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地獄へ道づれ  作者: 長谷川昏
5.歯科医と死骸/嫉妬と失われる恋/ハロウィンの夜と最後になるかもしれない眠り
36/42

36.逃走

 先週ぼくはあの歯科医院に行った時に受付で自分の名前と住所と電話番号、それとメールアドレスを問診票に書き込んでいた。だからそれ以降は歯科医院にいる誰にでもそれらを知ることはできたはずだった。もちろん今の世の中、そういった情報はどこからでも手に入れられる可能性はある。けれどカラスの件や昨晩の動画、ぼくの周囲で立て続けに起こったそれらの出来事は、ぼくがあの歯科医院に行って(城崎)と出会ってから起きたことだった。


 夕方、ぼくは城崎デンタルクリニックの前にいた。

 一晩考えて、直接彼に会いに行くことにした。

 カラスの件や動画のことだけじゃない。城崎がいつの間にかぼくの生活圏に入り込んで浸食しようとしているような、そんな感触をこの数日感じていたからだった。


「やだなぁ、御蔵島君。それは考えすぎだよ」

 硬い表情のぼくに城崎は笑いながらそう答えた。招き入れられた診察室には誰の姿もなかった。木曜の午後は休診で、病院にいたのは医院長の城崎だけだった。

「じゃあ君は僕が君の自宅前にカラスの死骸を置いたり、こんな陰惨で不気味な映像をわざわざ送ったって言うのかい?」


 城崎に案内され、事務用椅子に腰を下ろしたぼくは、傍らに立った彼に一連のことを順に語った。

 (城崎)がやったという確証は何もない。だから闇雲に追求するのではなく、あくまでもこういったことが起きたと伝え、その反応を探るつもりだった。でも勘のいい彼はぼくのそんな浅い策略などお見通しのようだった。手にした歯の模型を弄んだりしながら特に動揺を窺わせるでもなく、それどころか歯科医院という彼自身の城でもあるこの場所でとてもリラックスしているようにさえ見えた。


「でもさ御蔵島君、僕が優しい男でよかったね。普通だったらこんな疑い、絶対許されないことだよ」

 城崎はそう言って微笑んだ。彼はぼくが連ねた言葉に呆れ顔をするだけで、怒る様子すら見せていなかった。いつものように優しげな笑みを浮かべたままだった。


 夕方の光がブラインドの隙間から弱々しく差し込んでいた。

 気まずい沈黙の中、ぼくは不安になり始めていた。抱き続けた懐疑的な思いに端を発して彼に衝動的に疑いを向けたけれど、それが単なるぼくの思い込みでしかないという線は未だ消えていない。

 だけど心の奥に根を張るぼくの拙くもしぶとい直感が、この疑惑を揺るぎないものにしている。でもその直感自体が的外れな間違いでしかないとしたら、証拠も何もないこの些末な疑惑に確かなものなど何もなかった。


「それよりさ、御蔵島君。僕は君のことを調べたよ」

「ぼくの、こと……?」

 ぼくは弱々しく差し込む夕暮れの日射しのような目で相手を見上げた。

「新聞やニュースの扱いは随分小さかったから、調べるのは少し手間だったよ。君、半年前になかなか大変な目に遭ってるんだねぇ、驚いたよ。とても大変だったんだねぇ」

 彼は楽しそうにも見える素振りで言葉を続ける。

「でも思うんだ、新聞に載ったりニュースになったりしたことは本当に本当のこと? 僕にだけは教えてよ、本当のことをさ。()()()()()()のは本当はあの死んだ男じゃなく、()()()()()んじゃあないの? 君自身が君の父親と母親を殺……」


 がたん、と大きな音が響いた。

 背後には勢いよく立ち上がったせいでぼくが押し倒してしまった椅子がある。そのまま相手の姿を一度も見ずに誰もいない診察室を横切ると、診察室のドアノブを握った。

 ここにはもう一秒たりともいたくなかった。

 この男の言葉ももう耳にしたくない。

 けれど相手はそれを許さず、いつもの優しげな声を投げかけた。


「ねぇ、逃げるのかい? 御蔵島君」

 ドアノブを握った手はその声に怯えて止まる。その様子を垣間見た男の追撃は止まなかった。

「まぁそれでもいいよ。君がそうやって逃げるなら、僕は君の大事な彼女で遊ぶとするよ」


 楽しげな半笑いの声が背に届いた。

 ぼくはその言葉に何も言い返せず、何もすることもできず、何をしようとも思わなかった。

 ただ後ろを一度も振り返らず、その場から逃げ出していた。

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