無双がフタリ⑤
3年前、少年は彼と出会った。
<回想 女郎花の男は兜を被らない>
「米、野菜、肉。胡桃も要るな…。」
午後四時。
その日は七日市で、通りは人だらけであった。夏牙も例に漏れず市へ買い物に来ている。市の日はいつもより安く、先代から金欠の想寧神社では、この日に買い込んでいた。
「今日はいい肉が入ったよ!にーちゃん!ほらどうだい!」
「鹿はあるか?でっかいの。」
「鹿?珍しいの食うな。でも安心しろ、うちにはあるぜ。ほれ、これで二十五貝塊。」
「…ちょっとでいいから、まけてくんないかあ。」
肉屋との値段交渉を押し進める。二十二貝塊まで下げたとき、周りがガヤガヤし始めた。
「なんだ…?」
「にいちゃんが中々買わないから、みんなたまげたんだろよ。」
肉屋の軽口に夏牙は笑顔を返し、それから近くの男に尋ねた。
「何があったんだあ?」
「西側に何かいるらしいよ。熊か邪物か…。みんな逃げて来てるから、大事にはならないだろう。」
「…そうか、ありがとう。…おっちゃん、その鹿肉、二十貝塊で買いたいから取っといてくれないか?」
「それはいいが、西側に行くんか?大丈夫なのか?」
夏牙はにっと笑って見せた。
「へーきだ。こう見えて、俺は強いんでね。」
嘘は、得意でない。
西に向かう途中、何人も止めてきたが、夏牙はその全員に対して平気ぶった。強く止める人も、夏牙が神社の者であることを説明すると渋々諦めた。
「ググなアッ!!」
夏牙はその叫び声で走り出す。明らかに邪物の鳴き声だ。
そして彼は、声の主と出会った。
「ッ…!大百足か…。」
巨体だが、大百足にしては小柄だ。まだ成長しきっていないのかも知れない、と夏牙は考える。子供。ざくり、と胸が痛んだ。
「…せめて苦しまないようにするからなあ…。」
「おい!近づくな!危ないぞ!!」
突然の人語に夏牙はぎょっとした。道の横、店の者が逃げて空になった屋台に、五人程が隠れている。
夏牙は大百足から目を離さずに叫ぶ。
「なんで逃げない!早く逃げて!」
「そうしたいさ。だが頭が…。」
ちらりと見ると、見るからに走れなさそうな老婆が座していた。逃げろと彼女は若者達に指示するが、彼等は頑として逃げない。中には、まだ五つ程だろう子供もいる。
夏牙は、口の中で舌打ちした。
「俺がこの邪物を殺す。動かないで、声を出さずに、待っててくれ。」
「ほ、本当に平気なのか?お、おい…。」
「大百足え!敵は俺だ!!」
丈夫そうな屋台がある。このちゃちな薙刀でこの大百足が切れるとは夏牙も思っていない。薙刀で相手の隙を作り、あの屋台に乗り、大百足が上って来る前に弓を取り、矢を番え、放つ。目から脳を射る。それが夏牙が高速で練り直した作戦だった。
本当は適当な屋台に隠れて、相手が自分に気付く前に射るつもりだった。だが、この状況でそれをすれば、大百足が五人に気付く可能性が高まる。それだけは、避けたい。
「…。」
平気、平気、と夏牙は頭の中で呟く。平気、平気、平気。繰り返し。
「風番、他所様の迷惑だわい。やれ。」
夏牙はその老婆の言葉の意味が分からなかった。だけど、彼はそのとき大百足と睨み合っていて、老婆達の方を一瞥すらしなかった。
彼はそれを、後悔している。
「妾の母、海の主よ。妾のこれ捧げる代わり、彼等のそれをお守りなされ。」
それは、たった五歳の子供が発した言葉であった。大百足の目の前に来て、元来そうなるべきなのだと言わんばかりに、淡々と。
「妾の父、空の主よ。妾の言
「グあアアアァア!!」
光の無い伽羅色の瞳。虚無の目。大百足の開けた口。延びた唾液。
口からも、脳へ届くよな、という言葉が夏牙の脳裏に浮かぶ。
「グ!」
口内に一本。右目に一本。左目に一本。大百足はいつの間にか三本の矢を受けて、死んだ。倒れて、地面がたわむ。
箙に、予備として取った一本の矢を戻してから夏牙は、大百足の前に来た子供に近づいた。
「…生きて、る。」
「出て来ちゃ危ないぞ。怪我は無いかあ?」
子供の前にしゃがんで、夏牙はその子の髪を梳いた。癖毛の薄茶の髪。
だが子供は、夏牙では無く、その奥の大百足の死体を見詰めていた。赤銅色の死体。出血の少ない死体。大量に足の生えた死体。
「生きっ、てる。」
震える小さな背を、抱く様に支えて、しかし夏牙は叱る声色を使った。
「今回は運良く無事だったが、次もこうとは限らんからな。これからは気を付けるんだぞ。」
「なんでっ…。」
「なんで生きてる!」
怒号。子供の背がびくりと震える。夏牙は戸惑いの目を、発言者に向けた。老婆の隣にいた壮年の男だった。
夏牙は意味が分からなかったが、笑顔で返した。
「大百足は俺が殺した。もう大丈夫だ。あなたの子かい?あんまり無茶する子だなあ。無事で良かったあ。」
「良くない!!」
また怒号。夏牙は子供の耳を腕で隠す。
「あなたは何を言いたいんだ。」
壮年の男はまた叫びかけたが、老婆がそれを止め、彼女は子供に話し掛ける。
「頭兜…。何故こうなったのか。己の父母は、お前が要らぬと仰っとる。死にかけ生きた頭兜は落ちる決まり。さらば。」
「さ、"さらば"ってどういう意味だ!この子はどうする気だ!!」
「どうもせん。それは我が一族の頭兜であった。成人まで生きれたならば、頭となるのが頭兜だ。」
「この子はこの通り生きてる!」
「頭兜は一族が危機に遭えば海の主と空の主に命を捧げ、一族を助ける役割も持つ。だが危機に遭ったのに生きとる頭兜は、主が、要らんとお思いになった証拠だ。だから、それは要らん。頭兜、これからは好きに生きよ。我等に関わらず。」
「はあ…?この子っ…、こんな小さな子一人で、これから生きられると、本当に、そう、思ってんのかあ…?」
「もう我等とそれは関係が無い。それが飢え死のうと、何しようと、我等に関係は無い。」
「ふざけてんのかあ?おい!!ふざけんなよ!何考えてんだあ!?何したいんだ!こんなことして酷いとは思わねえのかあ!!!」
老婆は、吠える夏牙の燃える女郎花色の左目を静かに眺める。鋭利な光の宿る、鈍い瞳で。
「妾もそう育てられたのに、何故、それはそう育てていけない?」
唖然と、夏牙は呟いた。
「分からないのか?」
老婆は、答えなかった。
「頭、御足は大丈夫ですか?」
「少し挫いた。」
「私が背負いましょう。どうぞ。」
「ああ。帰ったら、次の頭兜を選ぶ。」
「分かりました。食、お前は先に宿に帰って刀を呼んで来い。」
「分かった。」
夏牙は子供を抱きしめたまま動かなかった。子供は、ただ震えていた。
去り際、四人の内の一人が子供に歩み寄った。やはり一緒に帰るのか、と夏牙は腕を緩める。だが、子供の方に来た若者は、暗い瞳で、こう言った。
「頭兜。やあは、お前に助けられてた。…礼を言うぜ。…。あばよ。」
子供は、夏牙の胸に額を押し付ける。夏牙はまた、その子を強く抱きしめた。
四人は、去った。足音でそれが分かったのか、途端に子供は泣き叫ぶ。
「ごめんなさい!ごめんなさいぃ…。」
夏牙は、目を閉じる。震える背を、ゆっくりと撫でて。抱いている頭の頼りない小ささに、胸が痛んだ。
「生きてる!しっ、ねながったっ…!ああ!」
「違う、君は生き抜けたんだあ。強い子、謝ることは無いよ。」
「でも…!」
「大丈夫。悲しまないで。生きられたんだから喜びなよ。俺も、君と一緒に喜ぼう。」
夏牙は、自分の服を摑む小さな手の、必死な力を感じながら、その子を撫で続けた。
「強い子。大丈夫。大丈夫だよ。」
子供は、日が紅葉色になるまで泣き続けた。夏牙はずっとその子を抱き、ずっと声を掛け続けた。
やがてその子の呼吸が落ち着いてから、夏牙は言う。
「…君、行くあてが無いなら、俺達の家に来るか?」
「…妾は、何をすればいいのだ?」
「え?」
夏牙の胸を顔を埋めて、その子は問うた。
「妾は、そなたの一族の為に、何をすれば良い?」
夏牙は暫く何も言えずに、その子のつむじを見ていた。そして、その子の属していた一族が去った方を見やり、また、その子の元に帰る。
「"一族"なんて大層なもん、うちには無いよ。ただ、そうだな、俺個人の我が儘としてはな、」
その子が顔を上げる。充血した目。夏牙は、その瞳を真っ直ぐに捉える。
「どうか、幸せに生きてくれ。」
子供は、出会ったばかりの男の目を見詰める。
太陽みたいだな、とその子は思った。
太陽だから一つしか無いのかな、とも。




