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地獄へ道づれ  作者: 長谷川昏
5.歯科医と死骸/嫉妬と失われる恋/ハロウィンの夜と最後になるかもしれない眠り
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30.歯医者がとても苦手という話

 そのこと(草野との件)を気にして忘れかけていたけれどぼくは学校を出た後、歯の治療のために歯科医院に向かっていた。

 こんなぼくだけど実は歯医者が苦手だ。できれば行きたくないと思っている場所の一つで、それは独特のあの歯を削る音だとか、あの独特なにおいが駄目だとかそういうのではなくて、その理由はぼくが子供の頃に通っていた歯科医院の記憶に由来している。


 五、六才の頃のぼくが母に連れられて行った歯科医院は特に腕がいいという評判があった訳でもなく、ただ近所だからという理由のみで通っていた。

 かなり前から住宅街の一角に佇んでいたその医院は黒ずんだコンクリート製の古い建物で、周囲を取り囲む鬱蒼とした庭木の奥でまるで犠牲者(患者)達を待ち構えているようだった。少しおどろおどろしくもあるその外観に加え、あの歯を削る音や、独特なにおいは幼いぼくには畏怖の対象でしかなく、薄暗い待合室で順番を待つ患者達の姿は最期の時を待つ囚人にも見えた。


 何よりも一番怖かったのは当の歯科医師だった。一体この道何十年なんだろうと思わせる老齢のその医師は、マスクの向こうからいつもふごふごと何かを伝えてくるのだけれど、聞き取れたことは一度もなかった。治療中も随時ぷるぷると震える手元が惨劇の予兆にしか感じられなくて、たたただ怯えていたのを覚えている。その後、削る音もにおいも恐怖の対象ではなくなったけれど、この時の記憶は今もぼくの中に残存して苦手意識を増幅させている。

 けれどもこの頃ずきずきと痛み出すと、どうしようもなくなる奥歯の虫歯を放っておくには限界に近かった。どうにか通院の決心はしたものの、予約を取ろうとしたあの歯科医院は既に廃業してしまっていた。思えばあの医師は当時で既に高齢であったから、もう隠居したかもしくは亡くなってしまっていてもおかしくはなかった。


 それならどこに行こうかとなった時、以前曽田さんの家に行った時にその近くにいい感じの新しい歯科医院があったのを思い出していた。記憶を頼りに正確な場所を調べて予約を入れると、不機嫌なおばさんが無愛想に受け答えしていた前の歯科医院とは違い、優しく親切に対応されて、第一関門は難なくやり過ごせた。けれどまだ予約を終わらせた段階でしかなく、これから次々と襲い来る難関を乗り越えられた訳でもない。ぼくは「きっと大丈夫」と自分に言い聞かせながら夕方の道をとぼとぼと歩いて、目的の歯科医院に辿り着いた。


 青地に白文字で『城崎(じょうさき)デンタルクリニック』と掲げられた看板をしばらく見つめた後、ぼくはまだ残る躊躇を追い払いながらモダンな建物の扉を押し開いた。スリッパに履き替えて廊下を進むと、白い壁と木の風合いを生かした明るい待合室がある。それはじとっとした記憶しかない前の歯科医院とは天と地ほどの差があり、第二関門は簡単に突破する。


 受付を済ませ、待合室のソファに腰を下ろして、緊張を紛らわせるためにいくつかある雑誌から一つを取って眺めていると、同じように診察を待つ二人の女性の話し声が聞こえてきた。五十代と思しき彼女達は顔見知りらしく、世間話に花を咲かせていた。


「ねぇ、ここの先生って、とっても若くてイケメンらしいわよー」

「そうそう、そうなのよ。この医院を選んだのはそれもあるのよねー」

「腕もいいらしいじゃない」

「そうよぉ。腕がよくてイケメンならここを選ぶしかないでしょ?」

 ぼくは雑誌を見るふりをしながら二人の話を聞いていた。彼女達の選択基準はきっとその辺なんだろうけど、ぼくはイケメンだろうがなんだろうが時々「もしかして死んでない……?」と思わせられないような先生であればそれでいい。


 そのうち順に名を呼ばれ、最後にぼくの名も呼ばれて診察室に入った。

 案内された診察室も明るい雰囲気で、湿った空気感などどこにもない。清潔な診察椅子に座ると若い女性助手の人が「きつくないですかー」と言いながらエプロンを着けてくれる。どこが痛いか簡単に診察した後「しばらくお待ちくださいねー」と彼女が去って、そのしばらくの後に医師がやって来た。


「どうも、今日はよろしくね。えーと、御蔵島さん」

「……はい、よろしくお願いします……」

 イケメン医師の声は優しそうだったけれどやはり医師が傍に来ると妙に緊張してしまって、声と身体が強張る。それに届いたその声をどこかで聞いた覚えがある気がしていた。


「あれ? 君」

 相手もそう思ったようで、より近づいて傍に立つ。相手の顔を見上げると、

「やぁ、やっぱり君か」

 と、彼は言った。


 顔半分を覆うマスクをずらし、彼は笑顔を見せる。

 ぼくはその顔を間近に見て、身体がより強張るのを感じていた。けれども抱いたこの感情を相手に悟られることは決してしてはいけないと、脳が咄嗟にその判断を下していた。


「ここに来るのは初めてだよね? 僕は医師の城崎です。よろしくね」

「……は、はい……」

 相手はにこやかに声をかけるけれど、返事をするぼくの喉からは何かが詰まったような声が出た。


 彼がぼくを知っているように、ぼくも彼を知っている。

 あの日の夕暮れの暗がりで何かに隠れるように土を掘り、ある日の夜道で擦れ違い様にぼくに、

『君、何か変わってるね』

 と言った〝あの時の男〟だった。


「じゃ、早速治療に入るね。まず口の中を見させてもらうよ」

 怖れを含んだ緊張が身体を駆け抜けるけれど、だからとぼくに何かができるでもなく、彼の言うとおりに大きく口を開けるしかなかった。するとあの時見たのと同じ、遠目で分かるほどのきれいな顔立ちが近づいてくる。ぼくは心の中で声にならない悲鳴を上げながら、ほぼ初対面となるはずのこの城崎という男に対してとてもビビりまくっていた。


 彼は客観的に見ればどこから見ても感じのいい歯科医師であり、それは揺るぎない事実だった。けれど動きを制限された椅子に座ったまま、彼に口の中を覗き込まれ、歯を削る道具を向けられることがなんだかとても嫌だった。ぼくはあの待合室にいたオバちゃん達になり代わりたいと切に願った。そうしたら彼のことをイケメン医師としてだけ見て、うっとりとしていられる。


「あー、ちょっと酷いね。次はレントゲン撮るね」

 そう言われ、ややふらふらとした足取りでレントゲン室に向かう。このまま帰ってしまいたいと考えてしまうけれど、そうすることなどできないままレントゲン処置を終えた後は再び診察椅子に座って治療が再開される。だけどぼくがこんな意味不明な思いでビビっていようが、何を思っていようが、城崎は親切丁寧な説明を織り交ぜながら手際よく診療を続けていった。


「もし何か疑問に思うことがあったら何でも訊いてね。不安に思うことがあったら治療中も気になってしまうからね」

 親身になるその思いやりのある言葉を聞けば、嫌う理由などどこにもない。

「な、何でも訊いていいんですか……?」

「もちろんだよ」

 そう言われ、思わずぼくは、あの時は何を掘っていたんですか? 変わってるってどういう意味ですか? と、訊きそうになったけれど実際には言葉にすることなどできず、悶々とし続けているうちに治療は終了していた。


 まだ数回続く治療のために次回の予約を入れ、またふらふらと出口の方に向かう。自ら予約を入れたのにまた彼に会わなくてはいけないんだなぁ、と今更のように気が重くなる。けれどぼくがこうやって彼に感じていることはぼくの一方的な思い込みにしか過ぎず、やや、というかかなり失礼な態度であるのかもしれなかった。


「またね、御蔵島君。待ってるよ」

 その声に振り返ると、受付に立った城崎が笑顔で手を振っていた。

 それはなんでもない、ただの好意的コミュニケーションにしか見えない光景だった。でもあの夜の記憶は今も瞼の裏にこびりついていて、その湿った記憶の感触は病院を出ても拭えなかった。

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