32.不吉な予兆
酷く疲れたはずなのに、夜遅くなっても眠りたいと思えなかった。
リビングのソファに座って、ぼくは意味もなくテレビの画面を眺めていた。
時刻はもうじき日付を跨ごうとしていた。
深夜のバラエティ番組の賑やかな笑い声が、部屋の中にただ霧散していく。そのせいなのかそんなに広くもない家なのに、今日はだだっ広く感じていた。でもそう思う理由は分かっていた。
ぼくは時雨の存在に依存している。永遠に確定していることでもないのにいつしかそのことに心の重きを置いて、それがぐらついた今、全ての均等を崩している。
時雨がいなくなって、まだたった二日。なのにこんな状態になってしまう自分がとてもだらしなく、本当に不甲斐なかった。
「……駄目すぎるだろ?」
ぼくは自分で自分を叱咤して、自室に行こうと腰を上げた。寝たところで何かが解消するとは思えなかったけれど無理矢理にでも寝て、起きた時には多少マシになっていたかった。
リビングを出て自室に向かう。
その時突然、どん、という音が響いた。
それは玄関辺りから聞こえた。
まるで扉を力任せに叩いたようなその音に瞬時身が固まる。
振り返り、背後の玄関ドアを窺ってみても何ら変わった様子はない。しばらくその場に留まって様子を見ても、その後は何も変化はなかった。
別に気にするほどのことが起きた訳でもない、そう思い込んで眠ってしまいたかった。でもどこか人為的にも感じられた先程の音がどうにも気になって、より眠れなくなりそうだった。
ぼくは玄関扉に歩み寄ると、のぞき穴からそっと外を見てみた。
視界に入るのは外の廊下だけで、ひっそりとしたその場所には何の変化もない。
迷った末に、ぼくは意を決して扉を開けてみた。深夜の廊下はしんと静まり、やはり誰の姿もなく、少し安心して扉を閉めようとした時、ぼくは短い悲鳴を上げた。
「ひっ……こっ、これは……」
見下ろした足元にはカラスの死体が横たわっている。それは既に死後硬直が始まっているようで、時折吹く風にその黒い羽根が揺れている。
ぼくはしばらく茫然とした後、なるべく遺体を視界に入れないようにしながら外に出た。外廊下から望める夜景に目を移し、深呼吸を繰り返す。けれども早鐘を打つ心臓の鼓動はなかなか収まりを見せなかった。
ぼくが住むマンションの廊下は外に面した造りになっている。だから飛んでいたカラスが何かの弾みでドアにぶつかり運悪く命を落とした、という可能性も考えられなくもない。
でも今は深夜で鳥が活動する時刻でもなく、それにあのカラスは死んでからいくらか時間が経っているようにも見えた。それならばなぜ? と考えると一つの仮説が朧気に浮かび上がっていた。
何者かが死んだカラスを持参してぼくの家の前に置いた後、それを知らせるかのようにドアを叩いて去っていった……。
「……なんか……そんなの嫌だな……」
ぼくは自らで出したその仮説に心底落ち込んだ。こんな負の労力を注いでまで、なぜこのようなことをするのか。そこからはどうにもネガティブな感情しか湧いてこない。そんなことをする人間も、そういうことをされる自分にも、際限なく心が冷えていくだけだった。
ぼくは家の中に戻ると、幾枚かの新聞紙と母が以前ベランダ菜園に使っていた小さなシャベルを取り出した。再び廊下に出てカラスの遺体を新聞紙で包んだ後、今度はマンションの外に出てそれを埋葬するために敷地内にある木の根元を掘り始めた。
街灯の明りと月の光だけを頼りに穴を掘りながら、ぼくはふと思った。
今の自分の姿を俯瞰してみれば、その姿はあの時に見た彼の姿とそっくりだった。
深夜の密やかな作業を終え、泥だらけの手を見下ろしながら重い足取りで部屋に戻っていくぼくの心は、より冷えていくだけだった。




