33.路上の邂逅
それから三日後の週が明けた月曜日。
ぼくの記憶からあのカラスの出来事はようやく薄れかけていた。
放課後、ぼくは凛太朗とファストフード店にいた。いつものようにどうでもいいくだらない話をしながら時間を過ごしていた。
「そういえば付き合い始めたあのナースとはどうなったの?」
ぼくはふとそのことを思い出して凛太朗に訊ねた。けれど返ったのは怪訝な表情だった。
「……それ何……?」
「何って、妖怪生気絞り取りの美人ナースだよ!」
「妖怪……? 俺、そんなこと言ったっけ……」
「妖怪ってのはぼくが言い出したんだけど……あー、もうなんかいいよ、既に忘却の彼方にあるみたいだし」
「ああ、今思い出した、あの時の彼女ね……なんか彼女、俺より親父の方に興味持ったみたいで、そっちにアプローチかけ始めたから放っておくことにした」
「え? 与一さんに?」
「でも親父は今も母さんのことが忘れられないからすぐに振られてた。で、それっきり。俺の所にも戻ってこなかった……」
「戻ってこなかったって、戻ってきてほしかったわけ?」
「それならそれでよかった。身体の相性とか結構よかったし」
「……ああ、そう……」
ぼくはいつものなんだかなぁと思ってしまう結末に行き着く凛太朗の話を聞きながら、ちょっと納得のいかない思いを抱きつつも安堵していた。
一方では暗黒のような出来事が起こっているけれど、このどうでもいい空間では以前と変わらぬ時間が流れている。碌でもないことが起きたとしても、またここに戻ってくることができればまだいつでも取り返しがつくような気がして、そんな希望も抱かせてくれる。現実がそんなに甘くはないことも分かってはいるけれど、今のこの間だけはそう感じていたかった。
その後まだ小一時間ぐらいどうでもいい話をして、本屋に寄ると言った凛太朗と別れるとぼくは家に向かって歩き始めた。今日は一日天気もよく、夕方になってもまだ明るさは残っていた。カラスの件もより忘却の彼方に追いやることができそうで、歩く足も軽やかだった。
「かなめー」
「可奈子?」
おまけに途中で可奈子と鉢合わせていた。部活動に熱心な可奈子とは帰り時間が一緒になることなど滅多になく、通学路でもない場所でこうやって出会したのはいくつかの偶然が重なった上の希有な出来事だった。
「可奈子、今日は帰りが早くない?」
「うん、部活を早めに切り上げて、今日はみんなでアイス食べに行ってたんだー」
可奈子は笑顔を見せると、ぼくの隣に並んで歩き始めた。余程アイスがおいしかったのか、部の仲間と過ごした時間が余程楽しかったのか、その表情に余韻を残していた。
「要は何してたの、こんな時間まで」
「凛太朗と馬鹿話してたらこんな時間になってた」
「そっかー、楽しかった?」
「まぁいつもどおり」
「いつもどおりかー、でもそういうのが一番いいよねー。ねぇそういえば、時雨ちゃん、もう帰ってきた? この前は確か三、四日で戻るって言ってたよね」
「ああ……うん、そう、だったよね……」
ぼくは可奈子に曖昧な表情を向けると曖昧な返事を戻した。
三、四日で戻る、と言ったのは時雨本人だった。けれど彼女は未だ戻らず、既にいなくなって五日が経ち、当然の如く連絡もない。ぼく自身も詳細が知れないこの件に関して可奈子にどう答えていいか分からず、思いついた適当な言い訳を口にした。
「えーっと、なんか色々あって帰るのが少し伸びてるみたい。だけどもう何日かすれば戻ってくると思うよ」
「そうなんだー、時雨ちゃんがいないとやっぱり寂しいよね。要もそうでしょ?」
「……う、うん、そうだね……」
寂しいというのは確かにそのとおりではあるけれど、ここで大きく同意してしまうと完璧にその事実を肯定してしまいそうで、それは憚られた。ぼくが淀んだ返事を戻すと可奈子は無言になった。賑やかな通りをしばらく二人黙って歩いていた。
「要……ごめんね」
「えっ?」
信号待ちの交差点角、俯いた可奈子の小さな声が届いた。けれどその謝罪の意味が分からなくて、ぼくは困惑を返した。
「えっと……ごめんって、何が?」
「この前……急に打ち明け話をしたこと。あんなことを相談されても迷惑なだけだよね」
そう言われ、ぼくは忘れたかったけれど全然忘れかけてなどいなかったそのことを脳裏に蘇らせた。けれどこのように切り出されても、何と答えればいいか分からなかった。これが咄嗟でなくても散々熟考した後でも正しい答えが出ることは多分ない。故にぼくはとても適当な返事をした。
「あ、ああ、それね、うん、全然気にしてないよ、それで草野とはどうなったの?」
その言葉に可奈子は何も応えず、寂しげな表情で首を横に振る。ぼくの方はといえば、ただどうにも微妙な気分を腹の底に抱えるだけだった。
彼等の状況は日が経っても変わっていないようだった。ぼくが思うに可奈子と草野、二人は互いにボタンの掛け違いをしたみたいに今は気持ちがすれ違っている。でも誰かの助言があれば、それはボタンのようにまだかけ直すことができるようにも感じていた。
事情を知るぼくがその役目を果たすべきなのかもしれない。けれどぼくは二人に言葉をかけることもなく、その役目自体からも目を逸らそうとしている。
このまま二人が破綻してしまえばいい、と強く思っているならこの状況は望むべきなのかもしれないけど、可奈子が悲しむようなことは全く望んでいない。可奈子が悲しむところは見たくないけれど、二人がうまくいくように働きかけたくもない。そんな齟齬と矛盾と碌でもない結論だけが胸の奥に鬱々と積もって、これならいっそのことお節介ババアのように胸までどっぷり関わって馬に蹴られてどうにかなってしまった方が楽、とも思う。
「あー、そうなんだねー、でもそのうちきっとなんとかなるよ、うん」
けれどぼくは整理のつかないそのぐだぐだな思考をどっかに蹴り飛ばすと、そう返していた。うわー、クソ偽善者だなー、とぼくの中でぼくに対する悪態がぐだぐだと溢れ出そうとしていたけれど、ぼくはそれも蹴り飛ばした。
「そうだね、要……ありがとう……」
可奈子はぼくの適当すぎる言葉を受け取って、弱々しいけれどいつものような笑みを返す。
歩行者信号が青に変わり、ぼくはその笑みに心臓が潰されるような感触を味わいながら横断歩道を渡ろうとした。でもその時、背に呼び止める声が届いた。
「あれ? 御蔵島君だよね」
届いた声にぼくの足は急ブレーキをかけたように制止する。泳ぐ視線がゆっくりとその方に向いた。
「奇遇だねぇ」
そう言いながらこちらに歩み寄る男は城崎だった。笑顔の相手を前にこのまま挨拶だけをして立ち去ってもいい雰囲気でもなくて、ぼくは些か重い気分で彼の到着を待った。
「今学校の帰り? なんかいいねぇ放課後って」
「え、ええ……」
望まない奇遇は本当に望むところではなかった。でも彼をあからさまに避ける道理もなくて、ぼくは普通に見えるよう振る舞った。
「そちらは御蔵島君の友達?」
彼が背後にいた可奈子の存在に気づくのは当然だった。ぼくは動揺を心の奥に追いやって、無言で頷いた。
「どうもこんにちは。僕、城崎覚といいます」
「あ、はい……私、櫻井可奈子です」
「可奈子ちゃんか、可愛いね。僕、歯科医をやってます。御蔵島君の歯も診させてもらってるんですよ」
「えっと、歯医者さん、なんですか?」
「そうだよ。よく見えないって言われるけど、でもちゃんとした歯科医師だよ。可奈子ちゃんも治療が必要になったらどうぞ来てください。お待ちしてますよ」
そつないセールストークを続ける男をぼくは見守ることしかできなかった。けれど現状はすぐに静観などしていられないものになっていた。
「でも……可奈子ちゃんの歯は随分きれいだね。これなら僕の所に来る必要はないかもしれない。残念だよ」
そう告げた城崎が可奈子の頬に手を伸ばす。
今にも触れそうになるその白い指先とあの夜のカラスの死体がなぜか重なった。それを目の当たりにしたぼくがその時感じ取ったのは怒りでも恐れでもなかった。でももしかしたらそれらがない交ぜになった感情だったかもしれなかった。
「要……?」
「すみません、城崎さん。ちょっと急ぐのでこれで失礼します」
ぼくはその感情に突き動かされて、可奈子の手を引いていた。そのまま男に背を向けて歩き出す。
「うん、分かった。また今度だね。御蔵島君」
背後からは城崎の穏やかな声が聞こえてくる。
「要、どうしたの?」
隣からは可奈子の怪訝な声が届いた。けれどぼくは何も答えられず無言でいた。
可奈子に声で指摘されたとおり、らしくない行動だと分かっていた。でも点滅を始めた信号を強引に駆けて渡り、道の向こうへと行こうとした。
できるだけあの男から遠く離れたかった。可奈子に何も答えられなかったのは、今の感情をどう言語化すればいいかよく分からなかったからだと思う。だけど〝彼〟が可奈子の存在を知ってしまったことに、耐え切れられないほどの不安を覚えていた。それは確かだった。
急ぎ足で歩くぼくの脳裏には再びあのカラスの死体が浮かぶ。
ぼくは可奈子の手を強く握って、歩き続けた。




