無双がフタリ㉝
<回想 女郎花の蕾の話>
夏牙には弟がいる。弟は、両親を嫌っていた。考えが合わないからだった。生まれて初めて両親と大喧嘩して、泣きじゃくっている七歳の弟の背を撫で、夏牙は途方に暮れた。何を言えば弟が元気になるのか分からなかった。
"兄ちゃん。これ、間違ってるの?間違ってるの?…俺は、失敗作なの?"
夏牙は息を呑んで、それから弟を強く抱き締めた。
"間違ってなんか無い。絶対、間違ってなんか無いんだあ。"
それは夏牙の主観でしか無くて、だけど彼はまるで世界の決まりみたいに断言した。
"間違ってなんか無い。だから前を向いて生きてねえ。"
弟が抱き返してくれて、彼はほっとした。弟は夢だった大工になるため、十六歳のとき有名な大工の弟子となり、両親とは会うことすら無くなった。
夏牙とはちょくちょく会っていたので、弟が邪物に襲われて怪我をしたとき、すぐに彼に連絡が届いた。当時、子預かりで働いていた彼は、上司に殴る勢いで説明して病院へ行った。
"大丈夫かあ!?"
"兄貴、ごめんごめん。意識失ってさ、大した事無かったんだけど、みんな心配して。"
子預かりの状況に不満を持ち、改変しようとするも失敗続きの夏牙と違い、弟はこの頃にはもう、きょうだい弟子と切磋琢磨しながら一人前の大工に片足を掛けているような腕になっていた。
"意識を失ったあ!?おい大丈夫じゃあ無いだろそれ!"
"医者によりゃ後遺症も無いだろうと。病院連れてくんのが早かったお陰だってさ。"
"この人、俺の兄弟子の千さん。千さん、この人が俺の兄貴っす。"
"夏牙です。弟がお世話になってます。"
"でけぇな、兄ちゃん大工興味ある?"
"止めて下さいよ〜、兄貴にも追っかけてる夢があんで!"
"ちぇー。"
兄弟子と笑い合う弟を見て、夏牙は安堵した。怪我も酷くないらしいし、職場でも楽しくやれてそうだ。
"しっかしよぉ、おめぇ一大事になんねぇで良かったな。師匠なんか無事だって聞いて、泣きながら医者に礼を言ってたぜ。師匠が言うには、ありゃ、幻覚見せる邪物らしくてな。…理想を見せんだと。それ聞いたら、おめぇは引っ掛かっちまうんじゃないかと、みんなして気が気じゃなかったわ。"
"…理想?"
弟の眉が歪む。夏牙は彼の手を握った。
"どうした?"
"…馬鹿かよ…。ああ、兄ちゃん。なあ、俺、あいつ等なんか、どうでもいいと思ってる。本当だよ。なのになんで…。"
握った手に力が込もる。夏牙はもう片方の手を重ねた。
"大丈夫だから、ゆっくり、教えて。"
眉根をぎゅっと寄せ、自嘲の微笑みを薄く浮かべた弟は、兄に縋る様に手を握り直した。
"兄貴…。俺見た幻覚は、父さん母さんの幻覚だった。二人がさ、俺に、俺の言ってたことが分かったって、俺は間違ってなかったよって、言ってたんだ。俺ぇ、俺、兄貴も師匠も仕事場のみんなもいて、幸せなのに、まだ、あんな奴等に執着してたんだな。ああ、嫌んなるよ。"
"許したかったのかもね。優しい子、きっと彼等を許したいから、それを見たんだよ。"
違うと分かっていた。
職場の人達や夏牙の支えもあって、弟は退院するより前に気を持ち直した。
一方で、陶真薬に出会い思い描いていた職を得られた夏牙は、その癖、この一件がずっと胸にくすぶり続けていた。
立ち直ったとは言え、弟の心を揺さぶった邪物が憎かった。人の柔い部分を容赦無く突ける邪物を残虐の塊だと思った。境内に邪物が入る度に過剰反応して陶真薬の失笑を貰っていたし、邪物殺しの仕事をするときに躊躇いは持たなかった。鈍い悲しみはあったが、それとて憎み切れない己の汚点としか思えなかった。弟を否定した両親を嫌え切れなかったのと、同じように。
変えてくれたのは新月だった。彼は、邪物の死体を食べるとき、手を合わせて目を閉じ頂きますと言う。パンを、米を、果物を、鶏を食べるときと全く同じに。それを見た途端、膝から力が抜けていく感覚がした。邪物も生きているのだと、今更、気が付いた。夏牙は説明も無しに、新月を抱き締め礼を言った。
とは言えこのときですら、夏牙にとって邪物とは皆、理解は出来ないが各々必死に生きている者、であった。
邪物もそれぞれであり、互いの違いを受け止め得ると、人と同じだと、教えてくれたのは十歳の少女とその友だった。
<回想 唐紅の友>
一般宅に邪物が侵入したとの情報が入った。想寧神社の管轄内だ。しかし夏牙はついこの前子預かりで一騒動やらかし骨折していたため、彼自身が出向くことは不可能だった。
「藤、香路、頼めるか?」
夏牙の選択は香路島にも理解できた。一般宅となると、遠距離を得意とする曙は不向きだ。また、香路島の予想だと、新月は家に入れて貰えない。あの無口にまともな会話が可能とは思えないからだった。愛想笑いの得意な自分と可愛らしい藤なら上手く対応出来るだろう、と香路島は考えていた。
その後で、夏牙を呼ぶことになるとは微塵も知らずに。
○
曙が作った神降ろしの力で届く手紙が届いたのは、藤ノ舞成と香路島が家を出て、少ししたときだった。夏牙は不思議に思いつつ、香路島からの手紙を読む。至急来て欲しい、ということと、詳しい場所しか書かれていない。
字がきちんとしていたから、藤ノ舞成に何かあったのではない、と夏牙は判断する。手紙が書けるのだから香路島も多分大丈夫だろう、とも。だが、というか、だからこそ呼ばれる理由が分からない。分からないから一秒でも速く行くべき、というのが夏牙の結論だった。
その判断通り、かっ飛ばして彼は二人のところへ行った。本気を出したら、神降ろしの力で送る手紙より早いのでは、というのは藤ノ舞成の言葉だ。
「早かったな。」
「やっほ〜。」
夏牙が着いたとき、彼の予想と違わず、二人はけろりと元気だった。が、夏牙にとって予想外のこともあった。二人の側にいる少女だ。
年は藤ノ舞成と同じくらい。唐紅の瞳。赤みがかった黒髪は横で高い位置に一つ結びしている。
無論、夏牙の予想を飛び越えたのはそこでない。彼の予想外は、少女の腕の中に邪物がいたことだった。
夏牙は少女の前にしゃがみ、彼女と目の高さを合わせる。
「お嬢ちゃん、そいつは邪物じゃないかい?」
少女は大きな瞳で彼を見た。
「うん。でもネ、この子はいい子ナの。鵺破をネ、助けてくれたノ。だから、いじめないデ、おじさん。」
発音にやや違和感がある。璃沙模朝の出身かな、と夏牙は考えながら、少女の腕の中の邪物に目を向けた。
まんまるの瞳。鈍色の丸っこい体。ぷるぷる震えて、縋る様に少女を見詰めている。
愛らしい姿は、逆に夏牙の胸を逆撫でた。彼の脳裏にあるのは、邪物と対峙するときいつも考える、弟の薄く浮かんだ自嘲の笑みだった。
騙して奪う、それが邪物だ、と夏牙は思うが、同時に新月のことも思い出す。邪物も、生きているのだ。奪うのは生きる為。心の中でそう呟く。
「…鵺破君、で合ってる?」
「うン。それでネ、この子ガもなもも。」
「もなもも…。」
鵺破はきゅっと鈍色の邪物抱き締めて、その灰色の体に頬がつく程顔を寄せた。
「藻難が百。鵺破のママとパパノお国の言葉。増えにクい種類ノ藻でも、百年あれバいっぱいニなるっテ意味ダヨ。だカら、この子ハもなもも。今は無理でも、この子にはいつカ絶対に鵺破以外のお友達モできるヨ。」
「らぁきゃっ…。」
「絶対ダヨ。見テな。」
大きな唐紅の瞳は、信じない人間を見下ろす様な、そんな悠然とした気配に満ちていた。
「今に分カるヨ。」
「…俺のね、弟は、昔邪物に襲われた。弟だけじゃない。沢山の人が、邪物のせいで傷ついている。それでも君は、その子を信じられる?」
少女は、もなももと名付けた邪物を抱く腕を緩めず、長身の男を睨みつける。
「襲ってきたその邪物ハ、この子だっタ?」
夏牙は目を見張った。
「人だっテ好キ好んで傷付けル酷い人もいる。デモ、違う人モいる。人間のコトは棚に上ゲテもなももノことを疑う資格ガ、自分にアルって本当ニ思うの?」
夏牙は息を吐いた。微苦笑が浮かんでいる。その理由を勘違いした鵺破が、
「鵺破は、この子と心がツナガッテルから分かルよ。この子は誰かガ悲しむノガ苦しイ。誰も傷つけたことナンテ無い。」
夏牙は手を伸ばして、鵺破の頭を撫でた。彼女は睨んだ目つきを緩めない。しかし、夏牙はさして頓着せずに、続けてもなももの頭と思われるところを撫でた。少女に対するものと同じ手つきで、目で、微笑みで。
もなももも鵺破も瞠目し、その顔のまま互いを見合う。二人の子供らしい仕草に、彼の顔が綻んだ。
「夏牙。」
鵺破達に声を掛けようとした丁度そのとき、藤ノ舞成が夏牙の袖を引き、香路島が呼び掛けた。夏牙は不思議がりつつ振り返る。
「どうした?」
「"どうした?"じゃねぇよ、何?ほだされちゃった?」
「夏牙、そーゆーとこあるよね。」
「馬っ鹿じゃねぇの。その邪物、そいつの脳に寄生してるよ。"心がツナガッテル"なんてよく言ったものだぜ。」
香路島の言葉は嘲笑混じりに聞こえるが、その実、少女への心配があった。
「"寄生"なンテ言い方止めテ!鵺破があげタの。人の体タベないと、もなももハ死んじゃウんだよ。だかラ、つなげタの。」
悲痛な叫びだった。きゅっと縮こまった灰色の体。夏牙は小さな邪物に尋ねた。
「どうして、死にかけてまで人を喰らわなかったんだい?」
「ど、どこっぱ、どこっぱ、ど、やあらあ。だどだみっだ、ごどみっがっ。」
彼には意味が分からなかった。少女を見る。
「人ハ私達を、私達ハ人を、痛めつケる。誰かが止メなければ、決しテそれは止まラない。」
友人の言葉を訳した少女は、夏牙を試す様な雄々しい目をしていた。
「…君一人じゃあ、きっと止めるのは難しいよ。」
「まあなあ…。」
「難しいカラって諦めテ傷つけ合ウの?ますまス止まらないヨ。それヲどうするッテ言うの。」
幼さに反して叫びもしないが、しかし瞳は燃えていた。夏牙は、鵺破ともなももを一緒に抱いた。
「俺は多分、今更邪物の味方は出来ない。でも君達の味方なら絶対に出来るからあ。それでもいいなら、俺の気持ち、受け取って?」
間があった。息を吸う音が聞こえる。やがて背に小さな手を感じた。
「…助けテ。鵺破、この子と一緒ニいたい。でもママとパパがこの子を殺ソうとするノ。説得しタイの。手伝っテ。」
「おい夏牙!」
「藤、香路。悪い、先帰っててくれ。」
藤ノ舞成の舌打ち。彼の舌打ちは滅多に無いので、香路島の反応も敏感だった。
「おい。何考えてんだよ。」
「いいよ香路。こうなったこの人がぼく等の言うこと聞いた試しなんて無いもん。賭けてもいいよ、曙が泣いて頼んだって無駄だね。」
呆れた表情で藤ノ舞成は肩を竦める。香路島はそれに一瞬眉尻を垂らしたが、夏牙の方に顔を向けたときには元の不機嫌顔だった。
「言っとくが、そいつの親も中々頑固だったぞ。」
「昔に邪物になんかやられたのかもよ。ぼく等はここで待ってる。早くしてね〜。」
夏牙は帰さなくていいのか少し悩んだが、そこまで言ったら余計に機嫌を損ねてしまうのは分かるので、頷いた。
数十分後、夏牙ともなももは窓から投げ出された。背中を地面に強打しながらも、自らもなももの下敷きになった夏牙を、藤ノ舞成と香路島は見下ろす。
「ほ〜ら、言わんこっちゃ無い。帰ろ夏牙。その子はそこら辺に放してあげるからさ。」
「…それしか無いかあ。もなもも君、困ったことがあったら、想寧神社って場所に来なさい。うちは結界が無いから君も入れる。多少の助けにはなるだろう。」
「馬鹿ど阿呆癖毛爺。」
息をする様に暴言を吐いた香路島に、藤ノ舞成はけらけらと笑う。
「夏牙の頑固さはどうにもなんないよ。さっ、行こ。」
頷いて、夏牙が身を起こしたとき、鵺破の家の戸が開く。少女の両親がさっさと去れと言いに来たのかと、そちらを見た夏牙の予想は外れた。現れたのは鵺破自身だった。
「鵺破君。お別れしに来たのかい?」
もなももを抱えて立ち上がり、微笑んで彼女に歩み寄った。少女は目一杯に涙を溜め、しかし決して流さずに、首を振った。
横に、振っていた。
「え?」
「もなももト行ク。」
「「はあ!?」」
ぴたりと声を揃えた従兄弟に反して、夏牙は声すら出せなかった。
「待って!鵺破!」
家から彼女の母親が駆け出す。鵺破はなんの感慨も無い様な瞳だった。
「ママ、ばいバイ。」
「待って、待ってって!そんな化け物よりママとパパの方ずっと好きでしょ?どうしちゃったの?」
少女の目から涙が垂れる。軽蔑の色が浮かびつつも、何処か途方に暮れた様子だった。
「そんナこと言ウ人だト思って無カった。」
「ねえ!!おかしいわ、おかしい!」
ぞんざいな仕草で母親の手を払う。そして、今日会ったばかりの友人に手を伸ばした。
「りあのたあ…?」
「…赤い目ハ、璃沙模朝デは忌み子とサレル。ダカラお国を出タ。デも、ママとパパは鵺破を愛しテくれた。…もなももノことも、愛してクれるト思ってタ。」
「りったあ。」
呆然とする夏牙の腕から、少女はもなももを抱き上げる。
「鵺破はネ、そんな風ニ生きたく無イの。もなもも、ねぇ、一緒に生きテくれル?」
灰色の邪物が瞬きした。そして心を込めて、こう言った。
「もなんがもも。」
「そうダね。」
藻難が百。
彼等にとって、百年しても叶えたい夢とは、何を指していたのか、夏牙には分からない。家に帰れる日を夢見たのか、世界から承認されることを望んだのか、はたまた他にも二人の間で共有するものがあったのか…。
「想寧神社っテ、空き部屋ナイ?」
そうして鵺破ともなももは、家を捨てて想寧神社にやって来た。




