第6話
12/13 改稿しました
それからは、彼の手がまるでおぞましい昆虫で出来ているとしか思えなくなった。服越しなのに、ドミニクが肩や腰に触れていると思うだけで、ユーニスは嫌悪感でいっぱいになる。直接肌が触れようものなら、彼の見ていないところですぐに洗っている。
メリンダは、ドミニクに養育費を要求しにきたらしい。
彼は父に相談し、代わりに金を出してもらったようだ。婚外子とはいえ、デレクア侯爵家の血を引いてしまっている。相場よりかなり高めの額を出したらしいが、口止め料も含まれているんだろうとユーニスは思った。
婚外子とはいえ、子どもができたのに自信が付いたのか、ドミニクは以前にもましてユーニスを求めてきた。
それを、跡継ぎのためにと我慢して受け入れる。それが、嫁いできた自分に求められる最大の務めだと我慢した。
よその女にも入れたソレが、自分の中に入ってくる気味の悪さに毎回吐き気をこらえながら耐える。彼の手が、指が、舌が、自分の身体を這いまわるのは文字通り虫が這うのと同じにしか感じない。
だから、行為中は決して目を閉じない。明かりも消さなくなった。目を開けて、そこに人間がいると思い込まないと、体中をかきむしりたくなってしまうから。
そうやって彼との夜を耐えていれば、いつかは収まり、きっと彼と元の関係に戻れるはずだ。そう、このときのユーニスは信じていた。
しかし、ドミニクの愚かさは治っていなかった。
それから1年後、またもや赤ちゃんを抱えた女性が2人の住む屋敷を訪れたのだ。
「の、ノーマ…!?」
「ああ、ドミニク様!見てください、あなたとの赤ちゃんです!」
ユーニスは、夫が女性を一目見て名前を呼んだ反応からすぐに悟る。
1年前に見たのと同じ反応。
彼は結局またやらかしたのだ。
(結局、何も変わっていないじゃないのよ!!)
それからは1年前と全く同じだ。
ユーニスの心に怒りと絶望が渦巻く。
やっぱり女性は養育費目当て。またデレクア侯爵が支払っている。
その後数日間、ユーニスはドミニクと顔を合わせることを拒否し、部屋に引きこもった。
そして、突然部屋から出てきたかと思うと、居間にいたドミニクの前に取り寄せた離縁状をテーブルへと強く叩きつけた。
「ゆ、ユーニス、これは……」
「書いてもらえますね?」
離縁状を前に、ドミニクは血の気を失っている。
ユーニスはただ閉じこもっていたわけではない。離縁状が届くのを待っていたのだ。教会へと取りに行かせる侍女の説得に時間がかかったけど、とにかく手に入れたからには使う。
もうユーニスのサインは済んでいる。あとは彼のサインさえ入れば、二人の離縁は完了するのだ。
(もういや、顔も見たくないわ)
ユーニスの心は完全にドミニクから離れていた。
一人目はぎりぎり耐えた。
気まぐれの過ちだっただけで、次はしない。
そう彼は誓ったはずなのに。
誓いは、紙きれのようにたやすく破られた。彼の言葉を信じた自分が馬鹿だったのだ。どうしてこんな男を信じてしまったのか、1年前の自分を嗤いたくなる。
夫は何も変わっていない。他の女性を抱いても、それをおくびにも出さない名演技っぷりだけは大層なものだ。
(顔もいいし、もう劇団員にでもなればいいんじゃないかしら?)
そんな明後日の事すら考えてしまう。そうでもしないと、憤怒で自分が何をしてしまうか、想像すらつかない。
「ま、待ってくれユーニス!今度こそ!今度こそちゃんとするから!もうしない!だから許してくれ!」
必死なドミニクの懇願。
声には涙がにじんでいるが、これも1年前と同じ。もう、ユーニスには何も届かない。
「許さなくてもいいじゃないですか。もうドミニク様には子どもも、産んでくださる女性もいるんです。その方と結婚すればよろしいでしょう?」
怒りを抑え、淡々と告げるユーニスを前に、ドミニクの顔は血の気を通り越して真っ青だ。ただでさえ線の細い彼がそうなると病人のよう。
けれど、そんなドミニクを前にしてもユーニスの気持ちは変わらない。
淡々と喋る姿からは想像できないほどに、内心の怒りは暴風雨のごとく荒れ狂っている。
(結局、私が我慢した意味は何だったのよ!?)
この1年。彼に抱かれるおぞましさから何度も吐き気と戦い、それでも子どもを産むためにと耐えてきたのに。
しかし相変わらず子宝には恵まれなかった。中に出された精を掻き出したい衝動に駆られても、歯を食いしばって抑え込んできたのだ。けれど、ユーニスの努力をすべてあざ笑う無慈悲な結果だけが、そこに残された。
今すぐにでも発狂したいところを、グラスに注いだ水が表面張力でこぼれないぎりぎりで耐えている。
にもかかわらず、夫は外で二人目を作った。その絶望もまた、ユーニスを離縁したい気持ちへと傾かせていた。
「頼む!なんでもするから、だから離縁だけは…!」
「なら、もうあなたとはしません」
「……えっ?」
「最低限、夜会のエスコートだけはされましょう。それ以外で、私に触れないでください」
「そ、そんな……」
ユーニスの言っている意味が分かったのだろう、ドミニクは体を震わせている。
表向きでしか、妻として振る舞う気はないと言ったのだ。それ以外の一切を拒否する。仲のいい夫人たちと話していると、ドミニクが自分を求める回数は多いのが分かった。
自分とそれだけしていても、余所の女性としたがる彼のことは理解したくない。応えようとも思わない。
これだけが、ユーニスが『ドミニクの妻』という肩書を背負う、唯一の条件。これを呑まないなら。離縁以外にあり得ない。
譲る気が一切ないことが分かってか、彼は条件を受け入れ、ユーニスに触れなくなった。
(もう無理だわ。ドミニク様には…触れられたくない)
これ以上は彼の身体にナイフを突き立てたくなってしまう。その手を、他の女性にも入れたソレを、切り落としたくなる。自分を見るその黒い瞳には、脳髄にまで届くくらいフォークを差し込みたい。
その衝動をぎりぎりでこらえ、離縁しない最大の妥協だ。
(もうどうでもいいわ、彼との子どもなんて。実家に帰ることさえなければ)
ユーニスにとっては、ドミニクとの離縁よりも問題なのは離縁後だ。
今離縁すれば、実家に帰るしかなくなる。
ドミニクと同じ屋敷で生活するのはイヤだ。しかしそれ以上に、恐ろしい父の下に戻りたくない。
この板挟みで、ユーニスは実家に戻りたくないから離縁しない道を選んだ。
子どもをつくらないのに文句を言われるかもしれない。
でも、ドミニクは次男で、跡継ぎの重要性は少ないのだ。
それこそ、彼が何かを継ぐわけではないから、子どもがいなくたってかまわない。商会にしても、彼は所詮雇われ店長に過ぎない。血縁ということで多少優遇されてはいるようだが、それが2人の子供にまで適応されるかは分からないのだ。
だったら、ドミニクを刺し殺しかねない衝動を抱えたまま、子どもを作ることに意義など見いだせなかった。
自分を引き裂きそうな怒りをこらえ、まだドミニクと同じ籍にいる。それは自己保身のため。夫のためなど、髪の毛一本ほどもなかった。
ドミニクとの接触をほぼ絶つようになってから数か月後。
ユーニスは侍女とともに、気分転換にと市街地に出掛けていた。
ドミニクとは最低限の接触しかしておらず、ほとんど顔も合わせない。
彼と会わなくても、同じ屋敷に居て、彼の働きで自分は食べている…それがユーニスの心を蝕んでいた。
(彼が離縁したくないと言っているから、離縁しない……結局、この状況に甘えているのは、私のほうなのかもしれないわね)
実家に帰りたくなくて、だからまだデレクアの性を名乗っている。そんな自分が滑稽で、情けない。
気をまぎらわそうとした散歩もあまり効果がないと感じていたとき、ユーニスの目にデレクア侯爵家が運営するインクラム商会の店舗が見えてきた。しかも、この店舗はドミニクが店長を務めている店だ。
(ドミニク様は、仕事をしているのかしら)
つい気になり、こっそりと店舗をうかがう。
店内には、男性ながら黒髪を長く伸ばす彼の背中が見えた。ちょうど接客中のようだが、その光景にユーニスは眉間にしわが寄る。
接客している相手は女性客だ。しかし、二人の距離はあまりにも近すぎて不自然である。
どう見ても、店主と客の距離感ではなく、まるで恋人のようだ。気になってよく観察すると、どうも女性側からドミニクに寄りそっているように見えた。
女性客がドミニクの耳元で何やら囁いた。それに彼は白い肌を朱に染めながら、何か言った。気を良くしたのか、女性客はドミニクにしなだれかかっていく。
明らかに密着している光景に、ユーニスは奥歯を噛み締める。
(ああやって、いろんな女性を助けているのね…)
きっと、客が欲しがった商品のサービスを頼まれ、彼はそれを受け入れたのだ。あれが、彼の言う人助けだというのだから失笑しかできない。ただ都合よく扱われているだけなのに、それに気付けない夫の姿が情けなかった。
女性客はドミニクから離れ、彼は商品をもってカウンターに向かった。
支払いが済むと、女性客はまた彼に近づき、今度は頬にキスをする。
それだけで、夫の頬は朱から真っ赤へと染まった。美丈夫の彼が照れる様は絵になるけど、ユーニスの目には弄ばれるだけの愚かな男の姿にしかみえない。
(はぁ…何も変わってないわね)
相変わらず、助けを求められれば答え、そこに下心を感じさせる彼の振る舞いに呆れるしかない。怒りはとうに燃えつきた。
ドミニクの父であるデレクア侯爵とは、数えるほどにしか顔を合わせていない。
そのとき、侯爵は息子のことを、『商才は無く顔で接客するしか能がない』と酷評していた。
そのときに、押しに弱い彼は求められるとあっさり商品を値下げしていると聞いた。もちろん、ただの店長でしかないドミニクにそんな権限はない。差額分は彼の給料から引かれているのだ。
つまり、彼がああやって女性客のためにサービスするのは、自身の給料を減らすことであり、巡り巡ってユーニスや屋敷で暮らす使用人たちの生活にも直結する。
当然彼にその自覚はない。人助けだから、それも『仕方がない』というのだ。悪気が一切ないのがどほど恐ろしいかは、彼の振る舞いが教えてくれた。彼自身は、悪気がなければ全て許されると思っている。優しいと思っていたドミニクの恐ろしい一面に気付いた時、ユーニスは初めて彼に恐怖を感じたものだ。
女性客が店を出ようとし、見送るのにドミニクも付いてくる。
ユーニスは慌てて踵を返し、彼らから見えない方向へと歩き出した。
(私には関係ない。もうドミニク様には触れてほしくないし、本当にただ書類上結婚してるだけ。……そう、あんな接客をしていても、どうでもいいことなのよ)
そうやって、夫の行為を見逃す。所詮接客の範疇であれば、そこに一々口出しはしない。…もう、これ以上外に子どもを作る真似さえしなければ。
けれど、心に生まれたモヤモヤは消えない。何も変わっていない彼の様子に嫌な予感を覚えながら、
ユーニスはその場を後にした。
それからまた数か月後。
ユーニスのぎりぎりの妥協すらも、ドミニクにとっては何の意味も無かったらしい。結局、このときの嫌な予感は現実となり、ユーニスに襲い掛かった。
「この子はドミニク様の子よ、認知してちょうだい!!」
窓の外からでも聞こえた叫び声に、ユーニスは手に持っていたカップを咄嗟に投げつけた。壁に当たり、カップは砕け、中の紅茶とともに破片が壁と床に散らばる。
両手で自分の身体を抱き締め、立てたツメが己の腕に食い込む。そうしなければ、部屋中のものを全てぶちまけてしまいそうで。
「お、奥様……」
侍女がすぐに寄りそうも、爪は皮膚に食い込み、赤く滲み始めている場所すらある。
「なん……なの、よぉ……!」
悲しみと怒りの感情が口から漏れた。
ユーニスの碧の瞳には涙が滲み、噛み締めている唇からは血が流れている。
(どこまで……どこまで私を馬鹿にすれば気が済むの!!)
泣いて謝ったドミニク。その度に、もうしないと誓ったたはずなのに。
彼は再び、誓いを破った。愚かな妻と内心せせら笑っていたのかもしれない。口から出まかせを信じ、妻という座に居座るユーニスを、馬鹿な女と見下していたのだ。
(あの涙はなんだったの!?もう信じられない!)
ドミニクの流す涙に真実はなかった。そこにあるのは、その場しのぎの虚構と偽りからにじみ出た、愚者に飲ませる蜜とは名ばかりの毒。
それからのユーニスにはもう迷いはなかった。涙をぬぐい、離縁のための準備を始めたのだった。
***




