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地獄へ道づれ  作者: 長谷川昏
4.田舎の祖母に会いに行く/行ってはいけない場所/地獄は地続きの場所にある
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25.深い闇、白い影

 少し普通じゃないことが起きていると気づいたのは、それから数時間経った後のことだった。

 朝、家を出た希さんは六時には戻ると言っていた。でも彼女はその時間になっても戻らず、三人で夕食の準備をして待っていたけれど、八時を過ぎても彼女は帰ってこなかった。

 まだ知り合って半日ほどだけれど、何も連絡もないままでいる人ではないと感じていた。祖母は希さんの携帯電話に幾度かかけてみたけれど、返ってきたのは圏外だというアナウンスだけだった。


「事故にでも遭ったんやろか……」

 高い天井の下、そう零す祖母の表情が闇に紛れて曇る。ぼくは少しでも不安を振り払おうとダメ元でもう一度電話を手に取った。家の古びた電話が鳴り始めたのはその時だった。

「もしもし! 希さんかい?」

 受話器を取るやいなや、祖母が急いて電話向こうに呼びかける。ぼくも時雨と祖母の傍に立って、受話器から漏れる声を聞き取ろうとしていた。


『……八重さん……?』

 受話器から届いた声は果たして希さんのものだった。だけどそれは随分と小さく、雑音も多く、まるでとても遠くからかけているような声だった。


「そうだよ、希さん、どうしたが? どこにおるがけ?」

『……ここ、どこなのかよく分からない……だけど××山のどこかだと……でも道が暗くて……辺りもすごく……』

「希さん、どうした? 大丈夫か?」

『……』

 祖母の呼びかけにも電話向こうは何も応えなかった。その内に通話自体も途絶え、すぐにもう一度かけ直してみても再び圏外になってしまっていた。


「××山か……」

 電話の前で立ち尽くす祖母が零した。

 先程の電話で希さんはその山の名を言っていた。ぼくは朝の記憶を呼び覚まして、彼女が今日そちら方面に撮影しに行くと言っていたことを思い出していた。


「……あの辺りには行かない方がいいと、言っておけばよかった……」

 再び零すその顔が先程よりもっと曇る。ぼくは祖母に訊ねた。

「祖母ちゃん、そこは何か駄目な場所なの?」

「……いいや、別に駄目な場所という訳じゃない。でも人が行ったらいけん所もある……間違って入らんよう目印は立ててあるがやけど、それが分からんかったとしたら……」


 熊が出る地域であるとか、危ない崖があるとか、ぼくが祖母にした質問の意図はそんな意味合いのものだった。でも返ってきたのはそれとは異なる趣のものだった。

 人が足を踏み入れたらいけないとか、神聖な場所であるとか、所謂そんなふうなもののこと。それがぼくにはどんなものか詳しくは分からなかったけれど、なんとなくその空気感は伝わった。


「すみません、お祖母さん、その××山というのはここから遠いのですか?」

「……歩きで一時間はかからんと思う。四十分くらい……かもしれん」 

「そうですか。それとお祖母さん、この家に懐中電灯はありますか?」

「……時雨ちゃん……もしかして今からそこに行こうと考えてないかい……?」

「はい、考えてます」

 率直なその返事に祖母は不安と危惧を露わにした。その反応はこの山間の村に長年居住する住人であれば当然のものだった。


「駄目だ。慣れん人に山歩きは危険だし、おまけに今は夜だ。もし捜しに行くがなら私が」

「希さんを見つけて、もし運ばなくてはならない状況だったら、お祖母さん一人より私と要、二人でいた方が対処できると思います。心配はしないでください。私、夜目がかなり利く方ですし、これでも結構力持ちなんです」

 時雨はそう言ってにこりと笑う。それは確かに事実ではあるけれど、そのように言われて祖母が賛同するはずもなかった。


 都会育ちの孫と、常に左目に眼帯をした小柄な少女。事実そのとおりで、そうとしか見えない二人を見れば誰でも心配する。そしてぼくの方はと言えば、日も暮れた夜の山に向かうことに多大な怖れを感じていた。数歩先も見えない闇の道、多くの生き物が潜む静寂の森……できれば行きたくないというのが本音だったけれど、時雨が自ら行くと言い出したのなら、ぼくは自ら動こうとしている彼女に従うべきだった。多分そうしなければならないはずだった。


「ねぇ祖母ちゃん、時雨の言うとおりだよ。ぼく達で行って希さんを捜してくるから」

「でも要……」

「それにさ、希さんが自力で戻ってきた時のことを考えて、家には誰かがいた方がいいと思う。ぼくだったら祖母ちゃんにいてほしい。心細くなっているはずの彼女を迎え入れられる人がいた方がきっといい。そう思わない?」

 祖母はぼくの言葉に無言だったけれど、このやや強引な言い分に折れたのは確かだった。何も言わず物置に向かうと懐中電灯を手に戻ってきた。


「もし途中で困ったことが起きたら、無理せんと戻ってくるがよ。あんた達も迷ったら元も子もない」

 懐中電灯を手渡す祖母の顔には、まだ引き留めたい気持ちが残っていた。でもぼくはそうであるならより一層無事に、そして迅速に役目を果たして戻ってこなければと思った。


「希さんが先に戻ってきたら、ぼくのケータイに連絡して。もしかしたら圏外になってるかもしれないけど」

 祖母に最後にそう伝えると、ぼく達は懐中電灯を手に家を出た。

 目的地までの道筋は祖母に簡単な地図を書いてもらい、口頭でも説明を受けた。けれどぼくは家を出てすぐに不安しか感じていなかった。思う以上に周囲が暗すぎて、一旦人里から離れてしまえば方角の見当もつけられない。その先に広がる想像以上の闇の深さに呑み込まれ、右左さえも分からなくなりそうだった。


「要、はぐれるなよ」

「分かってるよ……」

 時雨はそんな闇の中を真昼の道を歩いているみたいに進んでいく。ぼくは闇に紛れそうになる黒い背中を見失わないよう後を追った。


 集落を出た後、田んぼ道をしばらく歩いて、山の出入り口になる雑木林に足を踏み入れる。

 慎重に歩みを進める夜の山は生きもののようだった。もちろん本当の生き物もあちこち息を潜めているけれど、山自体も大きな獣のように息を潜めている。

 近くでも遠くでも、微かな音を拾っただけでとても怯えを感じる。神社の石段や家の長い廊下や仏壇の陰や、子供の頃に感じていたものと同じ怖れを今この瞬間も感じている。 

 踏みしだいた枯れ枝が足の下で思ったより大きな音を立てた。ぼくは絹を裂くような悲鳴を上げそうになった。


「ビビってるな、要」

「否定はしないよ、時雨」

 ぼくは前を行く相手に強がりの欠片もない言葉を返す。

「闇が怖いのは当然だ。何も気にすることはない」

 返る時雨の言葉に慰められている気もするけど、それに縋って心を緩めてしまうと本当に何かが起きてしまいそうな気もする。


「しかし、こんなことよりもっと怖いことがあるのは知っているだろう?」

 届いた声は闇に響いた。

 彼女が言う、もっと怖いこと。

 でも()()とこれとは全く感触が異なっていた。


「そんなことより時雨はどうなの?」

 ぼくは湧き出る感情を呑み込んで別の言葉を発する。

「どうとは?」

「怖くないの?」

「怖い?」

 問いには半笑いの言葉が戻った。ぼくも愚問だったと途中で気づいて微かな笑いを返した。彼女にそう感じるものがあるとは、どう考えても思えなかった。


 気づけばかなり山の奥まで踏み入っていた。

 懐中電灯が照らす前方の闇に、ぼんやりと何かが浮かび上がってくる。祖母が言っていた、行ってはいけない場所の目印だった。


「あれだな」

 地図を確認した時雨が近づく。祖母が目印と言っていたのは、しめ縄を張り巡らせた結界のようなものだった。でもそれに変わったところは何も見えず、誰かが踏み越えた形跡もなかった。

「ここには来てないのかな?」

 ぼくはほぼ何も見えない辺りを見回して、いなくなった彼女の姿を捜してみた。けれど目に映るのは深い闇だけで、彼女が残した痕跡も見つけられない。


「一応この辺りをぐるりと捜してみるか」

「……うん、そうだね」

 ぼく達は再び歩き出して暗闇の中を進んだ。

 遠くで鳥の羽ばたく音がする。

 響く虫の声。草むらを横切る小動物の気配。慣れた訳ではないけれど、最初は怯えるばかりだったそれらの感じ方は徐々に変わっていった。


「行ってはいけない土地など本当にあると思うか?」

 歩きながら時雨が問う。

 ぼくは前方の闇を捉えながら少し考えた。きっとその問いに正確に答えることはできないけれど、ぼくは闇に向かって言葉を返した。


「ここにそれがあるかは分からないけど、説明のつけられない何かは確かに存在していると思う」

 その言葉に返事はなく、前方からは沈黙だけが戻る。

 再び闇の静寂が始まりを迎えそうなその時、ぼくの目にあるものが映った。


「ねぇ時雨、あれ……」

 ぼくは呟いて、行く先に見えたものを指で示す。

 闇の中、白い何かが蠢いていた。

 白い影のような、白い靄のようなそれは、葉音ざわめく大木の下に留まっていた。

 輪郭も曖昧なそれに顔形など確認できなかったけれど、なぜかぼく達を見ている気がした。


「なんだあれは」

 試しに時雨が一歩近づくと、それは風に流れるように奥の方へと移動する。もう一歩近づくと、今度は明確な意思を持って横に移動し、足踏みでもするようにその場でぐるぐると回った。


「もしかして……ついて来いとか、言ってる……?」

「まさか」

 互いに顔を見合わせたけれど、ぼく達は闇の向こうに漂う白い影に追随することにした。ぼく達のそんな意思を確認したように影は浮遊しながら移動を始め、ぼく達は従うようについていった。


「要、あれを見ろ」

 しばらく行くと、見上げるほどの大きな岩が懐中電灯に照らされた。

 その前に誰かがいる。

 それは岩に寄りかかるように項垂れて座る希さんだった。


「希さん!」

 急いで駆け寄って肩を揺すると彼女は目を開ける。

「……要君、時雨ちゃん……」

 届いたのは弱々しい声だったけれど、こちらを認識できるほどの意識はあった。身体が冷えていたからぼくは持参していたフリースを彼女の背中にかけて、「動ける?」と訊いた。

 希さんは足を挫いて痛みと寒さから動けなくなっていたようだった。けれどぼくと時雨が肩を貸せば動けないほどでもなく、ぼく達は寄り添いながら祖母の待つ家に向かって歩き始めた。


「要、さっきのあれ」

 ぼくは時雨の声に足を止めて、背後を振り返った。

 彼女の元までぼく達を案内してくれたあの白い影は頷いたような仕草を見せた後、闇に溶けるように消えていった。

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