無双がフタリ㊶
<26 天使と令嬢はあんまり似てない>
ロキと陶真薬が話していたのと同じ頃。
「お上手ですわね。」
愉愉はノートから顔を上げる。今朝、想寧神社から帰ったはずの華読だった。
「どうしたの?」
「先程、想寧神社に参ったのですが、愉愉殿は絵を描きにお出かけしてらっしゃると伺いましたので。お隣、よろしいですか?」
愉愉はどうぞと手で示す。華読は、柔らかにはためく着物を押さえて、そこに座った。
「あれから両親は落ち着きました。本当に、あなたのお陰です。ありがとうございました。」
「お礼なんて要りません。ボクはいつもボクのしたいようにしているだけですから。」
「左様ですか。」
兄より茶が濃い髪を、彼女は耳に掛ける。この兄妹は親に似ず美人だなあ、という感想を、愉愉は自身の心に仕舞っておいた。流石にセクハラじみている、という判断からだ。
「…愉愉さん。無礼を承知でお聞かせ下さい。」
「華読さんが無礼ならボクはなんですか。どうぞ、遠慮なく。」
「では、お言葉に甘えて。」
そう華読は頭を下げたものの、すぐには始めない。言うべきかどうか悩んでいるらしかった。愉愉は彼女が迷っている間、黙っていた。
やがて、小さな声。
「あなたは…何者なのでしょう?」
「愉愉、ですよ。」
「…林檎が、お嫌いだと食百ちゃんから伺いました。トラウマがあるから、と。アレルギーかと、最初は思いました。しかし、不死身でいらっしゃるあなたに、アレルギーなど無いでしょう。」
愉愉は、彼女から目の前の草原へ、視線を動かす。
「そちらの世界の『旧約聖書』は、ご存知ですか?アダムとイブが出てくる話。彼等は神によって創造された。だけど、神に追放される。」
「意外。華読さんそーゆーの信じるんだ。」
「あんまり。確証の無いものは、信じられない性格ですから。…困ったことに。」
「華読さんが今からするのは確証がある話?」
「いいえ。だから、"無礼"と申しました。」
「…ふうん。」
「アダムとイブが神々に追放されたのは、禁じられていた果実を食べたからだそうです。それは巷では林檎として描かれます。なら、その果実と林檎は、似ていたのかも知れません。」
愉愉は、目を閉じる。
「…愉愉さんの林檎に関するトラウマとは、なんでしょう?」
「神に追放されたトラウマって言うんですか?」
「少し、しっくりくる気がしました。」
「それじゃあボクはアダム?それかイブ?それとも食べるように唆した蛇?」
「もしくは神話には書かれていない誰か。」
「カミさまは、人間はアダムとイブしか作んなかったんじゃないですか?」
「あなたも、いたのかも知れません。」
華読の視線に気付かぬ愉愉ではないが、無視した。構わず、華読はこう言った。
「"小さいのはすぐ捨てられるのに。"」
「ごうの実の話でしょ、それ。」
「食百ちゃんは、彼が両親について話す顔に、似ていたと言いました。」
"彼"と言うのは、彼女の兄のことだろう。
「気のせいですよ。」
「日本神話では、初めて人界に来た神が、子を生むのだけれど、最初に生まれた子はとても小さかった。その子を、親の神は捨てました。」
「夏牙さんが聞いたら怒鳴りますね。」
「…そう、ですね。」
「ボクが、そのちっちゃ過ぎて捨てられた神の子供だと?」
「…さあ。」
愉愉は唇を歪めて笑んだ。
「曖昧ですね。」
「へふ、という名前の虫を見つけた食百ちゃんが、名前を口にしたとき、あなたは"名前呼ばれたかと思いましたよ。"と仰ったそうですね。何故でしょう?愉愉、にしても、依土 愛受得、にしても、へふとは聞き間違えにくそうです。」
鉛筆が愉愉の手の中でくるりと回った。華読の髪がはためく。
「エジプト神話に、ヘフという名前の神様がいらっしゃいます。永遠の神格化ですわ。」
「で?」
黒い瞳が華読を貫く。華読は口を引き結んでから呟いた。
「…同じ名ですね。」
「虫とね。」
愉愉はまた顔を背ける。
「ロキという方は、どなたですか。」
ばっと振り返る愉愉。華読の肩がびくりと震えたのを見、愉愉は決まりのが悪そうに顎を引いた。
「友達です。…誰に聞いたんですか?」
「彼…えっと、兄様に。昨夜、目が覚めたらあなたの部屋の方から話し声が聞こえたと。」
「耳いいですね。ちょっと会ってただけですよ。」
「北欧神話に、同じ名の神様がいらっしゃいます。」
「そうですか。」
沈黙。華読がちらと愉愉を覗う。平らな黒色の瞳。
「元の世界への帰り方は分かっていると、前に仰ったそうですね。」
愉愉が華普達に狙われていると判明して帰ろうとしたときだろう、と愉愉は思い出す。
「どうやってお帰りになるのです?あなたには神降ろしの力がありますが、使い方はあまりご存知でない。その上、世界往復など一朝一夕で分かるものではありません。…あなたには、伝手があるのでは無いですか?」
「"伝手"?」
愉愉の声はいつもより幾分低かった。
「我々が神様とお呼びするような、そんなお方の伝手です。」
「…どうだっけな…。」
草が風に合わせて揺れる。二人の話の重みなど、まるで気にせぬ動きで。
「あなたの年齢の十の位は一、一の位は五。まるで何桁あるのかお隠しになるみたいな仰り方。
知らない世界に来たのに、全く臆されない御姿。
邪物に対してお使いになった神降ろしの力とは異次元の御力。力を秘めた目。
それに兄様は、あなたがロキとお呼びになる方から不思議な匂いがしたと言っていました。
…愉愉殿。もう一度お聞かせ下さい。あなたは何者ですか。」
黒い双眸が華読を射抜いた。彼女は唇を噛んで耐える。対する者の色白の頬が、嘲る様に持ち上がった。
「皆そう聞くが、それを知ってどうなる。」
「兄様は、不死身です。寿命も、あってないようなもの。だから、だからっ、」
少女の眉が歪む。目の前で豹変しかけている"モノ"への恐怖を呑み下し、言葉を繋いだ。
「だからどうか、兄様の、力になって下さい。私の寿命では届かないから、兄様は御自分を蔑ろにしがちだから。兄様を殺そうとした両親の下で温々と生きた癖にと、お思いになりましょうが、何卒っ…。」
愉愉は瞠目して、頭を下げている少女を見詰めた。手は震えているのに、今までの彼女の人生が透けて見える様な、完璧な指の揃え方だった。
束の間、愉愉の目が泳いだが、そんな自身に呆れて華読の方に向け直した。
「…彼は、ボクのせいで永遠を決定付けられました。その責任は取ります。…それに、ね、華読さん。それが無くともボクは多分、彼等が好きだから側にいたいし、出来る手助けはします。」
ゆっくりと華読の頭が上がる。愉愉の手がそっと、その頬に添えられた。
「ついでに言えば、貴女が"温々"生きてたとは思いません。温々生きた人は、そんな顔をしません。」
見開かれた紺青色の瞳。愉愉は彼女の金茶の髪をすいた。
少し前に、自分の頭を撫でた人を、思い出しながら。




