無双がフタリ㉚
<回想 藤と翡翠の事情>
「これしか手は無いんだ。我らが神々よ、分かって下さい。どうか慈悲の心でもって許して下さい…。」
襖の向こうから、父のうめき声が聞こえる。祖に人狼がいる香路島には、耳を澄まさずとも聞こえた。
「分かってくれるよ、かの方々も。だって、香路島をあんな奴等にやるなんて、嫌だし。あたし達は、あの子を守るだけでしょ?」
自分より二十は年上だが、いつでもやや舌足らずな母の声。布団にくるまった香路島は、頬杖をつく。
「そうだな、そう、そうとも…。」
最近、毎晩二人はこそこそ相談している。香路島に筒抜けだとは知らずに。滑稽だと香路島は思った。彼等の話によれば、親族の夫婦から香路島を引き取りたいと言われているらしい。その親族の夫婦は、古呼来一族の族長夫婦で、要は香路島は実験材料として殺されることになるかもしれないが、権力的に考えると断れない、という話だった。
だが今日は少し違う。なんだか知らない内に親は収拾をつける算段でも閃いたらしい、と香路島はほっとした。常々クールに振る舞ってはいるが、彼とて毎年正月に会う古呼来夫妻は怖いと思うし、まだまだ死にたくもないのである。
「それにさっ、あの子ったらニコニコするしか取り柄なんて無いもの。ニコニコするのだって、気に入った相手だけだし。生きてる意味なんて、無いよ。」
香路島は、はてと首を傾げる。どうも"あの子"を香路島の身代わりにするらしい。だが、香路島に白羽の矢が立ったのは、彼に人狼の血の影響が強く現れているからだ。つまり身代わりなどそうそう出来やしない。
では"あの子"とは自分か?否。自分は確かににこにこ愛想笑いをするが、気に入った相手には寧ろそんなにニコニコしない。では誰か?人狼の血の影響が強く現われた、ニコニコしている人。
うららかな笑顔を浮かべた、藤色の髪の、愛らしい従弟の姿が思い浮かんだ。
「…!!」
飛び起き布団を払い除け、襖を外す勢いで開けた。小さな灯りに照らされた、目を見開く父母の顔。
「母さん、今のどういうこと。」
「どこから聞いていたんだ香路。ほら、寝なさい。明日も学校だろうに。」
「寝れないの?牛乳あっためてあげよっか。蜂蜜もいれたげる。」
ぐちゃぐちゃな頭に身を任せて、香路島は襖を蹴った。外れかけだった襖は、穴を開け音を立てて倒れる。香路島の布団に着地して、ばふんと鳴いた。
「ざっけんなよ…。」
母は歯を見せて笑う。
「全部聞いちゃってた?なら分かるでしょ。あの夫婦の実験道具にされたら、良くて死亡悪くて生き地獄って言われてる。怖いよね。そんな目に遭いたくないでしょ?あたし達も香路島にそんな目に遭って欲しくないから、代わりとして藤ちゃんを推薦するの。」
「なんで藤なんだ!!藤だってそんな目遭いたくないだろ!」
父は及び腰で息子の肩に手を乗せる。香路島は暴れ馬にでもなった気分だった。
「誰かは犠牲になるんだ。あの子は別に頭がいい訳でも、凄い才能がある訳でも無い。寧ろ、何かこう…不気味だ。底に獣がいる様な、さ。分かるだろ?」
「あ〜言えてる。お馬鹿なのに、夜中には人食べてますけど感凄いよね。」
「脳が足りないんだ。だから馬鹿だし、おぞましいことも平気なんだ。」
「この前、笑って虫潰してた。どっか欠けてる感じするよね。」
「あの子の親もあの子が死んでほっとするさ。」
「あの子を愛する人な〜んていないもの。心配しなくていんだよ、香路。」
香路島は返事をせず、台所に行った。
訝しんで着いて来た二人の首を、棚から取った二つの包丁でそれぞれ刺す。頭を摑んできた父を、蹴って後ろに倒し、それと同時に包丁を抜く。母の悲鳴。そちらも抜いた。
数秒の出来事だった。
「…ざっ、けぇん…なよ。」
声が震える。鼻をすすった。
血まみれの包丁を投げ捨て、手と顔を洗う。
それから彼は両親の死体のある台所で、牛乳を温め蜂蜜を入れて、月を眺めながらそれを飲んだ。
○
父と母が最近話し合っているのには気付いていた。でも眠いから、藤ノ舞成はそれを聞かずにいつも寝るのだ。
その日も、聞き耳を立てるために起きていたのでは無い。単に、読み進めている本が終盤だったから、読み切りたかっただけだった。
「古呼来だよ。断れない。しょうが無いんだ、香路島くんに頼めばいい。あの子は藤と仲がいいから、許してくれるよ。」
仲良しの従兄の名に、藤ノ舞成は顔を上げる。何を頼むのだろう?と。
「古呼来の実験に人狼の血が必要なんて。ご先祖様も、あの家の実験に使われたらしいわ。」
「異界飛びの実験か…。何を夢見てるのか…。」
藤ノ舞成は古呼来一族の族長を思い出す。正月に会うその夫妻が、藤ノ舞成は苦手だった。おどおどした夫と、堂々とした妻。でも二人共目が死体みたいだと、いつも彼は思う。
「香路島くんに頼みましょ。藤を助けるには、それしか無いわ…。」
「…、そうだね。あの子はどこか不気味だから実験も平気かもね。」
不気味?香路が?藤ノ舞成は首をひねった。何処が?
「うん…。彼、絶対に人を馬鹿にしてる。この前、藤の悪口言った子達とケンカしたときだって、一方的に殴って…。何もあんなにする必要は無いだろうに。」
だって香路強いんだもの、と藤ノ舞成は心の中で悪態をついた。朝になったらお母さんにはちゃんと説明しよう、と彼は決めた。
「そうだったね。殴って、楽しそうだった。人を蹂躙するのが好きなんだよ。」
"蹂躙"の意味を、そこに込もった父の恐怖を、藤ノ舞成は知らなかった。
「親御さんも、なんか持て余し気味だったしね。」
藤ノ舞成はぎょっとする。藤ノ舞成の目から見て、香路島は両親を好いていた。藤ノ舞成が両親を愛するのと同じに。だけど、二人は香路が大切じゃないの?藤ノ舞成には信じられなかった。
「こう言っちゃ駄目だけど、多分、香路島くんは、死んでいい子だよ。」
本が破けた音がした。藤ノ舞成はそれを見下ろし、なんてこと無かった様に本の残骸を放った。
「お父さん、お母さん。」
襖を開けてひょっこり現れた息子に、二人は目を見開いた。
「ど、どうしたの。寝てなかったの?」
「うん。本読んでた。」
「そ、そっか。もう遅いから、おやすみ。」
「ううん寝ないよ。お父さん、お母さん。香路島はね、優しくて強くて、もっとずっと生きてくべきなんだよ。ね?」
固まった両親に、少年はうららかな笑顔を向ける。
「ね?」
「…じゃ、じゃあ!藤は実験に使われるの?お父さんは嫌だよ、藤が死んじゃうの。藤は嫌じゃないの!」
「嫌だよ。なんでその二択なの?ぼくも香路も生きるよ。」
母は顔を両手で覆って泣いていた。
「無理なの…無理なのよ。香路島くんには、死んでもらわないと…、藤が、生きれない。」
「どっちかしか駄目なんだよ、藤。お母さんとお父さんは、藤がいいんだ。どうせあんな子、殺される運命だ。」
藤ノ舞成は笑みを消した。溜め息が漏れる。
「まだそんなこと言うの。じゃあ、しょうが無いね。」
理解を得た安堵で微笑んだ両親に、笑みを返さず、藤ノ舞成は漬物用の重しに手を伸ばす。
数秒後、両親は理解など得ていなかったことを悟った。
○
そうして一夜にして藤ノ舞成と香路島は両親を喪った。だが、彼等は年齢的に風世飲帝国の法では裁けず、子預かりに引き取られた。恐怖と嫌悪の視線を浴びながら過ごしていた彼等の前に、夏牙が現れるのはすぐのことである。




