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地獄へ道づれ  作者: 長谷川昏
5.歯科医と死骸/嫉妬と失われる恋/ハロウィンの夜と最後になるかもしれない眠り
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31.「ムカつく」と「魅力的」の境界線にいる男

 歯科医院を出たぼくは少し疲れていた、というよりだいぶ疲れていた。

 だからその男が近づいてきても、正しい反応をすることができなかった。


「要君、どーも」

 届いたその声に振り返った後も、ぼくはまだ少しぼんやりしていた。相手の服からは染みついた煙草のにおいが漂って、それが誰かということにようやく気づく。

 男はよれた黒っぽいスーツ姿で、同じくよれた黒いネクタイを上から数個ボタンを外したシャツに合わせて緩めている。その格好だけ見ればとてもだらしなく見えるのだけれど、無造作に乱れた長めの髪も含めて、どこか退廃的な者が持つ魅力が漂っている。その印象は以前会った時と変わっていなかった。


「ここで会ったのも何かの縁だねぇ。ということで二人でお茶でもしない?」

 川島はぼくの肩に馴れ馴れしく腕を回すとそう言う。気軽に笑いかけられながら気安く話しかけられているけれど、ぼくは彼との関係性をそのように認識した覚えはない。

 一度世話になった恩があるのは確かだけれども、この正体不明の男にはまだ気を許せる気にはなりそうもなくて、ぼくは密着した身体をさりげなく離した。


「まあまあそんなに警戒しないでよ、要君。取って食う訳でもないし。コーヒーでも何でも好きなもの奢るからそんなに冷たくしないでよ」

「……」

 へりくだったしおらしさを装ってはいるけれど、欠片もそのようには思ってないようにも見える。断りたい気持ちが無論大部分を占めていたけれど、なんだか強引に腕を取られ、手練れの詐欺師に(いざな)われるように寂しげな裏路地の方へと連れて行かれる。


「あの……どこに行くつもりなんですか? カツアゲとか……そんなのはなしですよ……」

 腕を取られたまま、どんどんとひと気のない寂れた場所に進んでいるようで不安になる。似たような経験がないでもないので、一応そのような警戒もしてみる。

「カツアゲぇ? 俺がそんなセコいガキみたいな真似すると思う? 大体金には困ってないよ」

 川島は笑いながらそのように返すけれど、カツアゲが杞憂だとしても一見魅力的にも見えるその笑みからは信用に足る匂いは全然しない。


「ここだよ」

 川島は細い路地を進んだ行き止まりで立ち止まった。眼前には古びた喫茶店がある。

 八十年代の香り漂うそれふうの店構えは、洒落ていると表現できないでもないけれど、傍らの木造りの看板は風雨に晒され掠れ、記されていたはずの店名も既に判読不明となっている。窓ガラスは曇って中の様子も窺えず、でもとりあえず営業中と分かるのは周囲に漂うコーヒーのいい香りのおかげだった。


 ドアベルを鳴らしながら店に入ると、六席ほどのカウンターがあって、三つのテーブル席がある。どこにも客の姿はなくて、カウンターの中にいた店主らしき白髪の老齢の男性が「いらっしゃい」と嗄れ声をかけた。

 ぼくは先を行った川島の後についていって、彼が腰を下ろしたテーブル席に同じく着いた。すぐに店主が水の入ったグラスを二つ持ってきて、川島がぼくに「何にする?」と訊いたので「コーヒーを」と答えると、彼は「コーヒー二つ」と店主に伝えた。


「ここにはよく来るんですか?」

 喫茶店は寂れても見えたけど、よく観察すると窓際にはきれいに咲いた花の鉢が並んでいたりして、壁にはセンスのいい絵が飾られている。店内のスピーカーからは静かにジャズが流れていて、落ち着ける雰囲気だった。


「まぁそこそこ来るかな。だって静かで落ち着くだろ? いつ来ても誰もいないし」

 川島は気兼ね一つないボリュームの声でそう言って、ちょうど顔を上げた店主と目が合ったぼくの方が焦る。しばらくの後にコーヒーが運ばれてきたけれど、

「ごゆっくり」

 と、店主が無感情で発したその言葉は川島に対する厭味のようにも取れないでもなくて、ぼくは再び一人で冷や汗をかきそうになる。だけど口に運んだコーヒーはとてもおいしくて、それを飲んでいる間は気まずいんだかなんだかよく分からないこの空間にいることは忘れられそうだった。


 川島はコーヒーに時々口をつけながら隣の椅子の背もたれに腕を伸ばして、自分の家のようにくつろいでいる。

 彼の全ての指には何か読めない文字のタトゥーが入っている。それをなんとなくぼんやりと眺めていると、急に視界に入り込んできた川島と目が合った。


「何かな? 要君」

「えっと……別に……」

 人当たりがよさそうにも見えるけれど、川島にはとてつもなく深い闇がある気がする。けれどこんなことを考えてしまうと、彼には筒抜けになってしまうような気もする。視線の行き先と思考の行き場に迷ってうろうろと困窮していると、蠱惑的な笑みを浮かべた川島と再び目が合った。


「ねぇ要君、そういえばさ、この前君が捜してた子、行方不明になったらしいよ」

「えっ……?」

「この街でたまにあるだろ? 女性が急に消えるってやつ。それの一つかもね」


 ぼくは不意に告げられたその話に言葉を失ってしまった。

 三浦カオル。彼女とは決して親しい間柄ではなかったけど、知らない相手でもなかった。この先も縁がありそうな相手でもなかったけれど、そのようなことになっていると聞けば、何も思わないでいるのも難しかった。


「まぁでも要君は気にすることないよ。彼女のようなああいった生き方をするには、そういった代償もあるってこと。因果応報って知ってるだろ? 誰にでもそれは当てはまるよ」

「……」

「あ、それとさ」

「……はい」

「要君、君、中野みたいのが好み?」

「???!」

 ぼくは急激に趣を変えたその質問に、口に含んでいたコーヒーを吹きそうになった。

「せっかく同居までしてるのに時雨は変だからねぇ。女なんだか男なんだか分かんないし、あれじゃ要君はいつまで経っても童貞だし。でも中野は大丈夫だよ。ちゃんと女の身体だし、美人だし。だけど中野、要君には一週間前の天気以上に興味がないんだよねぇ」

「……」

 届いた言葉にぼくはなんとも言えない気分を味わわされる。

 なんだろう? こちらからは何も仕掛けてはいないのに、この色々と叩き潰された感……。


「そろそろ出ようか、暗くなってきたし」

 いつの間にかコーヒーを飲み終えた川島が席を立っていた。ぼくもゆるゆると立ち上がって、彼に追随する。

 今日はもう疲れることが多すぎていた。一刻も早く家に帰りたい気持ちだった。


「あっ、あれぇ?」

「えっ? どうしたんですか?」

「あー、ごめん、要君」

「な、なんですか……?」

「財布忘れてきたみたい」

「……」

 けど最後の締めと言わんばかりに川島にそう宣告される。

 奢りと言われてやや強引に連れてこられたはずなのに……と思うけれど、結局その諸々は自分の中で最初からなかったことにして、ぼくは無言で二人分のコーヒー代を支払った。


「いやー、ごちそうさま、要君」

 財布は本当に忘れたんですか? もしや最初からそのつもりだったのでは? と、言いたい気持ちもあったけれど無意味な気もしてやめた。

 店を出ると、辺りはもう夕闇に染まっていた。

 細い路地を歩いて大通りの方に戻っていく川島の後ろ姿を見ていると、それが遠くなって近くなって、視覚がない交ぜになったような錯覚にも襲われる。振り返ればあの喫茶店も消えている気がして、思わず背後を確かめる。でも喫茶店は変わらずそこにあって、何を夢想しているんだとちょっと一人で笑った。


「要君」

 雑踏の大通りに歩み出た川島が振り返って待っていた。

 逆光になったその黒服の男の姿は死を司る何者かのようにも見えた。


「君、死相が出てるよ」

「……」

「なんてね、それずっとか」

「……」


 川島はぼくに言葉を失わせることにとても長けている。「じゃあ、またね」と最後に微笑んで去っていった彼の後ろ姿を、ぼくはいつまでも見ていた。

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