君がいなくなる前に、もっと名前を呼びたかった
最新エピソード掲載日:2025/12/12
風が、穏やかだった。
山里にある小さな集落は、いつもと変わらず薪の匂いと土の温度に包まれ、人々は慎ましくも温かな暮らしを営んでいた。
霧雨朔也――五つになったばかりの少年も、その中にいた。
黒曜石のような瞳を輝かせ、父と母の後ろを小鹿のように駆け回る。三人で過ごす日々は短くとも確かで、朔也にとって世界のすべてだった。
朔也の小さな首には、父と母がふたりで作ってくれた首飾りがかけられていた。
お守りになるようにと願いを込め、父が形を整え、母が紐を編み込んで仕上げてくれた、大切な宝物だった。
朔也には、何があっても強く生きてほしい
その祈りが込められていた。
――しかし、その温もりは突然、形を失った。
夜。
空気は重く淀み、月が薄くかすむ。
山奥から、あり得ぬうなり声が響いた。
それは“鬼”と呼ばれる存在の中でも、伝承に語られる最悪の名。
酒呑童子。
地を震わせる足音と共に、炎のような妖気が集落を覆った。
父は朔也を抱え、母は震える手で背を押す。
「朔也、逃げなさい…!
決して振り返ってはなりません…!」
母の声は掠れていたが、強かった。
父はその前に立ちふさがり、酒呑童子の影に向かって刀を構える。
――轟音。
――闇。
――赤い光と、肉が裂ける音。
幼い朔也には、すべてがあまりに重く、早すぎた。
しかし、見てはいけないと思いながらも、振り返らずにはいられなかった。
そこには、必死に立ち向かう父と、震える母の姿。
そして――次の瞬間、二人の身体は鬼の腕によって宙に舞い、血に染まった地へと崩れ落ちた。
「……お、と、う、さ……お、か、あ…さ……」
声にならない声がこぼれた。
酒呑童子の巨大な影が朔也へと迫る。
だがその瞬間、首飾りの奥底から淡い光が溢れ、朔也の身体を包んだ。
光は眩しく、温かく、しかしどこか悲しみに満ちていた。
――まるで父と母の最後の祈りが宿っているかのように。
そして次の瞬間。
朔也の姿は、光とともに“この時代”からすべて消え去った。
彼が次に目を開ける先は――
遠い未来、そしてひとりの少女との出会いが待つ世界。
第1章
第1節 ― 目覚めた世界 ―
2025/12/12 19:01
(改)