7.女将さん
「すみません…女将さんはいらっしゃいますか?」
食堂の扉がぎぃっと開かれて小さな声で尋ねられた。
「はいよー!今休憩中だよー。次は夜からですよーっと。って、ええっ!!リアーナじゃないか!」
エプロンで手を拭きながら奥から顔を出すと、声の主はあのリアーナだった。
いやいや、まさか、そっくりさんか?
慌てて飛び出し、リアーナの顔をじっと見つめる。
うん。やっぱりリアーナ本人だ。
驚きすぎて声が出せないでいると、
「突然やってきてすみません。実はご相談がありまして。」
「え?いや、は?」
「え?」
驚き、言葉にならないままでいると、リアーナは困惑したようだ。
「あの?何かありましたか?」
何かあったどころではない。
リアーナが二週間ほど行方不明になっていると、リカードが護衛を沢山引き連れて---護衛たちが慌ててやってきたリカードを引き留めているように見えたが---きたのはつい先程のことだ。
「あんたっ!リアーナだよね?一体どこに行ってたんだい?リカード様たちが血眼になって探しているんだよ?」
「え?は?」
はぁぁぁ。と大きめなため息をついてしまう。
一体どういうことなんだい?
「一体何の話でしょう?」
それはこっちのセリフだよ。と思いながら、じっとリアーナを観察する。
「うん。リアーナに焦ったり隠れたりするようなそぶりが見えないねぇ。なら話を聞くのが先か…。」
小さく呟くと、リアーナの腕を引いて奥の仕切りのあるテーブル席に座らせた。
「ちょっと待っといで。」
食堂では水の代わりに出していた常温のハーブティーをコップに注いで二つ持って戻る。
「ほら、お飲み。金も持たずに出てきたんだろう?どうやって過ごしてたんだい?」
リアーナは、ありがとうございますと先にお礼を告げて、コップを傾けた。
一体どこにいたのかはこの後聞くとして、日陰を選んで歩いたとしても、炎天下で歩いていたら体力は消耗してしまう。
お金がなければ乗合馬車にも乗れないし、歩くしかないのだ。
それに、食べたり飲んだり、宿泊する事だってできやしない。いや、まさか。自分が渡したあれっぽっちの保存食で生き延びたなんて事はないだろうね?
「ご馳走様でした。」
リアーナは自分と向き合った。
おや?と思う。
先日一年半ぶりに会った時は、俯き加減ではあるが、前よりも大分人と話せるようになったなと思って密かに喜んでいた。
ここに来た当初は本当に酷かったのだ。
ボソボソと話すので声は聞こえないし、顔を見ようとすると、自分は不細工なので見ないでほしいと懇願し、床にうずくまってしまうのだ。
それに身なりも薄汚れているし、痩せ過ぎている。これでは店には立たせられそうにない。
申し訳ないが雇えないよと告げると、床におでこを擦り付け、なんでもするのでどうか雇ってほしいと懇願された。
……仕方がない。
年端も行かない子供にこれほど懇願されて無碍にしたら女が廃るってもんだ。
自ら不細工だというのだ、見られたくない傷でもあるのかも知れない。それなら出来るだけ人目のつかない裏方で野菜の下拵えをさせてみることにした。
するとどうだろう。
ジャガイモの皮剥きは一発で薄く剥き、芽の出たところは包丁の顎を使ってくるりと取り除く。
どのサイズに切ればいいのかと(たどたどしくはあったが)聞かれたので、料理によってサイズや切り方が変わるからと、その都度知らせる事にした。一度教えると次回からは何も聞かずに完璧にこなす。
料理補助のスキルを持っている子達の倍働き、何倍も上手にこなしてしまう。
料理のスキルを持っているのかと尋ねると、全く別のスキルです。料理や裁縫のスキルだったら良かったのに。と寂しそうな顔をさせてしまった。
これはかなりの訳ありだね。と思い、人伝いにリアーナのことを探ってみると、母親と二人暮らしなのに、その母親は働きもせずにリアーナを働かせて自分磨きをしていると分かった。
おいおいおい!
リアーナの本業の給料が安いのだから掛け持ちしろと言われて、昼夜問わず働いているのだと聞くと、まだ幼いため法律に則って満額の給料を払うわけにいかないことがますます申し訳なくなった。
ある時あまりにも酷いナリでやってきた。
今日は本業の方がお休みだと聞いていたのだが、泥だらけでひどい匂いを漂わせていた。何があったのか聞きたかったが、それよりも綺麗にしてやる事を優先した。
これでは裏方でも働かせる事ができないからだ。
たっぷりのお湯を沸かしてやることはできないが、多少のお湯で体や頭を洗うくらいはしてやれるからと、風呂に入れてやると、痩せ細った身体中にアザがあるのに気がついて息を呑んだ。
リアーナは決して母親を悪く言わない。本業の話と家の話は決して言わないのだ。
しかし、伝手でリアーナの話を集めていた事がある私の元へ、もう頼んでもいないのに情報が入った。
可哀想に、家で母親に叩かれているようだとタレコミがあったのだ。それがこれだったのか。こんなになるまで叩くなど正気の沙汰とは思えない。
顔に傷があるような娘だからと、叩いたり蹴ったりするのか?そんな必要がどこにあるか!と腹立たしく思いながら頭からぬるま湯を掛けて流してやり、アザに触れないようにタオルで全身拭いてやっていて驚いた。
リアーナの顔には傷なんて一つも無かったのだ。
あるのは整いすぎている顔のパーツだけ。
長い前髪で隠れていたし、痩せすぎて頬など痩けてはいるが、今まで見てきた人間の中でこの子ほど綺麗な顔立ちをしている子は見た事がなかった。
タレコミしてくる人によれば、母親は自分よりも可愛らしい娘に嫉妬しているのだろうと言っていたが…
なんてバカな母親なんだ!
自分の娘が可愛いなんて、私だったらめちゃくちゃ可愛がるよ!いや、娘が、子供がいるだけで幸せなことなのに、なんで可愛がらないんだ!
女将は自分が失った子供を思い出し、リアーナの体を拭きながら少しだけ泣いたのだ。
「あの…なんでご存知なのでしょう…。あの時の私、衝動的に着の身着の儘出てきてしまったのですけど。」
女将ははっと我に帰る。
昔のリアーナは人に顔を見せる事を怖がっているようだったのに、今はしっかり私の目を見ている。どんな日々を探して来たのかは知らないが、このとても良い変化に、嬉しくて涙が滲む。
「さっきまでリカード様と護衛たちがここら辺りを聞き込みして回ってたんだよ。お陰でその目の前の道に人がごった返しててねぇ。商売になりゃしなかったんだよ。」
店の前の通りを指差し、昼の売り上げがイマイチだったと言っておちゃらけた風を装い、嬉し涙をそっと拭った。
「まぁ!そんな事が?」
まるで、なんでそんな事に?という表情のリアーナ。
これは自分が探されてる事じゃなく、店の前がごった返した事に驚いているんだねぇ。と呆れてしまう。
ここにやってきた時からこの子は自分に無頓着だった。そうじゃなきゃ魔力が切れる寸前まで仕事をしないし、栄養失調になるまで食べずにはいないだろう。
家で食べられるご飯はなく、金も親に毟り取られるのだ。ここで賄いを食べさせたと知られた時には「物乞いみたいな事をするな」と叱られたそうで(これもタレコミで知って、リアーナの母親に対して殺意が湧いたんだよ。)それからはかなり多めの保存食になりそうなものを毎日渡したり、味見と称して食べさせるようになったが、それでもあまり口にしようとしなかったのだ。
多分それは今も変わりなく、自分が探されるほどリカードに執着されてることにも気がついていないのかもしれない。
ただ、食事に関しては上手いこと食べさせるのに成功したんだろうね。頬は少しふっくらして赤みが刺してとても可愛らしくなり、髪も艶々になっているもんね。
それにしたって、
「そんな事ってねぇ…。リカード様たちはここにももちろん来たんだよ?ここがメインだったって言っても過言じゃない。リアーナが行方不明になった、何か知らないか?匿ってないか?って。そりゃあもうすごい剣幕だったんだよ。」
「あらまぁ、何故かしら?」
「はぁ…」
やはり、リアーナはリカード様がどれほど自分を好いているのかを知らないままだったりするようだ。
あんなにわかりやすいのに、もしかして本人の前ではスン…としてるんじゃ…。
いやまさかそんな…。あんな情熱的なのに?
リカードはある女の子(もちろんリアーナだろう。噂では名前は出ていなかったが。)に一目惚れしてからは、今まで嫌がっていた王族の勉強を始めたと言うのはそこそこ有名な話だ。
更には、リアーナの実家へ様子を見に行くため乗馬を覚えたのだと自信満々に言っていて、隣の護衛を「単騎で出かけられるのはやめて頂きたいのですが…。」と泣かせていたほどだ。
王子が護衛を振り切ってやる事が、好きになった子のストーキングだと知って、私も旦那も呆れたもんだ。
リアーナのストーキングのために努力をしつづけている次期王様。好意は誰が見たってダダ漏れだ。
まさか、本当に知らないとか?
いや、相手は王族だ。
言えない事も多過ぎてサトラレないようにも努力しているのか?いやいやそれって何のために?
女将は一瞬であれこれ考える。
「私、何か悪い事をしたかしら…。
あ!もしかしたら、王妃教育をサボってしまったから、怒ってらっしゃるのね!どうしましょう!」
確かに書き置きもせずに出てきてしまいましたし、でも、とっくに見切りをつけられていると思いましたのに。と首を傾げて言うリアーナの両腕をテーブル越しにガッシリと掴む。中腰になって腰が痛むがそれよりも
「お、王妃教育だって!?リアーナ!王妃教育を受けてるのかい!?」
驚く女将に、リアーナは心配ご無用ですよと微笑む。
「私もお声をかけていただいた時にはびっくりしましたが、王妃教育は、宮廷へ有利に就職するためにさせていただいているだけなのです。基本給料が上がるんですよ?職業も選び放題です!私以外にも受けてらっしゃるはずです。」
リアーナは自信満々に言うが、王妃教育とは、王妃になる予定がある人しか受ける事ができない最高位の勉学だと聞く。
リアーナ以外にも王妃教育?
そんな余分予算が、王国の予算として組み込まれることなんてあるのか…。
「就職に有利って…いや、皇后を職業と捉えたら、確かに有利っちゃ有利だけど…。(ボソリ)」
そして女将は気がついた。
あぁ、賢王とは良く言ったもんだ。
つまり、リアーナは…
「囲い込みか…。しかも本人には内緒とか、賢王様とは恐ろしいね…。(ボソリ)」
女将はブルリと震える。
「え?なんですか?」
「あぁ…いいや、なんでもないよ。」
当時、リアーナが雇って欲しいとやってきたすぐあとに、遠くから見ても仕立ての良いと分かる服を着た少年が、護衛と思われる屈強な肉体を持った男性二人と来店した。
身なりや護衛をつけられている事から察するに高位のお貴族様なのだろう。
有り難いことに、うちの食事は美味しいと評判で、そういった人たちが時々食事を取りにやってくる。なので慣れたものだったが、この少年はちょっと挙動がおかしかった。
護衛の影から顔を出して、常に周囲を窺っており、配膳係がそばによると、シュッと首を隠してそこに居ないかのように存在を消すのだ。
なんだいあの少年は…。
調理をしている旦那と二人、挙動がおかしい事に気がつくとその少年を観察するようになったのだ。配膳係のあの子は看板娘で人気がある。囲い込まれたらあの子に拒否権はないかもしれない。
お貴族様ってのは、時々自分の思うようにならない事に腹を立てて理不尽な事をするもんだ。
そうなったら、意地でも盾にでもなってやろうと思ったからだ。
観察を続けると、少年は看板娘には目もくれていないと気がついた。逆に看板娘がこの美しすぎる少年に惚れたのか、その瞳に映りたくて挙動がおかしくなり、こちらが叱らねばならなかったのだ。
看板娘目当てにやってきていたちょっと横暴な発言をすることがあるバカな奴らがそれに気がついて、少年たちに絡んだ事があった。
お貴族様だと気が付かなかったのだろう。バカだから。
少年の護衛に摘み出され、それから店では見ない。
クワバラクワバラ。
でもうちにとっても看板娘にとっても、周囲の客にとってもありがたかった。
そんな日が続いたある昼のこと。
いつもは夜に少年と食べにやってくる護衛の一人が時間を取って欲しいとアポイントを入れてほしいと言い出した。
アポイントだなんて、そんなことをするのは高位のお貴族様しか居ない。やっぱりあの子は貴族令息だったのだと納得し、店の開店時間外ならいつでもどうぞと伝えたのだ。
するとその日のうちに、時間を作ってくれてありがとうと、護衛と一緒にやってきた人物に、旦那である大将と二人で抱き合って縮み上がった。
それもそのはず、やってきたのはこの王国の賢王だったのだ。
女将も大将も自分の成人の儀で顔を拝んだので知っている。逆にその日以外顔を見ることなんてほぼないのだ。成人の儀はその為にみんな足を運ぶようなものなのだ。
そんな成人の儀から何十年も経過しているが、賢王の見た目は当時のまま。二十代半ばを保っていた。
年上のはずが、いつの間にやら自分たちが年齢を追い越してしまった不思議な感覚だった。
両親、祖父母の時代から賢王は健在で同じようにずっと若いままだと言う。王族には良くあることなのだそうだ。
聞いた時には、そんなバカな!ボケたか?と思っていたが、目の当たりにして、「じいちゃんばあちゃん疑ってごめんなさい!ついでにボケたと思っててごめんなさい!」と心の中で謝罪をした。
「あぁ、驚かせてすまないね。そんなに緊張しなくても良い。今日はリカードの親として来たんだ。」
そう言われて、高位のお貴族様だと思っていた少年が、次期国王になるのを嫌がっているリカード王子だと知り、ひぃぃっと、ますます縮み上がった。
「息子がこちらで働き始めたリアーナさんに執心していてね。」
もう彼女しか見えないようでね?健気だよねぇ。まぁ、魂のパートナーに出会えばみんなあんなもんだけど。と笑う賢王、震える大将と女将。
「まぁ、そんなわけでね?とりあえず見守る事にしたんだ。リカードの事もリアーナさんの事も。」
「「は、はぁ…。」」
不敬とは分かっているが、言葉が声にならない。
「でね?リカードが王子である事、リアーナさんを好いている事、夜な夜なこの食堂から家まで後ろから付いて行って危険がないかを確認している事、そんなもろもろをリアーナさん本人には内緒にしてほしいんだ。」
え?そんなことしてるの?それってストーキングじゃない?と思うが言っていいのか?
ダメだろう。いや、相手が王族ならアリなのか?そんな横暴なっ!
「「ひ、秘密…。」」
「そう。秘密だ。全てリカードのやりたいように、リアーナさんの意思も心も尊重したいからね。王子だ王族だと知ったら、リアーナさんの気持ちがリカードに無くても、我々相手では頷かなければならない事態になるだろう?こちらにそんなつもりがなくともね。そうなったらリアーナさんに申し訳ないからね。」
な、なるほど…。
確かに王族に好かれてプロポーズでもされたら、嫌でも頷かなければなるまい。
しかしそれは高位貴族相手でも似たようなものでは?という考えが浮かんだが、口からはやはり出てこない。
では、くれぐれも内緒にね?頼んだよ?
と、良い笑顔で帰って行った賢王。
しばらくの間二人で抱きしめあっていた。
震えがおさまるとそっと離れ、テーブルに突っ伏す。
「内緒だって。」
「だな。」
「知る前の感情が思い出せるか心配だよ。」
「だな…。」
「今まで通りに接する事ができるかねぇ?」
「やるしかないだろ?」
「だよねぇ…。」
ため息を吐き、二人で脂汗を拭った事を思い出した。あの日は久々にお湯を沸かしてぬるい風呂に入ったんだ。
賢い王は、あの後リアーナの異常なほどの“吸収力“を見抜いたんだろう。
ここでの野菜剥きやカットを終えると、店の売り上げの計算なんかも時々やらせてみた。お礼としてとても軽い食事を食べさせる為だ。
一度やり方を教えてみると、あっという間に計算を覚え、数日で私の計算間違えしたところを指摘するようになるほどだったのだ。
あれほどの能力であれば、王妃教育もぐんぐん吸収していたに違いない。
そして、リアーナが決して口を割らなかったスキルも珍しいものだったのだろう。
目の前にいるリアーナを見つめる。
本人は囲い込まれている事に全く気がついていないようだ。心配になるが、一応賢王はリアーナの気持ちは尊重してくれると言っていた。
尊重しないのであれば、さっさと婚約者として国民に報告をしただろう。
まだ間に合うかね?
あの日、リアーナが意識を手放しぶっ倒れたあの日だ。
異変に気がついたのは一緒に皮剥きをして居た料理補助のスキル持ちの下っぱだったはずだ。
慌てたようにやってきて、リアーナちゃんが倒れてしまったと半べそをかきながら私のところへやってきた下っぱ。慌てて共に裏手に回ると、何故か既にリカードがリアーナに寄り添って居た。
「頭を打ったようです!突然意識を失ったそうなので、検査ができる者のところへ連れて行きますが、よろしいですか?」
「え?なんでそんな事知って…あ、ええっ!?」
話している途中で、護衛の一人がサッとリアーナを抱き上げる。なんでお前が触ってるのさ!とリカードに睨みつけられ、軽く叩かれながら出て行ってしまった。
慌てて追いかけようとすると、残った護衛に止められ、細かな説明を受けた。
リカード様はリアーナの現状を変えるために、積極的にリアーナの周囲を調べていたそうだ。
女将の自分と同じだった。女将もどうしたらリアーナを引き取れるかを確認している最中だったのだ。
しかし、リカードは女将よりも詳しく調べ上げていた。
リアーナの本業は、年端も行かない少女が貰うにはちょっと考えられない金額のお給料が渡されているそうだ。
そうなると、あの身なりはおかしいし、副業する事だって普通は考えられない。
そこでリアーナの母親について細かく調べ始める。
母親は働いていないので当然稼ぎはゼロ。
なのに、リアーナの給料が出た翌日には外食をしまくり、服を買い漁り、美容師のところへもちょくちょく出向くのだ。リアーナがここで働いている時間は酒場で酒まで飲んでいるという。
美容師も酒もどちらも贅沢品だ。
それをちょくちょく?毎晩?
これは確実に黒であると確信して、プロに細かな情報を集めてもらい、今日全ての情報が集まったので、どうにかリアーナと話をする時間をもらうつもりだったとのこと。
「そんなわけで、リアーナ様はこのまま保護されると思います。」
「ほ、保護!?」
「はい。リアーナ様の状況は宮廷法律に照らし合わせると保護事案でして、アリーナ様が保護対象と認定されました。今頃リアーナ様のお母上は病院へ移送されていると思います。」
「い、移送!?」
驚くことばかりでオウム返ししかできない。
「ここに戻られることはおそらくありません。リアーナ様の代わりが必要でしたら人員をお送りしますので、おっしゃって下さい。」
「リアーナの代わり…。いや、大丈夫です。リアーナが来てくれる前までは、この子たちで回せていましたから。」
そう護衛に告げると、こっそりこちらを伺っていた下っぱ共は明らかにがっかりしていた。
なんて顔するんだ。リアーナに頼りっぱなしでスキルのレベルが上がってないよ!と叱咤すると、下っぱ共は慌てて仕事を再開した。
「では、これにて失礼致します。長いことお世話になりました。お料理毎食楽しみにしていたので、残念です。今度からはプライベートで食べに来させていただきます!」
と、笑顔で護衛は帰って行った。
そして護衛が言ったように、リアーナもリカード様も護衛も、翌日から姿を現さなくなっしまったのだ。
女将は昔話から再び浮上する。
目の前にいるリアーナは、ポカンとした表情を隠そうともしない。
さっきのリカードの剣幕を考えたら、多分リアーナはもう逃れる事は難しい気がする。王妃教育までさせられているし。
どっちだとしても、リアーナには後悔のない時間を過ごしてほしいもんだと思い、先程あった話を伝える事にした。
「リカード様にはね、リアーナは二週間くらい前に顔を出したって話たら、その時の詳しい話を聞かせろってねぇ。目が血走ってて怖かったよ。」
「まぁ!あのリカード様が?寝不足なのかしら?」
的外れな言葉だが、ある意味正解でもある。
「まぁ、寝不足だろうよ。リアーナをずっと探し続けてるって話だったからね。」
「うーん。私をそれほど探すなんて…。」
考える姿も可愛らしい。鈍感すぎるけれど。
どんな答えを出すのかと待っていたら、
「あぁ、すっかり忘れてました!リカード様とは婚約の予約をしていたのだったわ!冗談だと思ってましたけど、本気だったのかしら?でも婚約書にサインしていませんし…。」
だからですかね?お探しになったのは。それは申し訳ない事をしてしまいました。と続けるリアーナに、今度こそひどく腰を抜かしてしまった。
「な、な、なんだってー!?」
やっぱりしっかり囲い込まれて…
え?
「婚約の予約?」
それってどういう事だい?
婚約は結婚の約束だろう?
婚約の予約ってことは、結婚の約束の予約?
「あ、はい!リカード様のお身内の方なのでしょうか、あれ?そう言えばどんな間柄か聞いた事がありませんでした。その、とても美しい方がいらっしゃるのです。お食事も一緒に頂くのですが、その方がリカード様との『今回の婚約は、婚約の予約とさせてもらうね?』と、リカード様の他にも君と婚約したいと言っている身内がいらっしゃるとか面白い冗談をおっしゃられまして。」
「え…。それってけ…んぐっ!」
それって賢王様では?と言いそうになって、急いで口を閉じると変な声が出てしまった。
そんな私に気が付かないのか、リアーナは続ける。
「私なんかと結婚したいと思ってくださる方がいらっしゃるとか、もうびっくりしちゃいました。冗談にしても、ありえな過ぎて。ふふ。リカード様たちったらご冗談が過ぎますよね?婚約の予約なんて言葉はありませんし、多分婚約は無かった事にしてねって遠回りの高位貴族様ならではの発言なんだなって王妃教育が進んでからやっと気がつきましたの。お恥ずかしながら、高位貴族様たちの言葉の裏側ん読む勉強はとても難しいんです。」
と恥ずかしそうに教えてくれるが、それこそ勘違いでは?
王族や貴族の話し言葉や裏側ん読むのは、外交として必要そうだけれど、婚約なんて人生の大切な岐路に比喩なんて使うだろうか…。まして冗談だなんて、あのリカードを知っていたら思わないだろう?
完全平民の自分が確実じゃない事を言ってリアーナを惑わせたり、傷つけてしまうのは…できればしたくない。
リアーナの様子から、婚約の話が出た時は嬉しかったように見える。ただ思いがけない事だったろうし、手放しで信用出来ない上、婚約の予約なんて理解し難い言葉を伝えられたら、冗談だったのね。と思い込むのも仕方がないように思える。
なにやってんですか!
リカード様も!!賢王様もっ!!
「これはどうしたもんかねぇ。まだ王族だって、リアーナが好きすぎるって言ったらダメなんだよねぇ?」
小声で呟き頭を抱える。
「どうされました?頭痛ですか?」
心配をかけてしまった…。
王族との約束を反故にすることはできない。
私が言えるのは、さっきのことくらいなのだ。
「大丈夫。とにかくリカード様はリアーナを探してる。リカード様は沢山の護衛を引き連れて宮廷から街外れまで新道を下りながら聞き込みを続けるって言ってたんだけど、リアーナは合わなかったのかい?」
リアーナは一体どこからやってきたのか!
「まぁ!そうなのですか?先程この道が混雑していたので、旧道に回りまして。そっちの裏手をずっと歩いて、女将さんにもう一度雇ってもらえるか聞こうと思って新道にもどってこちらへやってきたんです。」
「それは…上手いことすれ違ってるねぇ。」
「そうなりますか?」
面白いことも起きるんですねぇとリアーナは笑うが、笑いごとにしていいのか?
しかし、
「リアーナの笑う顔なんて初めてみた。リアーナは笑ってるといいよ。とても可愛いし、こっちも笑顔になっちまう。良いよ。本当に良い笑顔だ。」
笑顔を見せる事ができるようになったんだね。
もう痛くも苦しくも腹ペコでもないんだねぇ。
ぐぅぅぅ…
「あっ!す、すみません!」
鳴ってしまったお腹を抑え、恥ずかしそうに俯くリアーナ。
「いつから食べてないんだい?今日はリカード様がきて準備していた昼食がまだまだ残ってんだ。食べて行ってくれるだろう?」
残ってしまっている人気メニューを出してやろうとテーブルに両手をついて立ち上がる。
それと同時にトレー二つテーブルに置かれた。温め直された昼食がトレーの上で湯気を出している。旦那だ。
「ほれ。二人とも腹が空いた頃だろう?」
「大将!ありがとうございます!」
リアーナは嬉しそうに微笑んで、旦那の顔をそっと見上げてお礼を伝えた。
「ん。」
小さく頷いて裏へ戻っていく。
私の目は誤魔化せないよ?あんたも今泣いてるんだろう?あんたの方がリアーナをどうにかして引き取りたいって言ってたもんね。
リアーナのこの変化は私たちにとってはずっと願っていたことだ。
笑顔も。お礼を言えることも。