彼女といた春夏秋冬
酒を飲んでは、凍るように静まり返った深夜深くに、心に傷を負った人間ばかりが出てくる映画を繰り返し見ていたあの頃に、僕は君に出会った。
「私は死ぬと思う?」
彼女はビルの屋上のへりに立っていた。
「・・・」
僕は何も言えないでいた。それが僕たちの出会い。
あの時、心地よいビル風が吹いて、ビルの屋上から見渡す街の夜景が恐ろしくきれいだった。それを今も鮮烈に思い出す。
誰かが誰かを傷つけても、「そんなの私には関係ない」と、はっきりと言える、ここはそんな世界。
ここは心のない世界。
心のない世界で、心のない人間ばかりに囲まれていると、人の心は次第に干からびたリンゴみたいに枯れてくる。枯れた心は、死んだ海のようにもう新鮮なやさしさを生み出すことはできない。やさしさや思いやりという潤滑油を失った心は次第に死んでいく。緑内障の人の視野が徐々に欠損して、失われていくように――。
君が死んだ時、この心のない世界に生きて、死んでいった僕の心の、それでも残っていた場所のその心も死んでしまった。だから、僕は今何も感じない。それだけがこの世界の救い――。
「私は確かな愛が欲しい」
彼女は言った。
「本当に確かな、何の疑念も見返りもない、純度百パーセントの愛」
彼女は遠くを見つめていた。多分、それは遠くにしかないものなのだろう。
世の中には信じられないくらい、悪い奴っていうのがいて、どれだけの人間が不幸になろうとも、どれだけの人間の人生が狂わされようとも、どれだけの人間の生活や生命が奪われようとも、自分の利益の最大化と、出世が出来たらそれでいいという、どれだけの人間が傷つこうともまったく平気で笑っていられる人間っていうのが本当にいる。
そういった人間が、先天的なものなのか、何か後天的な要素によるものでそういった人間になるのか、それは分からなかったけれど、でも、心のまったくない人間っていうのがこの世には本当にいて、なんの罪悪感も躊躇もなく人をいじめたり差別したり傷つけたり、搾取したり、貶めたり、そんなことが、遊びの延長のように平気で出来る、そういう人間を、僕は実際にたくさん見てきた。
人間っていうのは常に不完全だ。どんなに科学が進歩し、高等教育を受けようとも、礼儀や道徳的観念を持っていない人間は持っていない。心の部分が育たない人間は育たない。むしろ社会の現実は、そういった人間の方が圧倒的に多い。そのことを知ったのは僕が社会に出てからだった。それが、僕が知ったこの社会の現実だった。
「ほんと嫌になっちゃうわ」
彼女はこの平和で豊かなこの世界を地獄だと言った。僕もそう思った。
「天国ってどこにあるんだろうね」
彼女は、薄いブルーのとても気持ちのいい空を見上げながら言った。その言葉の悲しさとは裏腹に、彼女の横顔はとてもかわいかった。頬の丸さと鼻の頭の丸さと、輝くその美しい目と、そのコントラストが絶妙なバランスの中で完璧な造形を形作っていた。
「・・・」
多分、彼女はどこにも天国なんかないことを知っていた。そして、僕も知っていた。僕たち二人とも、そのことをはっきりと知っていた。
でも、そのことを言葉にし、声に出し、問わねばならない時っていうのがある。人間は、理屈ばかりで生きているわけじゃないからだ。
僕は孤独で、彼女も孤独だった。大都会のど真ん中で、たくさんの人間に囲まれながら、僕たちは絶海の孤島に生きていた。
そんな僕たちの孤独は、でも、二人になっても孤独だった。ゼロはどんなに足してもかけてもゼロだった。僕たちは、どんなに同じ時間を同じ空間で過ごしても、お互いの孤独を癒すことはできなかった。現代社会の多くの恋人がそうであるように――。
「彼は言ったわ。お前の胸が好き。お前のお尻が好き。お前の足が好き。お前の腕が好き。お前の首筋が好き。お前の目が好き。お前の鼻が好き。お前の唇が好き。お前の髪が好き。お前の顔が好き。でも、お前は好きじゃない」
「・・・」
「でも、私は好きだった。その人のことが大好きだった」
「・・・」
「愛されなければ愛されないほど彼を好きになった」
「・・・」
そう語る彼女の目は心なし輝いていた。恋に恋する高校時代。その時を語る彼女は子どもみたいだった。
「僕は君のスカートを好きになったんだ」
このことは彼女には絶対に言わなかった。誤解されるといけないから、僕はずっと黙っていた。
君の長くふわりとしたそのちょっと厚手の黄色に近いベージュのスカートが、君の後ろ姿にすごくピタリと合っていて、僕はその素敵さに心がいっぱいになった。そのどこか特殊な素材のスカートの質感が、君のシルエットに溶けるように重なって、そこに完璧な何かを僕は見たんだ。あの時の感動を言葉にすることは難しい。でも、それは、どんな世界中の美しい何よりも、美しく完璧だった。
「自分がいなくなった世界を想像したことある?」
彼女が僕を見る。彼女は真っ赤な口紅をつけていた。それが艶めかしく、とても今日の彼女に合っていた。
「ううん」
僕は首を横に振る。僕はそんなことを考えたことは一度もなかった。
「私がいなくなっても、なんの問題もなく世界は回り続けるのよ」
「・・・」
「なんだか不思議じゃない?」
「・・・」
確かになんだか不思議な感じがした。僕のいない世界・・。
「私は毎日あそこに立つの。なんだか落ち着くのよ。あそこに立つと」
「・・・」
「本当に死ぬのか私にも分からない。生きるってことが分からないみたいに」
彼女は微笑んでいた。
「・・・」
僕は彼女に死んで欲しくなかった。でも、西の夜空には、何かを暗示するみたいに赤い大きな月が出ていた。
何がきっかけで僕たちは、愛し合ったのだったろうか。出会いがあって、言葉があって、会話があって、匂いがあって、思いがあって、体があって、見つめ合って、お互いの存在があった。
男と女という関係性の持つ引力の、よく分からないその力の圏内に知らずに入ってしまった僕たちの、その惹かれ合う力に流されて、結局巡りゆく因果の中で、訳も分からず僕たちは愛し合う。
その圏内に、僕たちは入るべきではなかったのだろうか。この冷めた現代社会の常として、ある一定の距離の中での関係性を意識すべきだったのだろうか。
それは今も考える。
「愛は障害があった方が燃えるのよ」
彼女は、白い薄地の花柄のワンピースに、ふわりとショールを羽織っていた。左肩に乗せた長い三つ編みの髪が、そのワンピースによく似合っていた。
「食べちゃダメって言われると、人はそれを食べたくなるのよ。堪らなくね」
「・・・」
「だから、今のこの平和な時代に生まれてしまったことをいつも悲しく思うの」
彼女は本当に悲しそうに言った。
「戦争経験者の人たちに言ったら怒られちゃうかもしれないけど」
彼女はそう言って笑った。
「でも、何でも順調っていうのも、それはそれで苦しみなんだわ」
「・・・」
それも一つの真理なのかもしれなかった。
「戦争も貧困も、親の反対も家柄の違いも身分の差もないなんの障壁もないこの平和で豊かな社会でどうやって、本当の愛を掴めばいいっていうの?」
彼女は不満顔で言った。
「あるとしたら白血病くらいね」
ため息交じりに彼女は言う。
「障害がないことが障害なんだね」
「そうかもしれない・・」
そして、彼女は、自分の世界に沈んでいくように黙った。
「私のおばあちゃんは、亡くなったおじいちゃんのことをずっと愛していた」
再び彼女が静かに口を開く。彼女の少し濃く青みがかった美しい声が夜の空気に溶けていく。
「親が決めたお見合いで、初めてお互い会って、そして、すぐに結婚して、その後、結婚生活一週間でおじいちゃんは兵隊にとられて東南アジアに出征。その半年後に戦死の報が来て、帰って来た遺骨の入った箱には、石ころが入っていた」
「・・・」
「でも、おばあちゃんはずっとおじいちゃんのことを想っていた。ずっとずっと何十年経っても、ずっと、ずっと変わらず想っていた。おばあちゃんは今でもおじいちゃんを愛している。九十を過ぎて頭も半分ボケてしまっているけれど、今でもおじいちゃんを愛している。想い続けている。とてもとても」
「・・・」
「私はそんな愛が欲しい。生まれてきたことを、この人生がどんなに悲しく悲惨で理不尽であっても、人が生きるってことのそのものが儚く虚しく意味も価値もなく、そして、それがたとえまごうことなき真理で、生きるってことがこれ以上ないくらい残酷であったとしても、それでも、生まれてきてよかったと思えるそんな確かな愛が欲しい。そんな強烈で圧倒的な愛が欲しい」
「・・・」
僕たちには愛があって、でも、死ぬほどに燃え上がる愛ほどには、自分たちを燃やすことも、周囲を燃やすことも、そして、何ものをも燃やし尽くすこともできずにいて、そして、僕たちはそんな愛に、決して到達できないことを知っていた。そんな愛は、物語の中にしかないことを知ってしまっていた。
何ものをも犠牲にして愛を燃やすだけの動機も情熱も、それを湧き上がらせる何かも、僕たちは持ってはいなかった。
やっぱり、この国は平和だった。だから、僕たちは、平和という空虚さの前で、平伏するしかなかった。
「誰かに期待することはとても危険なことだよ」
会社の先輩が言った。ムーミンに出てくるスナフキンみたいな人だった。
「そうなの?」
「うん・・」
「・・・」
でも、期待せずにはいられない。それも人だろ?
「救急には、今すぐにも死にそうな人も大勢来る。私は、毎日人の生きるか死ぬかの場面で、必死にその人の命を救おうとしている。でも、その当の自分は死にたいと思っている。そのまったく正反対に分裂した自分が、堪らなく苦しくて、私は、気が狂ったみたいに叫び出しそうになる」
「・・・」
「多分、叫んだら終わりね。本当に狂ってしまう」
彼女はそう言って少し笑った。
「・・・」
僕たちは、暗いビルの屋上でビールを飲んでいた。夜空はその奥までが真っ暗で、その下に広がる夜景が、静止した花火みたいに輝いていた。
「医者になったのだって、お父さんが医者だったから。それだけ。小さい頃から私は、私じゃなかった。私って今でも分からない。私は、両親の理想と期待の中で生きてきた。だから、私は私が分からない。本当の私が分からない」
彼女はずっと眼下に広がる夜景の光の粒を、一つ一つ点検していくみたいに見つめていた。
「端から見たら、うちはとても平和で理想的な家族だったのかもしれない」
「・・・」
少し酔っぱらった頭のもやもやに、夜風が心地よかった。
「でも、暴力はどこにでもあるわ。ただ見えないだけ」
彼女は堪らなく寂しそうな顔をした。僕はそんな彼女を堪らなく抱きしめたくなって、彼女に両腕を伸ばして抱きしめた。僕の温かさと彼女の温かさが、質感を持ってお互いを温め合う。
「・・・」
この温かさを愛と呼ぶのなら、僕たちはこの時確かに愛し合っていた。
「本当に患者さんに誠実に向き合うと、心が壊れそうになる」
彼女は、僕の胸の中に顔を埋めながら言った。生きていくことに不安を抱えた幼子が母親に甘えるように、彼女は僕の胸の中にその全身を預ける。
「・・・」
言葉はいつも嘘ばかりつく。だから、彼女は、人に対して誠実に生きようとしていた。
「苦しむ患者さんと自分を同化してしまうと、本当に自分も苦しくなる」
彼女はこの心の死んだ世界に必死に抗っていた。人間というやさしさをどこまでも信じようとしていた。
失いそうになるやさしさを必死に温めて、温めて、温めて彼女は生きていた。
理想を追いかけても、もう、そこに情熱を感じなくなったのはいつからだったろうか。
僕は今、とまった機械みたいに冷めた心の中にいる。
お金、生活、世間、現実・・。
自由や夢を追いかけても、色々と、色々とよく分からない苦しみがあって、それから逃げて逃げて、結局人はそこに辿り着く。
心はいつもちょっとしたことで傷ついてしまうから、やさしい心ほど傷つきやすいから、だから、時に心にも治療が必要だ。
「あの人たちは心を何も分かっていない。だから、私は行くのをやめたの」
「・・・」
人の心を治すなんて端から誰にもできないのかもしれない。
「あの人たちは九時五時で帰るの。そんな心の治し方ってある?人の心に失礼じゃないかしら。バカにしてるわ」
彼女は、ぷりぷりと怒っていた。僕はそんな彼女をかわいいと思った。
彼女は、若い女の子と本気で恋愛ができると信じている、四十七歳の童貞の男に、滅多刺しに刺されて死んだ。
今のこの愛に飢えた時代、人に対する余計なやさしさは、時に命を落とす。
「私の父方のおじいちゃんが亡くなる時にね」
「うん」
彼女は今にも吹き出しそうに話し出す。
「昏睡状態になって、もうダメだから、家族とか親戚一同みんな病室に集まったの。そしたら、急に昏睡状態のおじいちゃんが」
そこでまた彼女は笑い出しそうになった。
「突然、オマンコ、オマンコって、うなされたみたいに言い出すの。意識はないのよ」
彼女は笑い出した。僕もつられて笑ってしまった。
「父方のおじいちゃんは遠くに住んでいて、そんなに会ったこともなかったの。でも、すごくいいおじいちゃんだった。何があっても私の味方でいてくれる。そんな存在だった。多分、私が人を殺しても、味方でいてくれたと思う。そんな人だった。すごく真面目な人で、仕事も公務員。四十年間無遅刻無欠席。今でもその町の役場では伝説になってるわ。もう絵に描いたようなクソ真面目な人。そのおじいちゃんが死ぬ間際に、オマンコ、オマンコって連呼するの。まあ、そういうことは意識が混濁しているとよくあることではあるんだけど、でも、みんな気まずいわよね」
「うん」
「でも、しばらくしたら、おじいちゃんがまた昏睡状態に入って、黙ったの。みんなホッとしたわ。心底ほっとしていた。誰も何も言わなかったけど、みんな本当にホッとしていた。でもね」
そこで、彼女は、また笑い出しそうになった。
「その時、何にも分かっていない幼い姪っ子がね、おじいちゃんおじいちゃんって、意識がなくなったおじちゃんの傍らに行って揺り起こそうとするの。でも、誰もとめられないじゃない?だって、何も悪いことはしてないんだから」
彼女は笑う。
「うん」
僕も笑ってしまう。
「亜紀ちゃん、亜紀ちゃんって、おばさんがやめさせようとするんだけど、亜紀ちゃんは全然分からないわけ」
「うん」
「そしたら、またおじいちゃんが、オマンコオマンコって言い出しちゃって、あははははっ」
そして、そこでついに彼女は、思いっきり吹き出してしまう。そして、腹を抱えて笑い出した。
「あははは」
僕も同じように笑い出す。
「あははははっ」
「あははははっ」
僕たちは堰を切ったようにお腹を抱え、涙目になって笑って笑って笑いまくった。
「オマンコ、オマンコって、あははははっ」
彼女は笑いながら苦しそうに言った。
「あははははっ」
僕も笑い過ぎてお腹がよじれ、苦しみながらそれを聞いた。僕たちは狂ったみたいに笑い続けた。僕たちの頭は空っぽになり、僕たちはこの時、完全なバカになった。
「あははははははははっ」
「あははははははははっ」
バカは気持ちいい。そこに悩みなんて下らないことはまったくない。
「あははははははははっ」
「あははははははははっ」
悩みは頭のいい人間の病でしかなかった。
「でも、不思議ね。そんなことがあっても、その後、普通に、お通夜があって、何事もなかったみたいにお葬式が済んで、火葬して、おじいちゃんはお墓に入った。誰も何も言わなかったわ。誰も、あの時のことを・・」
「・・・」
死ぬほど笑って、本当に死ぬかと思うくらい笑って、あれだけ笑ったのが嘘みたいに静かになったそんな時、彼女は静かに言った。
「本当に不思議だったわ・・」
彼女はあの時、どこを見ていたのだったか・・。
今思えばあの時の滲んだ水彩画のような霞んだ彼女の面影が、その後もたくさん見たはずの彼女の、最後の姿だった。
君は死んでしまった。春が来て、君と出会い、夏が来て、君と語り合い、秋が来て、お互いを温め合い、そして、冬が来て、共に生きようとしたそんな頃、まるで、来年また春が来れば、君とまた会えるみたいに、ある日、ふらりと君は死んでしまった。
この残酷な世界の理をすべて受け入れて、それでも、抗おうとした彼女の人生の痕跡を、今僕は堪らない懐かしさと寂しさと共に思い出す。