34.段々近づいてくる
次の日の夕方だった。
帰宅したぼくはマンションのロビーに可奈子の母、裕子さんの姿があることに気づいた。
彼女はちょうどロビーの柱の陰にいる誰かと話し込んでいるらしく、随分と楽しそうだった。
ぼくは彼女に挨拶をするためにあまり深く考えないで近づいていった。けれど二人分の話し声が耳に届くまで歩み寄った時、ぼくの足は急激に速度を落とすことになった。
「やぁ、御蔵島君」
柱の陰から姿を現したのは城崎だった。その事実を前に鳥肌が立つのを抑えられなかった。
「あら、おかえりなさい、要君」
その場にいた裕子さんも、ぼくに気づいて声をかけてくる。でもぼくは何も反応することができずに黙ったままでいた。こちらの心内など知るはずもない裕子さんはいつもと変わらぬ様子で話しかけてきた。
「タイミングがいいわねぇ。ちょうど今、要君の話をしていたところなのよ」
「……え」
「要君、城崎さんと知り合いだったのね」
「え、ええ……まぁ……」
鈍い返事をするぼくに裕子さんはここに至るまでの事の次第を語った。
彼女は夕方、パートの仕事を終えていつものスーパーに立ち寄った。すると残り少なくなっていた米が特売になっていたのを目にして、つい後先も考えず購入してしまった。店の前で他の荷物とも合わせたその重さに困窮していたところ、ちょうど通りがかった青年(城崎)に「お手伝いしましょうか?」と声をかけられ、助けられたという。
「ご親切に家まで運んでくださって本当に助かりました、城崎さん」
「いえ、こんなことぐらいお安いご用ですよ。だけど次からは持てる量だけ買ってくださいね」
「ええ、本当にそうね、いやだわ、私ったら」
「でもまたそうなったらその時も助けますよ」
「あら? そんなふうに言われたら本気にしちゃうわよ。なんて、今後は気をつけます」
裕子さんと城崎は軽い冗談を交わしながら和やかな会話を続けている。
表情も声色も穏やかな彼は、初対面の相手であっても警戒させない雰囲気を持ち備えている。
目の前には、ぼくが城崎を知らなければ、ただ笑ってやり過ごせるであろう光景しか存在していない。けれどその見た目どおりのことが起きているとは、どうしても思えなかった。
ぼく一人がただそう思っているだけの妄想的杞憂だと信じたい。でもそう思い込むこと自体が難しかった。そして胸の奥に留まる一つの疑念も消えていかない。
彼が裕子さんとスーパーで出会ったのは本当に偶然なんだろうか。
彼は本当に通りがかっただけなのだろうか……。
「あー、お母さん、それに要も!」
届いたその声にぼくは一層身を固くした。
「おかえりー、可奈子」
微笑む裕子さんは帰宅した娘に明るく声をかける。母親と友人がロビーにいるのに気づいた可奈子は足取りも軽く歩み寄る途中で、その場にいたもう一人の存在に目を留めた。
「えっと……城崎さん、でしたよね?」
城崎の方は可奈子の姿を捉えると驚きの表情を垣間見せ、目の前の女性達を再度順に見た。
「もしかして裕子さんは君のお母さん……?」
「はい、そうです」
「えっ? 城崎さん、可奈子とも面識があるんですか?」
「ええ、そうなんですよ……と言っても昨日会ったばかりなんですけどね。その時は残念ながら少ししかお話しできなかったけど」
そう語る城崎がぼくを一瞥する。その顔には含みのある笑みが浮かんだ。
「昨日はちょっと僕が可奈子ちゃんに馴れ馴れしくしちゃったから、御蔵島君が心配しちゃったんだよね」
続いたその言葉にぼくは追い詰められたような気分になって、しどろもどろに返事を戻す。
「そ、そんなことないです……」
「あらー? その心配って一体どういう意味なのかしら? 結構意味深?」
「もー、お母さん、野次馬みたいに話に乗っからないでよー、要が困ってるでしょ」
「……」
「あっ、ごめんなさい、要君。要君の気持ちも考えずに、悪乗りしちゃって……」
「あー、もしかして僕、空気も読まずに余計なこと言っちゃったのかな?」
「……いえ、あの……すみません……気にしないでください……それに昨日は……失礼しました……」
「ん? 昨日のこと? ああ、そんなの全然大丈夫だったよ。あんなこと、ちっとも気にしてないから」
城崎が上手く切り返したことで、意図せずぼくが曇らせてしまった場の空気は体裁を保った。裕子さんと可奈子、それと城崎、ぼくを除いた三人はまだ会話を続けていたけれど、それが途切れた合間を見取って城崎が声を上げた。
「それじゃ、お手伝いできるご家族も戻られたことですし、僕はこれで」
場のお開きをスマートに促した城崎は、最後に歯科医師の名刺を裕子さんに手渡すと、その場に留まって彼女達を見送った。荷物を分担した裕子さんと可奈子は挨拶を終え、共にエレベーターの方に向かい始めている。それに続こうとしたぼくの背後に城崎が這い寄るように忍び寄った。
「ねぇ、君の周り、なんだか随分幸せそうで楽しそうだね」
耳元で囁かれたその声が、鼓膜を伝って背筋まで震わせる。
思わず立ち止まり、その場でどれくらい呆けていたか分からなかった。
気づけば周りには誰もいなくなっていた。




