
どうしたらいいのだろう。年代でのギャップに加え、病気の影響で、衝動の抑制が効かない人間に対して私はどうしたら良いのだろう。
そして、1番家族が傷つくことであり家族と支援者、また家族と患者様の関係性を崩してしまう。
私達には話を傾聴する他に、こう言った性的な発言をさらりとかわす能力も求められる。学校で教えて欲しかった。またこれも閉鎖的であり、どうすることもなく日々介護・医療の場では容認するしか術のないことなのであろうか。
毎度、対応していただき、解決しておりますのでご心配なく。




