無双がフタリ㉙
<回想 葡萄酒色を飲み干し>
曙の家は裕福で無かった。ざっくり言えば貧乏だった。学も身分も無い者が稼げる方法は、限られている。
その中でも邪物殺しは、危険な仕事だが最も稼げる仕事として有名である。暴れる邪物を指して、怯える住人に多額の討伐金をふっかけるのだ。
だから貧乏だった曙も、物心つく頃には銃を学び、六歳頃にはその地域で名のしれた邪物殺しの一人になった。幸い腕はそれなりに立ち、頭も回ったため金交渉も上手く、三人家族の家は家計にゆとりが出来た、少しだけ。
泣き叫ぶ人が相手だから、時には襟を摑んで邪物がよく見えるようにしてやり、金を巻き上げ、さっさと邪物を駆除し、家の前の川で体に付いた血を流す。金を取り、駆除し、帰る。その繰り返し。
ずっと、そうだと思っていた。本当に偶に、これでいいのかな?という思いが胸を横切ったが、無視した。
彼女は生死に関わること以外、考えない主義だった。考えても、どうしようもない。
変えたのは、十二歳のときに出会った男だった。
その男は、仕事中に会った。神社の者と仕事場で鉢合わせてしまうことは多々ある。だから曙はいつも通り、お金が無いから仕事をする他無いのだ、仕事を奪わないでくれと嘘泣きした。
"そんな訳あるかあ!ご両親は?いる?ちょっと会わせてくれ。家に今いるか?よし、じゃああの邪物は俺がどうにかするから、君は安全なところで待っていてくれ。"
彼女はそのときに見た女郎花色を、今尚鮮明に覚えている。真っ直ぐに、全てを貫く、左右一組の瞳。
だが結局、その日彼は曙の両親に会わなかった。彼の仕事を待つ間に、曙の母親が来、曙を連れ帰ったのだ。母親は、曙の様な子供を見つけては保護していた夏牙が近くにいると知り、慌てて娘を回収しに来た。
母親と手を繋いで帰った曙は、金輪際あの男とは会わないだろうと思っていた。
予想が外れたと知ったのは、七日後だった。
「こんにちはー!ごめんくださあい!」
銃弾を作る手が止まる。夜勤明けで酒を飲んでいた両親が、目を合わせた。彼等は聞き覚えの無い声を不思議がっただけだったが、曙にとっては驚くべき声だった。あの、男の声だったから。
両親は男が去るのを待つ様子だったので、曙も大人しくしていた。
「…うっし、いねえな。」
が、男には逆効果らしい。彼は両親がいないのを良いことに、曙と話そうと考えた。
「曙君!この前の、神社のおじさんなんだけど、少し話いいかあ?」
両親は溜め息混じりに、戸の方へ行った。父親の、手を払う仕草に従い、曙は部屋の隅にしゃがんだままでいる。
戸の開ける音。母親の声。
「なんですか?」
「え?あれ…。ああと、曙君のご両親ですか?」
「なんで娘の名前を知ってるんだ、お前。」
「近所の方々にお聞きしました。単刀直入に言いますが、娘さんに今の仕事は止めさせて下さい。歩いて十分もすれば学校があります。彼女の年齢なら、就学すべきでしょう。」
父親が壁を殴った。ぐしゃりと音がして、壁が凹む。曙家族の家には似た凹みが幾つかあった。
「帰れ。あいつはあいつの意思で働いている。」
「待って!彼女とも話をさせて下さい!」
「帰ってって言ったでしょう!」
「あの子にっ、どんな気持ちであんな仕事してるかなんて聞いたことも無いんだろ!」
「あなたに、あなたなんかに、私達のことなんて、分かんないわ…。」
地獄の風の様なそれは、母親の声だった。曙は、じっと自分の手を見て、嵐の通過を待つ。
「死にかけて、殺して来いなんて言うあなた達の気持ちは、俺には分かれない。曙君!お願いだ、教えてくれ。君の思ってること、感じてること、全部!俺は、出来るだけ君の気持ちを尊重したいからあ!」
「綺麗事ばっかり言いやがって!!どうせ、いい家に生まれて、温々生きてんだろうがっ!今日生きるのがやっとの、そんな俺達の気持ちが、お前に分かって堪るか!」
一拍、間が空いた。体格の良い父親を見下す女郎花色に、名指しし難い輝きが破裂するのを、曙は見た。
悔しさと怒り。それを掻き消す、なにか。日の光。花火。星。似ているが、少し違う。もっと派手で荒削りの、優しい色。
男は言った。
「綺麗事ばっか言って、綺麗な行動して、綺麗事の通る綺麗な世界を、作ってやるんだあ。」
曙は、生死に関わること以外考えない。
だが、このとき曙は確かに考えた。もしも、この人の子供だったならば、と。
「曙君、こっちへ来てくれ。話をさせてくれ。」
「来ないで!来たらお母さん怒るからね!」
「絶対に来んじゃないぞ!」
「曙君。曙君!」
そう言えば、名前を呼ばれたのは久し振りだった、と曙は思い出した。
床に手を付いて、ぎこちなく立ち上がる。戸の近くへ移動すると、大人達の顔がはっきり見えた。歓喜した男と、ぎょっとした両親。
「曙っ!」
ああ遅いよ、お母さん。もう少し早ければ、嘘をつけたのに。
「わ、私、は、」
「うん。」
男は曙だけ見詰めていた。心の底の方から、するすると言葉を引き出される気がした。
「もう、泣いている人に、あんなことしたくない…。」
「俺達の子供の頃がどんなだったか知ってんのか!お前は恵まれてんだよ!」
「もう、嫌に、なっちゃった。もう…どうすればいいのか、分からない。」
鼻の奥が痛んで、視界が歪む。大人達の表情はもう分からなかった。それでも、歪んだ視界の中で、女郎花色は相変わらず一心にこちらを向いていた。
「…せめて、頑張ったねって、言って欲しかったぁ…。」
動かない両親の間を通り、男が曙の前に来る。しゃがんだ彼は、ゆっくりと少女の頭を撫でた。
「辛かったね、よく、よく堪えた。」
視界が元に戻って、頬を涙が伝った。
「頑張ったね。…だけどさ、我慢し過ぎたら、辛いから、もっと甘えていいんだよ。甘えられる場所に行っていいんだよ。」
真っ直ぐに貫く、双眸。
「あなたの、ところに、行きたい。」
男は一度目を見開き、曙は駄目なことを言ったかと後悔したが、それはすぐに消えた。
「君がそれを望むのなら、喜んで。」
柔らかな笑顔だった。それだけで、何故なのか曙は涙が流れた。
「ふざけるな!!俺達の娘だ。部外者が口を出すな!!」
父親の叫び声。男は振り返って冷静に答えた。
「昨年に、未成年学働法ができた。彼女の年で邪物殺しなら、部外者でも保護が可能です。」
「あんまりよ…あんまりだわ!」
「曙!撤回しろ、俺達の子供だろう!」
「…彼女を、愛していますか?」
母親の眉が歪んだ。何故そんなことを聞くのか分からない、と言う様に。父親はただ男を眺めている。
「ごめんなさい。少し、気になったんです。…兎に角、彼女は俺達の家に連れて行きます。異論がある場合は、後日最寄りの子預かりまでご連絡下さい。育てる資格があると見なされれば、彼女はここに帰れます。」
ふいに、父親が男の腕を摑んだ。父親の指先が黄色くなる程の力だった。
「お前の目玉と交換でどうだ?それ程の覚悟があるなら、娘はおたくにやるし、一生抗議もしない。」
「そうね、それがいい。ほら、小刀をあげるから。」
当時は理解出来なかったが、後から気付いた。これも、両親なりの抵抗だったのだ。目玉などと言えば、男が怖気付いて曙を諦めるだろうと、思って。
彼等の予想は見事なまでに外れた。
男は一切の躊躇無く小刀を受け取り、曙の顔を自身の胸を押し付けて少女の視界を隠してから、彼女に血がかからないよう首を横に伸ばして右目を刺した。
水気とそこそこの重さのある物が落ちた音。父親が尻餅をついた音。母親の悲鳴。
手が離れてすぐ、曙は男を見た。右目のあった場所を布で押さえている。そして、横の床に転がっている真紅と女郎花の塊。
男は曙の視線に気付くと、自身の体でそれを隠した。同時に布を巻いて、右目のあったところを隠す。
「ごっ、めん、…なぁ、さい…。わたっしのせいで…っ!」
「ううん、君のせいじゃあないし、平気だよ。家に帰ろう、曙君。」
背を撫でる手。料理包丁と弓と薙刀でできた、たこだらけの手だった。
「…曙、が、いい。」
それは、彼女にとって生まれて初めての我儘だった。どうでもいい、生死にこれっぽっちも関わらない我儘だった。
でも彼は笑顔で頷いた。
「分かった。帰ろう、曙。」
曙は差し出された綺麗な左手では無く、血だらけの右手を握った。男の苦笑が聞こえる。
「お父さん、お母さん、さようなら。」
一切合切を、その一言で区切る。
血だらけになっても、清らかな温もりを保つ手を握って、少女は、彼の右目になることを誓った。
○
「何そいつ。」
右目に対する言葉で無かったため、夏牙はほっとする。曙が処置してくれた上、布を巻き髪で隠す徹底ぶりだから、気付かないだろうとは思ったが、心配だった。
「曙だ。美人だろう。」
香路島はぎろりと夏牙を睨んだ。
「んな話してねえよ。何、そいつここに入れる訳?ヤなんだけど。」
香路島は、知らない相手には基本的に笑顔で応じるため、家に来ていきなり睨み付けていることに、夏牙は寧ろ安堵した。
「ごめんな、曙。警戒しがちなだけで、根はいい子だから、嫌わないでやってくれ。」
「ふッ。そんな何処の馬の骨ともしれない奴に嫌われても構わねぇし。」
「香路島!今のは駄目だろお。」
「私は気にしていない。」
曙は本当に気にしていない顔だったが、夏牙は首を振った。
「それでも、傷つく人もいる。完全には無理でも、防げるものは防がないと心は壊れる。今のは、防げるものだった。」
「んなこと防ぐ暇あんだったら自分の怪我を防げよっ!」
瞠目した夏牙の目の前に、軟膏の入れ物が飛んでくる。夏牙がそれを摑んだときには香路島は中庭に走って行った。
夏牙は呆然と呟く。
「バレてた…。」
「騒がしいが、どうした?」
ひょこっと新月が現れる。夏牙は力無く首を振る。
「いやあ…香路を怒らせちまって。」
「そうか。右目はどうしたんだ?」
「…。なんでみんな気付くんだあ?」
新月はこてんと首を傾げる。
「血の匂いが酷いが、夏牙は感じないのか?香路島や藤ノ舞成は人狼の血が混ざっているから、気付くだろう。」
夏牙の溜め息が響いた。頭を掻き、それから彼は頷く。
「香路島と話して来る。新月、彼女は曙だ。部屋とか風呂とか、場所教えてやってくれ。」
「了解した。」
二人が去るのを眺めてから、夏牙は中庭に行く。予想通り、香路島はつまらなそうな顔で木の根元に腰掛けていた。
「香路島。目のこと、黙ってごめん。心配させたくなかったんだ。」
「馬鹿みたいだ。」
夏牙はにっと悪戯小僧の笑みを返す。
「"みたい"じゃあない。馬鹿なんだあ。」
香路島の溜め息。夏牙は彼の隣に座った。
「夏牙は、なんでこんなことしてんの。」
「"こんな"ってどんな?」
「両親殺した奴等引き取って、目ぇ失っても笑って、そういうこと。」
夏牙が小さく笑うと、香路島は、得体の知れない物を見る目で彼を見た。
「幸せになる為に。」
「意味分かんねぇし。馬鹿じゃねぇの。」
「だから、馬鹿なんだって。」
「…後悔してないの?」
夏牙は香路島を抱き締めて、彼の頭をわしゃわしゃと撫で回した。
「後悔なんてするもんかあ。俺は君達のお陰でやあっと、心の底から幸せになれたんだあ。」
夏牙の腕の下から、小さい声。
「あっそお…。」
○
「夏牙、"香路島が心配してるから、傷の具合を聞いて来て"と藤ノ舞成に頼まれたから、聞きに来た。具合はどうだ?」
裏事情のだだ漏れさに夏牙は笑ってから、新月の頭を撫でた。
「君達の愛があれば大丈夫だあ。」
「"愛"?そうか。ならば、大丈夫か。」
「心配してくれてありがとさん。藤と香路にもそう伝えてくれ。」
「分かった。いつ頃、新しい目が出て来るんだ?」
「え?芽?庭の木か?」
きょとんとし合って数秒後、新月が手を叩いた。
「そうか。新しい目が出るのは俺だけか。」
「…はあ?もしかして新月、前に目ぇ取ったのか?」
「売れると聞いて。あまり高くなかったが。俺の体なら、一定時間離れた場所にあれば、元のとはくっつかずに新しいものが出るからな。」
家を出てすぐか、陶師匠から逃げた頃だろうと夏牙は理解した。
「もう止めろよ。」
「必要なくなったからやらない。」
「そうか。あの人も……、いや、なんでも無い。」
新月はこくりと頷く。
「そうか。」
夏牙の言い掛けたことへの答えみたいだった。そうならいいと思った。
新月は、少しだけ夏牙の方に身を乗り出す。
「愛くらい、みんな幾らでもあげるから、早く良くなってほしい。」
夏牙は歯を食いしばって我慢した後で、笑顔を浮かべた。
「ありがとう。」
その笑顔を見て、新月は唐突に、幸せという文字が頭に浮かんだが、ぽいと放り捨てた。得ていないものは失わないから、失わずに済むように。




