8 幼い約束
「でも、私が呪いを解けないのは変わりません。私が何も返せなくても、あなたは私に良くしてくれた。私こそ、お礼を。この後どう扱われても恨みはしません」
「そんなことはない――チサ」
エンデが慌てた様子で私の両肩を両手で掴んだ。いつも優しい触れ方をする彼の手に力が入っていて私は目を丸くした。
「キミが呪いを解いてくれないかと今も期待していないと言えば嘘になる。でも、呪いのために連れて帰ったわけじゃない。キミは最初から呪いは解けないと、あの森で教えてくれたじゃないか。そんな力はないと。
こんなことを言ったらオレは領主失格だが……自分に限ってなら、あぁそうとも、オレ自身に限って言うなら、呪いが解けなくても良いと思っている」
エンデがそんなことを言うから私は面食らった。かといって嘘を言っているようにも見えなくて、真意を確かめようと碧い目を見つめる。
「タビタが言うようにオレたちはそうやって生きてきた。呪いは解けないものだ。そう思って生きていけば今まで通りだ。
でも――」
エンデが項垂れた。完全に顔を俯けてしまって、私には彼がどんな表情を浮かべているか知ることはできない。私が見つめた時、私以上に痛みを覚えていそうな表情を浮かべたのは見たけれど。
「キミが話してくれたのにオレが黙ったままでいるのは良くないな。キミにも知ってもらいたい。だから話しておこう。
ドルン領は呪われた茨の領地だ。其処に住む者たちが他の領地で何と呼ばれているかタビタは教えたか? 彼らが、自分たちが、忌民と呼ばれていることを。他の領地の何処からも、移住を拒否されていることを。遠く外洋に出て他所の国へ行くことさえ願われている。自分の国でだ」
それはエンデも例外ではないのだろう。私はそう思いつつも続きを黙って聞いた。
「良いか、チサ。ドルン領の呪いは、魔女の呪いはキスにより死に至る――それだけじゃないんだ。
人によるが、他の呪いも同時に発動する。二つの呪いを抱えるんだよ」
程度は様々だが、とエンデは言葉を選んでいるようだ。呪いが重なるなんて思いもしなくて目を見開いた。彼は誰を思い浮かべているのだろう。私にさえ心を配る彼が、気にしないはずはない。
「重い呪いを持って生まれたと理解すれば……やがて自分で死を選んでしまう。呪いに食い殺されるくらいならと、誰もが抱える呪いで先に死に絶えることを選ぶ」
死、と聞いて指先が震えた。私にとっての死は、両親を連れ去ってしまったものだ。もう二度と、何も届かない場所へ。
「タビタは“好き”を伝える方法だと説明しただろう。タビタはまだ十四で、彼女自身は追加の呪いもなく、想像できないだけだ。
オレたちにとっての“好き”が、愛する家族を呪いから遠ざける。好きだから、死に至らしめる。滑稽だ。呪いに苦しみながら、その呪いで逃げることができるんだから」
ぐ、とエンデの指先に力が込められる。肩に食い込みそうなそれも気にならないくらい、エンデの痛みを想った。
魔女の呪いはひとつではない――それは絶望にも似た音だった。キスをしなければ、あるいはされなければ生きていけると思っていたけれど。自分で死を選びたくなるような呪いがかけられているとエンデは言う。
「呪いは、次に生まれる領民に移る。連鎖は終わらない。オレは領主として苦しむ領民を放っておくわけにいかないんだ。だが、チサ。キミもオレの領民だ。キミを受け入れる。だからキミにも負担を強いたくはない。これはオレの我儘で、キミは断って良い。だけど、チサ……っ」
苦しそうにエンデは私を呼んだ。何も言わない私を、俯けていた顔を上げて彼が見る。海を映す碧い目に波が立ちそうになっていた。それなのに、私を見た途端いつものように優しく笑う。
あぁ、と私は気づいた。これはきっと、彼の領主としての顔なのだと。安心させるために、大丈夫だと言い聞かせるようなそれで、彼は全てを背負うのだろう。自分が領主だからと、その責任の名の下に。
「オレの苦しみを終わらせてくれる人がほしいと願うのは、悪いこと、だろうか。その役目を魔女の一族の末裔であるキミに願うのは、キミを傷つけることだろうか」
「……」
――伯爵は妻になる女性にキスをして死にたいと、子どもの頃から願って……その願いを叶えるために生きていると、聞いてるッス。
タビタが教えてくれた言葉を思い出す。彼はどれくらい領民の苦しみを受け止めてきたのだろう。彼の苦しみは一体誰が、受け止めてきたのだろう。
私で良いのか判らない。でも、私でなければならない理由がある。私なら――キスでは死なない。
私は目を閉じて、息を整えた。知らない内に息を呑んで呼吸が止まっていたようだ。胸が苦しい。この痛みの何倍もきっと彼は、痛いのだろうに。
私の痛みを一緒に味わってくれた人。私がこの人に、何かできることがあるならば。
「あなたが終わらせてほしいと願う時、私で良ければ……キスを贈りましょう」
青空の下の、白い白い異国の人。海の色を映した目はきょとんとして私を見つめて、本当に、と私に確かめる。
「本当にオレを――自由にしてくれるのか」
誰よりも働いて、心を尽くす。この人が真に求めるものがそれならば。
「本当に」
私はそっと両手を伸ばした。肩に触れていたエンデの手が緩む。背の高い彼に触れるために両足の爪先でぐっ、と立って。私が何か言うのかと思ったらしい彼が屈んでくれたから、よく笑うその頬を包むように挟んで、唇の合わせを両の親指で押さえた。
「……何も言わないで」
そのまま親指に唇を寄せた。彼がそうしたように自分の指先にキスをして。肩に触れたままのエンデの手が動揺したように震え、爪先で立った私の体は船の揺れですぐに離れた。
「これで信じてくれますか?」
誰にも見せたことのない彼の表情が、ほしくなったから。傘の下で、秘密の約束を。
「あぁ、チサ……キミはなんて」
誰よりも誰かの命を尊び、その維持に全力をかけられる人。自分の領民を慈しみ、幸せであれと願うことができる人。私が生きていて良かったと嬉しそうに言って、受け入れると決められる人。
どうして私なのか、と思っていた。私がかつて呪いをかけた、昔々の悪い悪い魔女の一族の末裔だからだとしても。
彼が心から苦しんでこの役を辞めたいと願うなら。その時に幕を下ろすのは、私の役目な気がした。
それが私の受けた恩の返し方、なのだろうと思うから。
* * *
「伯爵、今にもおひいさんにキスして果てそうッスね……」
「その時は俺が止めよう」
あれから私を抱きしめて動かなくなったエンデと畳んだ大きな傘を引きずって、私は自分の部屋まで戻った。中にいたタビタは飛び上がって驚いて、その声に何だ何だとギフトもやってきた。階段を降りる時にガタガタと足をぶつけただろうにエンデは私にぴったり張り付いて離れようとしない。
「今が人生で最良の瞬間なら今キスをするべきじゃないか? いや、待てこんな幸運があったんだこの先だって人生最良の瞬間を更新するかもしれない。夢にまで見た女性だ。もっと堪能してから死んだ方が良い」
「こわい」
耳元でずっとブツブツそんな独り言を聞かされ続け、遂に私が泣き言を漏らすと、ギフトがエンデを引き剥がしてくれた。シンプルに怖がられてるッスよ、とタビタがエンデに苦笑する。
「伯爵がこんな風になるってことは、おひいさん、伯爵の申し出を受けたんスね。伯爵の願いが一歩前進したのはあたしたち的に良いんだか悪いんだか複雑な気持ちッスけど、残念な伯爵を見られたならお釣りがくるッスかね」
残念な伯爵、と私はタビタの言葉を繰り返した。コレッス、とタビタは自分の主人を親指で指したけれど、当のエンデはギフトに引き剥がされて抗議していた。
「良いだろう、ずっと忙しくしていたんだ。チサを堪能するくらい……」
「それはさぞ紳士らしい振る舞いなんだろうな」
最初に会った時と同様のギフトの呆れた声音の台詞に、私は懐かしさを覚える。まだたった、数ヶ月前だと言うのに。
「あぁ、いや――ごほん、しないとも。オレは紳士。そう、紳士だ。ドルン領、シュヴァーン伯爵家の当主として恥じない振る舞いだ」
エンデも最初に会った時と同様に冷静さを取り戻し、何だ、足が痛いなと首を傾げながらもしゃんと立った。自分がどんな状態だったかまさか覚えていないのだろうか。あの約束は早まったかもしれないと少しだけ後悔しながら口を噤む。
「改めて、チサ。オレの申し出を受け入れてくれてありがとう。すぐにどうこう、というつもりはない。キミも新しい環境に馴染まなくてはならないからな」
エンデは伯爵の顔で笑った。痛みを上手に隠してしまうそれは、まるで海だと思う。あるいは反射する太陽の光。
「来週にはドルン領だ。戻ったオレがすることは視察。何ヶ月も留守にしていた。まずはどうなっているか、呪いに蝕まれている領民を訪ねなくては」
着いてきてくれるね、とエンデが私を見て問うた。はい、と私は頷く。よし、と拳を握ったエンデにギフトが大きな溜息を吐いた。
「勿論、あたしたちも一緒ッスからね! おひいさんの行くところ、お世話係のタビタと、護衛のギフトも着いていくッス!」
「オレの護衛もよろしく頼むよ、ギフト」
エンデがニコニコと笑って言うけれど、ギフトはそれを無視したように見えた。良いのかな、従者なのに、と私は思ったけれど余計なことは言わないでおく。あれで二人は長く一緒にいることが窺われたし、ギフトが返事をしなくてもエンデは気にしていない様子だった。
「最初は」
エンデが腕を組んで刹那、目を伏せる。一瞬だけ苦悩を覗かせた表情は上げた次の瞬間にはすぐに取り払われていた。キラキラと、いつもの眩しい笑顔を浮かべながらにこやかに告げる。
「森の外れに住む木職人の一家だな。彼処にはまだ幼い兄妹がいたはずだ。呪いが発動しても打つ手はあると安心させてやらないと」
追加の呪いのことだろうと思って私は緊張した。全員が抱えるキスの呪い以外の、呪い。
「彼らに母親を焼き殺すなんて、させたくないんだ。幼い子どもにそんな残酷なこと、絶対に赦されるはずがない」
「……」
あまりに恐ろしい追加の呪いに身を震わせながら、私は近づくドルン領のことを思った。
呪われた茨の地。昔々のその昔、悪い悪い魔女がかけた呪いに侵された土地。呪いを解く力を持たない私は遂に、必死に抗う伯爵家の当主と一緒に足を踏み入れた。
針で刺したような痛みを、胸に抱えながら。
おぉ危ない…!夕方からガチ寝キメて22時とかに起きてしまったけど何とか間に合ったと思うことにする!
この世界で生きる彼らの続きを書いてる人が一番見たいと思っている自信があるので筆が乗ったら書きたい。
此処まで読んでくださったあなた様にもそう思って頂けるようなお話でありますよう。




