第1話
12/12 改稿しました
「さぁ、サインしてください」
ユーニスは『離縁状』と書いてある紙をテーブルに差し出した。
ひとまとめに束ねた夕日を溶かし込んだような赤い髪が、前かがみになったときに前に垂れる。ソファーに座り直すと、そっと髪をかきあげた。
対面に座る夫を映すエメラルドグリーンの瞳は薄く細められ、顔には何の表情も浮かんでいない。だが、そこに秘めている感情は燃え盛る大火のごとき怒りだ。
一方、離縁状を突き付けられた夫のドミニクは青ざめ、動けない。
線が細く、白い肌の彼は見るからに優男の風貌だ。垂れ目の黒い瞳は泳ぎ、肩まで伸びた柔らかな黒髪は冷汗で額に張り付いている。
(もう、ここまでね)
ユーニスはドミニクとの関係修復を諦めた。
できるわけがないと、本能がそれを拒否している。
ドミニクが父から贈られたという屋敷はこじんまりとしていながら、熟練の使用人によって手入れは行き届いている。
二人がいる応接間も埃一つなく、室内には高級な調度品が鎮座していた。しかし空気は最悪の一言であり、ユーニスの怒りとドミニクの絶望感が混ざり漂っている。
ただならぬ空気に、壁に控える執事も侍女も一言も発せず、ただ二人の成り行きを見守ることしかできない。
4年前に結婚した二人は、そこそこに夫婦仲は良好であった。
……ドミニクの浮気癖さえなければ。
押しに弱い彼は、誘ってくる女性たちを断り切れずに行為に応じ、あげく子どもを身ごもらせた。
―――ユーニスとの間には、一人も子どもがいないのに。
現在、婚外子が3人もいるありさまだ。
このありえない状況に、ついにユーニスの堪忍袋の緒が切れた。
ドミニクの3度の裏切り。
4年に渡る結婚生活に、終止符が打たれようとしていた。
ユーニスとドミニクは政略結婚だ。
父が勝手に決めた結婚だったけど、ユーニスは相手が誰でも良かった。ドミニクとの結婚が決まった時に自分の心にあったのは、これからの結婚生活への不安よりも深い安堵だった。
(やっと、お父様の下から離れるときがきたのね)
ユーニスの父、シン伯爵は娘の教育に厳しかった。『どこに出しても恥ずかしくない淑女』が口癖で、ユーニスに何人も家庭教師をつけ、徹底的に教育を叩き込んだ。父が選んだ家庭教師は厳しく、ユーニスが泣いても逃げても容赦しない。
ユーニスの訴えは、父には届かなかった。どんなに嘆いても何も変わらない。母の諫める声にも耳を貸さず、ただひたすらにユーニスを淑女として育て上げるだけに心血を注ぐ、恐ろしい存在と化した。
結婚が決まり、家を出ることになったのはユーニスにとって救いも同然だった。
さらに、ドミニクが父と違って全く怒らない優しい性格の男性であったのも、ユーニスに安心感をもたらした。ひたすらに穏やかな彼は、ユーニスに大声一つ上げることはない。見た目の細さも相まって、少し頼りなく感じるところもあるが、それは自分がサポートすればいい。
彼はデレクア侯爵家の次男で、実家は商会を経営しており、その中の1店舗を任されている。収入は問題なく生活は安泰で、屋敷には怒声も誰かの嘆きもない。
怒らない夫。技術と礼儀に富んだ使用人たち。小さめながらも立地の良い新しい屋敷。ユーニスの新婚生活は、どこにも問題が見当たらない完璧さを見せていた。
(この方となら、きっと大丈夫。やっと、お父様の手から逃れ、穏やかにいられるのね)
しかしその確信は、わずか1年後に裏切られる。
ドミニクに婚外子がいたのが発覚したからだ。彼の血を引く赤ん坊を抱きかかえた女性が屋敷を訪れ、養育費を要求してきた。
要求された養育費は義実家が出してくれた。それもあり、お金はユーニスにはどうでもいい。
問題なのは、彼が妻でもない他の女性に誘われた程度で抱く、そんな軽い男である点。
「その、彼女が寂しいというから、他の誰にも言えなくてぼくにだけ助けを求めてきたんだ。だから、断れなくて……仕方ないんだ!すまない!」
そんな言い訳聞きたくもないのに、彼はユーニスには聞く義務があるとでも言いたいのか、わざわざべらべら喋ってくる。耳を引きちぎりたくなった。
他の女を抱いた手で触られるのは、鳥肌が立つほど嫌だった。けれど、跡継ぎのために我慢するしかないと諦める。ドミニクは「もう二度としない」と泣いて誓ったし、たった一度の過ちも許さないような、狭量な妻と思われたくないというのもあった。
でも、二人目ができた。
怒りで頭が埋め尽くされ、もう彼の言うことなど、何も信じられない。
自分以外の女性には触れないと誓った口で口づけをして、他の女性の肌を撫でた指が自分の肌も撫でていたのだ。気持ち悪くて、指一本とて触れてほしくない。
それ以降、ドミニクとは完全に寝所を分けた。ともにするような気持ちになれるはずもなく、その顔を見るだけで手が出そうになる。一つの部屋で同じ空気を吸うことすら気に障った。彼が食堂を使えば、すぐさま部屋を換気させるか、丸一日食堂には近づかない。
明らかに避けられていることにドミニクは気付いており、時折謝罪の手紙を渡してくる。読まずに全て暖炉で燃やした。
とはいえ侯爵家の次男の嫁として、夜会などに赴くときには、エスコートされる側として最低限の接触をすることは避けられない。人前では微笑みを忘れず、そっと彼の腕に手を添える。以前は素手だったが、今では白い手袋が欠かせない。
その時にしか触れられない妻の存在に、それでもドミニクは嬉しそうだった。彼はダンスを踊る時、ここぞとばかりに体を密着させようとする。まるで妻とは親密だと周りに見せつけるように。そして何より、ユーニスに自分は愛しているよとメッセージを贈ってくる。
それが死ぬほど嫌だったのに、気付かないドミニクのことが本当に嫌いになりそうになった。
だが今回、3人目の婚外子が明らかに。
ユーニスは限界だとばかりに、彼との離縁に踏み切った。
(もう、こんな男と同じ屋敷で生活なんてできないわ)
触れられさえしなければ、まだ大丈夫だと思っていた。同じ屋敷にいるだけ、書類上のつながりだけ、公的な場でのみ一緒にいるだけ。それさえ耐えれば、まだなんとかなる。そうやって自分を誤魔化し切れると思っていたのに。
違った。すでに無理だったのだ。グラスに注いだ水が、かろうじて表面張力でこぼれなかっただけ。そこに注がれたのは、同じサイズのグラスで汲まれた泥水。透明だった水は汚れ、溢れた水は周囲を濡らす。見せかけだけの平穏は完全に崩れてしまった。
もはやユーニスの目には、ドミニクが人の形をしただけのおぞましい何かにしか見えなくなった。
(自分には妻がいるからダメだと、どうしてその一言が言えないの?)
女性を気遣う優しさは素晴らしい。彼の優しさに、ユーニスも救われたと思っていた。
けれど、それは大きな勘違いだったのかもしれない。彼は優しくなかった。ただ、女性を拒否しないだけ。誰かを特別と思うこともなく、みな平等。妻であるはずのユーニスすら、その辺の行きずりの女性となんら変わらないのだ。
自分だけが彼を特別扱いしていたことに気付き、恥ずかしくなってくる。
「頼む、ユーニス。ぼくが本当に愛しているのは君だけなんだ!だから……」
そのセリフはもう3回目だ。
東の異国にはこんなことわざがあると聞いた。
『仏の顔も3度まで』
ユーニスの心境はまさにそれだ。もう許せないし、限界。
その答えが離縁状だ。
「あなたの気持ちなど知りません。だって、あなたは私の気持ちを知らないでしょう?他の女を抱いた手で触れてきたとき、私がその手を切り落としたいと何度思ったか…あなたに分かりますか?」
「い、いや、それは……ちゃ、ちゃんと洗ってるから!石けんで綺麗にしたし、アルコールで消毒だって……」
(この方は何を見当違いなのを言っているのかしら…)
ドミニクの幼稚すぎる言い訳に、ユーニスは呆れるしかなかった。綺麗汚いの問題ではないのに。
ドミニクの手はユーニスにだけ触れていいのに、それを彼は破った。他の女に触れた時点で、その手はもうユーニスが許した手ではなくなっている。ただの見知らぬ他人の手だ。
赤の他人に触れられるのがどれだけおぞましいか、それも分からないのに憤りを覚える。
「それに、ぼくは謝ったし、君も許してくれたじゃないか!」
「……許したからなんだと?」
「だ、だから、昔の件はもう終わってるわけで……」
ダン!と強い音を立てて、ユーニスはテーブルを叩いた。
ドミニクは体を震わせ、目を見開いている。貞淑だと思っていた妻の荒々しい行動が、信じられないようだ。
自分の手が痛いが、それ以上にドミニクの呆れた言い訳に腹が立って仕方がない。
引き結んだ口の中でかみ締めた歯からは、歯ぎしりが聞こえてきそうになる。
(許したから何?もう終わったですって?何を言っているのか、訳が分からないわ)
信じられなかった。
彼の中では、謝れば婚外子を作っても終わりだったようで、呆れて何も言えない。
許したのは、離縁はしないという一点だけに過ぎない。彼が婚外子を作ったのを無かったことにした覚えはなく、それを許していないから彼に触れられたくない。これでは断腸の思いで許しを出した自分が馬鹿みたいだ。
けれど、ドミニクの不誠実極まりない行動に納得もいく。
ユーニスが許したから、彼は3人目を作るに至ったのだと。
―――なら、もう許しに意味はない。
ドミニクは何度も謝罪し、またも泣きだしたけど、ユーニスの意思は変わらなかった。
結局、ドミニクは泣きながら離縁状にサインをする。
それをユーニスはすばやく回収し、自分の手で教会へ提出すると言った。
「い、いや、それは執事にやらせるから、ぼくが預かるよ」
「信用できません」
ユーニスはぴしゃりと言い放つ。
ドミニクの未練たらたらな様子を見ると、正直に提出するとは思えない。こっそり隠して、「実は離縁してません」では済まされたくなかった。
離縁状を手にしたユーニスは、自分の荷物をまとめると、執事に使用人たちを集めてもらった。
ドミニクが3人目の婚外子を作った情報は、さっきの騒ぎで屋敷中に知れ渡っている。
ユーニスが離縁し、この屋敷を出て行くと言っても誰も止めなかった。
こうも主人が妻を蔑ろにするさまを見せつけてきて、引き止めるなどできるわけがない。
「ありがとう、みんな。4年間、世話になったわ。元気でね」
「奥様…いえ、ユーニスお嬢様。われらもお嬢様には大変お世話になりました。お嬢様こそお元気で」
執事の見送りの言葉を最後に、ユーニスはその日に屋敷を出ていった。
ユーニスにはドミニクが贈ったドレスや宝飾品、服などたくさんあったが、全て置いてきている。
(あんな男からの贈り物なんて、二度と身に着けたくないわ)
売るという選択もあったけど、それをするにはまだ数日あの屋敷に滞在しないとならないだろう。それはもう我慢ならなかった。
結局、大きめのカバン一つに荷物はまとまり、それをよたよたと抱えながら、教会へと向かう。
女性が自ら離縁状を教会に持ってくるのは珍しいと思われつつ、ちゃんと受理してもらえた。
無事に離縁が成立し、ようやくドミニクから解放された心中は、雲一つない空のように爽快。
(あー、なんかスッキリしたわ!今からお酒でも飲みたい気分よ)
教会前の道路で、ユーニスは思いっきり伸びをした。
実家やドミニクと住んでいた屋敷ではできなかった、淑女にあるまじきポーズだが、もうそれを気にする相手もいない。
顔にはこれまでの結婚生活で失っていた、清々しい笑顔が浮かんでいる。
正午を過ぎて少し傾き始めた太陽の下で、その光を全身で味わう感覚にユーニスはしばし浸った。




