『愚かな私の屍体へ、愛を込めて』【2000文字】
わたしが書く理由ってなんだっけ。
上手になりたかったんだっけ。
もっと思った通りに書けるようになりたかったんだっけ。
面白いものが書けるようになりたかったんだっけ。
気づいたら、何日ももうパソコンを開いていなかった。
近所の散歩だけでは飽き足りず、最寄りの駅から電車に乗って、1個先、次は2個先、その次は3個先と降りたことのない駅をくぐった。
宛てもなくその周りを歩き、帰ってくるというのを繰り返した。
どこにも行かない。
どこにも行けない。
その事実を刻みつけるようで、まるで自傷行為だ。
どこにでもある同じコンビニ。
どこにでもある川。
どこにでもいる知らない人。
営みが続いているそれは、ひどく吐き気がした。
自分もその一部だし、自分もそれそのものだから。
わたしは変わりたくて、書いて、書いて、書いて、書いて、書いてきたけど、わたしもそれと同じということがわかっていくのが、なんとも苦かった。
せめて血の味くらいしたらよかったのに。
唇の皮を捲ってもこんな時だけうまく剥けちゃって、血も出なかった。
どこかに立ち寄ろうとは思えなかった。
降りたことのない駅の住人のフリでもすればよかったのかもしれない。
でも、そこにだけある個人経営の珈琲屋、古本屋。
見たことのない看板やチラシ。
それらを受け入れたらもう終わってしまうと、最後にSOSが鳴っていた。
わたしの内側から聞こえるそれを無視できなかった。
怖かった。
それも無視してしまったら、わたしはもう本当に”書かなくなってしまう”と。
それ以外に何もないのに、家もなく彷徨うこどもになってしまう。
それ以外も、本当はないのかもしれないと、また別のわたしが囁いてくる。
だから振り払うように、歩くしかないのだ。
よくわからない川沿いも、住宅街も、大通りも、歩いていくんだ。
他所の者がお邪魔しているという意志だけを持って、どこまでも歩いていった。
そんなことを何度もしているうちに、贅沢なもので、他の駅に行くのに飽きてしまった。
目新しさは日常になりかけ、期待は不変へと変わった。
だから久しぶりに近所の散歩に戻ることにした。
そしたらどうだろう、塩コショウ少々ぐらいには目新しいのだ。
慣れというものが、人を麻痺させていくのかもしれない。
慣れが人を油断させ、慣れが人を惑わす。
だから全てを見落としていく。
喫茶店の角を曲がった時そんなこと考えていたら、コーヒーの焙煎の匂いがふわりとして、腹と喉に従ってそこに入った。
ホットサンドを食べながら、家に帰ったらパソコンを開いてみようと思った。
慣れていたから、わたしは書けなくなっていたのかもしれない。
書くことが当たり前だから、書けなくなったのかもしれない。
慣れた生活の中から『慣れじゃなくなった』ものを見つけ出したから。
だから、今なら書けるかもしれない。
コーヒーを落ち着いた気持ちで飲み干しながら、一行目は『それでも汚く美しい』にしようと決めた。
毛穴ほどの希望に縋ってしまったのがいけなかったのか。
パソコンの画面を開いて、テキストを開いて、キーボードを打っても、それは全部デリートされるくらいの無いと一緒のものだった。
つまり、書けなかったんだ。
書いては消してしまった真っ白な画面は、何も書けてはいなかったのだ。
ああ、もしかしたら戻ってきたのかもしれないなんて思わなければよかった。
ようやくまた書けるようになるのかもしれないなんて、思っちゃいけなかった。
この世に自分より頼りないものは、他にない。
自分より信用ならないものはない。
自分の感触、感情、感覚、こんなもの信じちゃいけなかったんだ。
煌々と光るデスクトップが眩しかった。
だからもっと眩しくしてやるために、部屋の電気を消した。
そこだけが明るく光っている。
わたしは群がる虫のように、ひょろひょろとまたパソコンの前に戻った。
そうだ、そうやってわたしのことを責め続けてくれ。
わたしを照らして、惨めにさせといてくれ。
お前には書けやしないんだと、わたしの影を濃くしてくれ。
そしたら、お前なんかに何がわかるんだと、また、這い上がれるから。
この死に損ないがと罵ってくれて構わない。
そうしたら残念なことにわたしは蘇ってしまうんだ。
飴玉を口の中で転がす。
いつぞやの剥いた唇は、血色まで取り戻していた。
カランコロン。
デスクチェアに凭れながら天井を仰いで、くるくると半回転、そして逆回転。
散歩に行く気力も尽きたので、いよいよもう人として終わりな気がしてくる。
人としての終わりを迎えそうな今この時も、考えていることは書くことだ。
性懲りもないのだから、ほとほと愛想も尽きるというものだが、自分相手なのでとうに尽きていたと思い出す。
わたしが書きたい理由、そんなもん書きたい以外にないのだ。
だから結局、なんのために書くのかではなく、書くしかないから書くんだと諦めていく。
パソコンを開いて、なんとか一行目を出力した。
『愚かな私の屍体へ、愛を込めて』
了
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