◆スサノオ編 ~賢者の戦慄~
ツクヨミの国(元ドワーフの国)を見渡せる、国境付近の岩山。
その岩肌に掘られた潜伏拠点にて、諜報部隊長ミスラは、目を閉じて瞑想していた。彼女の意識は、眷属である数匹の蛇と繋がり、遥か先の城下町の様子を、その蛇たちの目を通して克明に捉えている。
眼下に広がるのは、ごくありふれた人間の街。畑を耕す者、家路を急ぐ者、酒場で談笑する者…。
だが、その光景こそが、ミスラの背筋を凍らせていたのだ。
(バカな…ありえない。数週間前まで、ここは確かにドワーフの国だったはずよ。あの屈強な民が、あの頑固な職人たちが、この街を営んでいたのよ。それなのに…。まるで最初から、ここが人間の国であったかのように、全てが塗り替えられている。征服の痕跡はない。虐殺の気配もない。そのような気配は微塵も感じなかった。これだけの事態。騒ぎが起きていないはずないのに。しかしこれは、ただ存在が「上書き」されているとしか…!)
それは、ミスラがこれまで経験してきた、いかなる諜報活動とも、いかなる戦争とも、全く質の違う、理解の範疇を完全に超えた現象だ。
(この新しい「人間の王」…一体、何をしたの?これほどの奇跡、あるいは呪いを行使できる存在だとすれば、もはや我々が相手にできるレベルではないわ。ズリ様は、エルフとドワーフの同盟を警戒されていましたが、真に恐るべき得体の知れない王が、この国に誕生したなのでは…?)
彼女は意識を自らの身体へと引き戻すと、震える手で羊皮紙に報告を認めた。それは、これまでのどんな報告よりも、慎重に、そして切迫した言葉で綴られていた。
半日後。獣王城、賢者ズリの執務室。
鳥人が届けたミスラからの報告書に目を通したズリは、その場で凍りついた。
表情を変えぬよう努めてはいたが、その手の中で、羊皮紙がかすかに震えている。
(…なんだ、これは。ミスラの冗談か?いや、あの女がそのような報告を、この私にするはずがない。だが…「王の代替わりと共に、民も、街も、一夜にして人間用に最適化された」だと…?馬鹿な。そのようなことが、現実に起こるというのか)
彼は、一度報告書から目を離し、天井を仰いだ。
エルフとドワーフの同盟。それは、脅威ではあるが、「理解できる」脅威だった。国と国との、政治と戦略の延長線上にある、予測可能な未来。
だが、これは違う。
これは、ズリの知る、どんな戦略論にも、どんな兵法にも当てはまらない。
盤上のルールそのものを、根底から覆すような、絶対的な力の行使だ。
(神か…?いや、我らがスサノオ様ですら、このような御業は…。だとすれば、この新しい人間の王は、我々の知らない、別の神に遣わされた存在か、あるいは、王自身が…?)
ズリの額に、冷たい汗が伝う。
初めて、彼は、自らの知恵が及ばぬ領域の恐怖を感じていた。
ライの単純さも、スサノオの豪快さも、この「観測不能な脅威」の前では、あまりにも無力に思えた。
(…これが真実ならば、神のごとき存在と戦争など…)
賢者ズリは、これまで感じたことのない種類の戦慄を覚えながら、その報告書を、誰にも見られぬよう、厳重に懐の奥深くへとしまい込むのだった。
彼の頭脳は、この新たな、そして最大の脅威にどう対処すべきか、恐ろしいほどの速度で回転を始めていた。




