12.終わりと始まり
川島から連絡があったのは、二日後となる振替休日の月曜の朝だった。
待ち合わせに指定されたのは、市の外れの方にある住宅や単身者用のアパートが多い地域にあるコンビニ前で、ぼくは約束の十時に間に合うよう九時に家を出た。バスを乗り継いで伝えられていたコンビニに到着すると、灰茶色の髪と瞳をした姿のいい女性が待っていた。
「ど、どうも……中野さん……」
「時間どおりだね。行こうか」
ぼくは彼女が来るとは思ってなくて動揺しながら声をかけたけれど、彼女は前と同じく何を気にするでもなく、そのまま歩き始めた。無言で前を行く彼女とはあっという間に距離を離されてしまって、ぼくは急いで後を追った。
「彼女の自宅はここからすぐのアパート。家賃は月六万二千円。かなり安い方だね。三浦カオルは偽名かと思ってたけど本名だった。現在在宅中。会うなら今だね」
ハスキーだけれど聞き取りやすい発音でゆっくりと説明した中野さんは、次第に視界に入り始めた前方の白いアパートを指す。
「部屋は二○一号室。相手の顔を見るまで、私はあなたに付き添う」
そのように言い伝える相手の顔に、ぼくはつい見惚れてしまう。整いすぎて時折作り物のようにも見えるけれど、そこにあまり感情の所在が見えなくとも彼女が持つ穏やかな気配は伝わってくる。相手に有無を言わせないところは少し時雨に似ているなともふと思う。先導する彼女を追ってぼくはアパートの階段を上がり、二○一号室の前に立った。
古い建物のせいかインターフォンがなく、代わりに扉をノックするとしばらくして僅かドアが開いた。その隙間から見覚えある顔が覗いた。けれど彼女、三浦カオルはその場にいるのがぼくだと気づくと慌てて扉を閉めようとした。
「ひっ……ちょ、ちょっと……」
けれど扉は閉まらなかった。中野さんの靴先が扉の隙間に入り込み、阻止していた。彼女はそのまま扉を強引にこじ開けると、ぼくに「どうぞ」と中に入るよう促した。
「私は外で待ってる」
「ちょ……なに勝手に……」
三浦カオルの抗議を無視して部屋の中に入ると、中野さんが外から扉を閉めた。ぼくはまだ戸惑いを残す相手と狭い玄関で向き合った。
「入っても?」
「入っても? 今更それ訊く? もうとっくに入ってるじゃない!」
三浦カオルは声を荒らげると「勝手にすれば?」と言い残して、部屋の奥に戻っていった。ぼくはサンダルやら、ハイヒールやらが散らばった猫の額ほどの玄関でスニーカーを脱ぐと、彼女の後をついていった。
彼女が住む部屋は縦長の1Kだった。手前にある小さなキッチンには使った食器やらコンビニ弁当の残骸やらが積まれていて、お世辞にも片づいているとは言い難い。部屋はどこを見ても決してリッチ感溢れるものではなかった。凛太朗から色々もらっていたのだからもっといいい物件にいてもいい気がしたけれど、そうならなかった理由については奥の部屋に辿り着いた時に合点がいった。
「ねぇ訊いてもいい? こんなにたくさんの服、全部一人で着るの?」
「はぁ? いちいちうるさいなぁ、あんたに関係ないでしょ!」
部屋には様々な店のロゴ入りの紙袋や袋が所狭しと並んでいる、というか乱雑に積み重ねられている。一度も着られないまま吊り下げられている服も多く散見され、なんだか全体の印象としてはゴミ部屋とまでは言わないけれど、それに近い。凛太朗に色々と要求した金の遣い所はこれなんだなと思った。
「それで私に何の用? あんたのことは本田から聞いてるけど、あいつが言ってた夢幻みたいな与太話、私は全然信じてないからね!」
どうにも言い難い思いで部屋を眺めていたぼくに、彼女は再度声を荒らげる。一瞬何のことかと考えたけど、彼女が言う本田というのはあの黒Tシャツのことで、夢幻みたいな与太話とは時雨のことだろうと思った。確かに信じられるような話でもないし、ぼくとしても特に信じてくれとも思っていない。むしろそのまま信じない方が精神衛生上いいと思った。
「用件は前と同じだよ。凛太朗の指輪を返してほしい」
ぼくがそう答えるとゴミ部屋の真ん中にいた三浦カオルは、ほんの少し表情を緩めてぼくを見上げた。
「ねぇ……ちょっと訊くけどさ、どうしてあんたはあの指輪にそんなに固執するの?」
「固執?」
彼女の言葉を繰り返してぼくは相手を見返す。そこにはファミレスで初めて会った時のような表情が垣間見えた気がして、少し惑う。けれど彼女はそれを素早く察したのか、ぼくのその弛んだ部分に追い込みをかけるように続けた。
「そうよ、固執。あんたは凛太朗のために指輪を取り返そうとしている。頼まれもしないのに熱い友情に突き動かされたみたいにね。だからその情熱と同じくらい、私のことも可哀想だと思ってくれないの?」
「え?」
「私がこんなに金に固執するのは、育った家が貧乏だったからよ。子供の頃に母親は男と逃げて、私はろくでなしの父親とどうしようもない幼少時代を過ごすしかなかった。そんな生い立ちだからロクに勉強もできなかったし結局高校も中退することになったし、そのせいで未だロクな仕事にも就けてない。だから凛太朗みたいな恵まれたお金持ちの子に少しぐらい恵んでもらったって、罪はないでしょ?」
彼女はそう言って上目遣いでぼくを見る。でもぼくはただ困惑する。
彼女の身の上話を聞いたところでしょうがない。
何かに対する理由。彼女が言うようにそれは確かに存在するのかもしれない。けれどそれを理由にして、自らが引き起こした結果から逃れることはできない。それらを言い訳にして逃れようとする行為は狡い。だけど人間だから少しでも苦痛から逃れたいと願う気持ちが生まれるのも仕方がない、理解だってできる。と、一応彼女の主張に耳を傾けはしたので、ぼくは再度要求を述べることにした。
「うん、君の言いたいことは分かったよ。それで指輪はどこにあるの?」
「はぁっ? 今の私の話、ホントに聞いてた?」
「もしかして、もう売っぱらったとか……」
「まだ売ってないわよ! これはちょっと……もらって悪かったかなって思ってたから……」
「じゃあ返してくれたら、助かるんだけど」
「でもこれ……もらった中でも一番の値打ち物なんだよ。換金したら相当のお金になるんだから! 凛太朗、イケメンだったけどちょっと私に真面目すぎて退屈だったから、それを我慢してやっと手に入れたものだから……ねぇ、分かるでしょ? さっき分かったって言ったよね? 私にはこれをもらっていい、正当な理由があるんだよ」
ぼくの言葉のチョイスのせいで堂々巡りになりそうで、今度は困る。あまり脅す的な行為はしたくなかったけれど、少しそれ的なものを入れ込んでみることにした。
「君の主張はよく分かったよ。でも悪かったって思ってるなら、やっぱり返して。ぼく、結構気は長い方だから君がその気になるまで、ここに居座ることも全然苦じゃないんだけど」
「……え? 居座るって……もしかして指輪を返すまで帰らないつもり……?」
「そうだね。その言葉のとおりだね」
「そ、それだけはやめてよ……あんたといるの、もう既にうんざりし始めてるんだから……わ、分かったわよ……返せばいいんでしょ!」
何よりも居座られるのが心底嫌だったらしく、彼女は意外にもあっさり折れた。部屋の隅に埋もれていたドレッサーから指輪の入った小さなケースを取り出すと差し出した。ぼくはそれを受け取って中身を見たけれど、どんな指輪なのか知らないから確認しようがない。だけどもし違うものだったらまたここに来ればいい、と思いながら彼女を見遣ると「それ、ちゃんと本物だから!」とうんざり感が混じり合った怒気溢れる声が戻った。
「じゃ、おじゃましました」
用は終えたので、指輪をパーカーのポケットにしまうとぼくは玄関に向かった。スニーカーを履いていると、後ろをついてきた彼女の声が響いた。
「ねぇ、最後にこれだけは聞いて……私だって本当は悪かったって思ってるよ……お金目当てで付き合ってて、嘘もついてた。でもその目的を超えるほど、彼のことを好きになれなかったのは私のせいじゃない。だから今だって、もらったお金は正当な代償だって思ってるよ」
スニーカーを履き終えて、ぼくは背後の彼女を振り返る。
彼女の顔には初めて会った時のような表情が垣間見えるような、そうでないような、でもやはりどうなのかよく分からない。だけどちょっと胸の奥に湧き上がるものがあった。
「あのさ、カオルさん。どうしてぼくにそんなことを言うの? ぼくにそんなことを言われても困る。ぼくに言っても君の言葉は凛太朗には伝わらないし、だからそれは無駄なことだよ。でもそれでも君がぼくに言うのは、そんな言い分、凛太朗本人には言えないからだろ? 分かってるなら言うなよ」
ぼくは彼女に言ってしまってから後悔する。ぼくは人のことをどうこう言える立場にない。それを分かっているはずなのに、我慢できなかった自分にとても腹が立つ。自らに向けた苛立ちを腹に据え置いたまま、ぼくは振り返らずに外に出た。廊下では黒い服を着た女性が待っているはずだった。
「……要」
「えっ? 凛太朗?」
でもいたのはなぜか凛太朗で、ぼくはとても動揺する。
安アパートの壁は薄い。今到着したようには見えない彼に玄関での会話が聞こえていたのは間違いなく、色々と考えが巡って、言葉を失う。
ぼくはゆるゆるとポケットに手を突っ込むと、取り出した古い指輪の容れ物を彼に渡した。凛太朗はそれを受け取って「ありがとう」と言った。
その日、別れるまでの間、凛太朗は他に何も言わなかった。
次の日には、彼はいつもどおりだった。通学中に突然背後に現れてぼくを驚かして、ぽつりぽつりと会話をする。時折何かを思い出しているような表情をするけれど、それはすぐに消えていった。
この件の数日後、三浦カオルはぼく達の与り知らぬところで行方不明になる。そのニュースはテレビでもやっていたけれど一度見過ごしてしまえば、それっきりになってしまうようなものだった。でももし、ぼくがそのニュースを目にしていても、よくある訳ではないけれど珍しくもないその事件のことは、じきに記憶からも薄れていくものなのかもしれなかった。けれど数年前からこの街では忽然と姿を消す女の人が定期的にいて、その今もどこかで続いているかもしれない出来事のことは、心の奥のどこかにうっすらと引っかかって、残っている。




