39.半年前の記憶と殺人鬼①
目覚めたぼくが最初に見たのは種類の分からない虫の死骸で、その干からびた細部までが至近距離で入って、「うわ」と声を上げた。
「結構元気そうだね」
床に転がされたぼくの耳にその声が届いた。今更ではあるけど、死んだ虫の目を間近で見てしまった時より驚愕を覚えて、心拍数が上がる。首を捻り、見上げた先では姿形のいい男が余裕の表情でぼくを見下ろしていた。
「もう目覚めちゃうなんて、スタンガンって大したことないね。やっぱり自分で力加減ができるものじゃないとダメだね。信用できない」
城崎の口からは使用感のレビューでもするような言葉が零れ落ちる。
窺い見たぼくの両腕は後ろ手に拘束されていて、少し動かしただけでも両手首にきつく革の拘束具が食い込んだ。周囲は暗く、辺りを照らすのは壁際にぽつんと投げ置かれたアウトドア用のランタン一つしかない。
冷たい床はコンクリートが剥き出しの状態になっていて、この建物自体が随分と古いものなのか所々抜け落ちている。身を捩り、抜け落ちたその穴を覗き込んでみると、崩れた箇所から凶器のように飛び出した鉄筋と真っ暗な階下が見えた。顔を上げてもう一度周囲を見回してみれば塵と埃が堆積した床同様、壁も塗り込めたように黒く薄汚れている。古い、という形容詞に更に薄汚れたと付け足すべき二階以上の建物の床に、ぼくは転がされているようだった。
「陸の孤島、いや、都会の中の孤島かな」
周囲を窺うぼくの様子を気にするでもなく、城崎が告げる。
「御蔵島君、ここは一体どこだと思う? ここはね、人里離れた山奥の山荘でも無人の孤島の一軒家でもないんだ。きっと君だってこの前を通り過ぎたことがあるはずだよ。ここは街の目抜き通りにある建物なんだ。内部はご覧のとおりこの世の終わりみたいに荒れ果てているけど、外からはただの廃業したビジネスホテルにしか見えない。数年前に売り出されていたのを僕が見つけて買い取ったんだけど、その頃は勝手に住み着いたホームレス達が根城にしていたね。でも僕が買い取って僕のものになったんだから、彼等には好意的に退去してもらったよ。まぁ、ちょっと可哀想だったけど、邪魔だったからね」
見上げて確かめた窓は、全て板や防音シートで塞がれている。きっとどれだけ声を上げようと、誰の耳にも届くことはないのだろう。城崎の言葉どおり都会の孤島とはよく言ったもので、壁一枚隔てたこちら側は外部と完全に孤立した状態にある。ぼくは好意的に退去させられたホームレスの行方を案じてみた。でも今は人の心配をしている場合でもないのは分かっていた。
「今晩は外が騒がしいね」
外ではハロウィンの騒ぎがまだ続いているようだった。賑やかな喧噪もこの隔たれた場所には、微かなざわめきにしか伝わってこない。現状は把握できてもポジティブな要素は何一つ湧いてこなかった。あるのは絶望的展開に一直線に繋がるネガティブなものばかりだった。
「ぼくに……何か用ですか……?」
為すこともなく、ぼくは城崎に問いかけた。そう訊くのもおかしな感じがしたけれど、床に転がされたまま何も言わずにいるのも不安すぎた。
「用か……そうだね、じゃ取りあえず僕の話でも聞いてもらおうか」
城崎は傍の椅子に軽く腰かけると、いつもと変わらぬ様子で話し始めた。
ぼくはすぐに彼に問いかけたことを後悔していた。
今この場で彼の口から語られるものが愉快なものであるはずがない。
事実、そのとおりだった。
「僕の城崎っていう名字は十二才の時からのものなんだ。その前は木内って名だったんだ」
十二才の木内覚少年はある日、両親とその日家を訪れていた叔父を殺した。
きっかけが何だったのか、木内少年自身も覚えていない。彼はその覚えてもいない理由で父母を順に刺殺した後、借金の申し込みをしに来ていた叔父を絞殺して、十二年間自分が育った家に火を放った。
殺人に放火。この無慈悲な事件の唯一の生存者となった少年に世間は多大な同情と関心を向け、警察はその世論に押し出される形で大々的に捜査を行った。しかし日頃から金策に奔走していた叔父の素行がよくなかったことから、彼が諍いの末に兄夫婦を殺害し、自らの命を絶ったと早々に結論を出した。結果、十二才の少年が犯した罪は暴かれることなく、彼は悲劇に見舞われた少年の立場を守ったままこの事件は幕引きを迎えた。
「その後、僕は子供のいなかった城崎夫妻に引き取られた。僕の生まれた家以上に裕福な家庭だったから、とても幸せな少年時代を過ごしたよ」
ルックスもよく頭脳も明晰だった城崎少年は、中学高校と恵まれた日々を過ごす。だがその間も彼の内側にある邪悪なものは大きく育っていった。
「あれは十五の夏だった」
中学最後の夏休み、彼は友人達と訪れた南の島で初めて家族以外の人間を手にかけた。島で知り合った四つ年上の女性を草陰で人知れず絞殺したのだった。
「あの時の感触は今でも忘れられないよ。これは君にだから告白するけど、この時から女性の死と性的な快感が結びつくようになったんだ。こんなプライヴェートなこと、他の誰にも言ったことないよ」
一人旅をしていたバックパッカーの彼女の遺体は数年後に見つかったが、物証は全て波と時間が攫っていってしまった。
「不定期ながら愉しむようになったのは割と最近のことなんだよ」
二年前、城崎夫妻が自動車事故で亡くなった後、彼等の莫大な財産を相続した彼は歯科医院を開業し、この廃墟ホテルを購入した。
「君は今いる場所しか知らないと思うけど、この建物は迷路みたいになってるんだ。僕以外の人間が出口を知ることはないけどね」
あの動画が撮られた場所がここであると気づいていた。
映像の中の彼女が感じた恐怖、映像の中の彼女の絶叫、それらは今もここに残存している。
この廃墟は彼がおぞましい趣味を誰にも邪魔されず愉しむ狩り場であり、歪んだ愉悦を存分に得るための巣だった。
「君と僕は違うけど、なんだか同じような気配もするんだ。それだから君に興味を持ったんだ。どんな人間なんだろうってね」
頭上からは信じられない言葉が降っていた。動揺と微かな絶望を感じてすぐには動けずに、ぼくはゆっくりと顔を上げた。
「あなたとぼくが……?」
「そうだよ。だから仲よくやろうよ。共に両親を手にかけた者同士さ。そんな君にだから色々と告白してるんだよ」
ぼくは何も言わずただ黙った。
この相手に返すための言葉は、何一つ思い浮かばなかった。
彼を初めて見た時に感じたあの直感は間違っていなかった。人殺しの過去をまるで壇上のスピーチのように揚々と語る姿は、言い表すことのできないもので満ちていた。
あのマンションで彼を見た夜、彼は土を掘って何をしていたのだろう。自分の身を危険に晒す証拠品の隠匿でも謀っていたのだろうか。暗い記憶の中、ぼくが埋葬したカラスの目玉が蘇る。何のことはない、ぼくも同じように土を掘ったのだ。彼と同じく、人目を避けるように暗がりで。
急激に喉が干上がっていた。
耐え切れず、ぼくは汚れた床に嘔吐していた。
「うわっ、なんだよ、汚いな」
頭上からは男の蔑む声が聞こえた。吐瀉物の上で不自由な身を捩るぼくの顔を、男が真上から見下ろしていた。
「だけどね、これで分かったよ。君はやっぱり僕が思っていたような人間じゃなかったみたいだ。今のその姿を見て確信したよ」
男は屈み込むと、息がかかるほど顔を寄せた。
「それにそうじゃないなら、君、ちょっと怖いよ。僕の何かをいつか脅かしそうだ。だから早々に始末することにしたよ」
男は立ち上がり再びぼくを見下ろした。その姿を見上げながらぼくは思った。
彼が人殺しの経緯と自らの生い立ちを包み隠さず話したのは、語った相手がもう誰にもそれらを吹聴できないと分かっていたからだ。
「ホームレスの連中はあまりにも他愛なかったから、つまらなかった。でも君なら大丈夫だよね? なんだか打たれ強そうだもの」
ブレザーの襟ぐりを掴み取った城崎がぼくを引き上げるように立たせる。ふらつきながらも立ち上がるとその瞬間、城崎の拳がぼくの顔面を強打した。
「いいねぇ、そのまま立ってるといいよ。また起こすのは面倒だから」
どうにか膝をつかなかったぼくに城崎が言う。その言葉を終えると同時に素早い拳が顎を捉える。格闘技の経験でもあるのか拳の攻撃に相当のキレがある。でもこの相手に向けた賞賛の言葉など、一欠片も思い浮かべたくなかった。
「女を殴るのは気が引けるけど、君ならいいか」
城崎の得意げな声が響く。それを聞いたぼくの表情が歪んだ。
「……殴らないだけで……切り裂いてるだろ……偽善者ぶってんな……」
「口が悪いな、君」
僅かな虚勢を踏み潰すように先程よりもっと強烈な打撃、そして蹴りが来る。
倒れたところで頭を踏みつけられた。
無理矢理立たせられ、身体が浮くほど蹴り上げられる。
無言で進められていく一方的な攻撃。
この前のチンピラのおふざけ半分の暴力じゃない。相手をいたぶって、愉しんで、殺す。
そのための暴力だった。
ぼくの僅か残った虚勢などとっくに砕け散っていた。
突っ伏した床には黒く変色した血がこびりついている。
でもそれは血だけじゃなかった。
様々な色の毛髪、破れた皮膚の欠片、萎びた肉片のようなもの……禍々しさで満ちたそれらのものが変色した血痕と絡み合うようにこびりついていた。
あの夜の映像の記憶が不意に蘇った。
城崎にナイフを突き立てられた彼女は噴水のように血を吹き出しながら床に倒れていった。間を置かずその場で解体される身体、耳を塞ぎたくなるような粘り気を帯びた生々しい音……。
もう限界だった。
全ての思考を放棄して、ぼくは床に頭を擦りつけながら狂ったみたいに叫んでいた。
「うわー、うわー、うわーっ!」
精神的に追い詰められ、理性も残っていなかった。ただこの場から脱しようとじたばた足掻く熱湯の中で溺れた虫みたいに、自分を見下ろす男からの逃避を図っていた。
「昨日数えてみたんだ。十二人いたよ。君に映像を送ったのが十二人目だった。でも今日で十三人目だ」
けれどこの男の存在と言葉はずっとぼくを追いかけてくる。
逃げ場などどこにもない。
「世の中は無情だ。今日君は僕に殺されて死ぬ」
放たれた言葉が闇に拡散した。
半年前のあの夜と同じだとぼくは思った。
あの時も何もできなかった。
何もできないぼくの目の前で両親は死んだ。
ぼくは死んでいく両親の前で何をすることもできなかった。
「みっともないね。意外と手応えなかったよ。そうだ。言っておくけど君の死体を始末した後は、君の大事なあの子と存分に楽しもうと思ってるよ」
地に伏したぼくの耳にその言葉が流れ込んだ。
再び大事な人を失ってしまうこと。
それがまた起ころうとしていた。
そんなことなど、もう二度と絶対あってはならないものだった。
絶対、二度と引き起こしてはならないものだった。
拒絶。
全てをなぎ払う強烈なその感情が、ぼくの腹部から湧き上がっていた。
一度は掻き消えようとした青白い炎のようなそれが一気に燃え盛っていた。
「そろそろ飽きてきたよ」
クソな暴力で全てを支配しようとするクソな男がぼくを見下げている。
俯くぼくの顔を爪先で上げさせたクソな男を、ぼくは冷たい目で見上げた。
「なんだよその目、今更やる気を出しても遅いよ」
嘲笑う男の目は、ぼくの破れたシャツの胸元に留まった。
「へぇ、珍しいものを身につけてるんだな。それに変わったデザインだ」
男の目は時雨から与えられたペンダントに向いていた。
トップには暗い色の石。
彼のような人間が惹かれるのも無理はない代物かもしれなかった。
「石も変わってる。これは本格的に血で汚れる前に僕がもらっておいてあげるよ」
男は当然の行為と言わんばかりに伸ばした手で鎖を引きちぎった。
ペンダントは青白く沈んだ皮膚の上を離れ、相手の手に渡っていった。
――それはぼくがやったんじゃあないから。
ぼくは心の中でそう呟く。自らの意思とは関係なく始動する〝それ〟はペンダントがぼくの身体を離れた直後に起動した。
「うがああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
ぼくは叫び声を上げた。
その場に丸まって力の限り叫ぶ。
急激なその変容に城崎がたじろぐ。
振り絞るような長い長い叫び。ぼくが叫び続けているのはそうでもしないと痛みのあまり、ぼくがぼくの正気を保っていられないからだった。
汚れた制服のシャツに、今度は赤い血が滲んでいく。
バネのようにはじけた腕の反動で、革の拘束具がちぎれ飛んだ。
制服のブレザーが破れて裂けた。
シャツもズボンも同様に裂けた。
目の前の男の驚愕した表情を、ぼくは初めて目にしていた。
半年前、両親は暴漢に殺された。
二年に進級するお祝いにと、一緒に食事に出かけた帰りだった。
行き慣れていないレストランからの帰り道で迷ってしまったのは誰のせいでもなかった。
その途中、寂れた駐車場の片隅で強盗に出会ってしまったのも、誰のせいでもなかった。




