無双がフタリ⑮
<続9 天使は多分清められない>
焦っている、というのは自分でも分かっていた。焦れば呼吸のしにくさや体の動かしずらさに繋がる。焦ってはならない。
焦るな、焦るな、と念じる。だがそう思えば思う程に足が震えた。
新月は無理矢理、崖を滑り落ちる様に下りる。邪物が視界に入った。彼の聴覚が、上にも飛んでいることを察知する。構わず先を急ぐ。
曙の銃声。邪物の叫び。夏牙の矢。
茂みを抜けると、やっと、明鳴池とそこにいる彼等が見えた。
その瞬間、新月は漸くまともに息を吸えた。全員いる。夏牙、曙、食百、頭兜、そして
「愉愉?」
「彼等に害を為す考えの者!!」
苛烈に美しく咲く声。辺りが澄み切る威力。
純黒の中に、ありとあらゆる色が宿る瞳。巨大な力が露わとなった状態の愉愉の姿。
愉愉は、自分の声と力が全員に届いているか確かめる様に、一人一人と目を合わせる。下手に手出しして愉愉の邪魔になっては困る、と傍観に方向転換した新月を見ると、愉愉は可笑しそうな表情をした。夏牙は最初、曙が袖を掴んできていることにも気付けない程呆然としていたが、愉愉と目が合うと何か思い出したのか緊張した表情ながらも頷いた。愉愉はちょっと目を見開き、それから悠然と唇の端を上げた。曙のことはあまり見なかった。長く見るのは悪いと考えたのだろう、と新月は思った。
愉愉の瞳が邪物へ移る。叫ばずとも届くと考えてか、次の声はそう大きく無かった。
「ここへ。」
彼等は呼ばれたことに驚き、そして歓喜していた。あの方に呼ばれた確かに呼ばれたのだ、と。
ぐるりと己を囲んだ邪物に、愉愉は言った。
「今、お前達は私の逆鱗に触れたのだよ。」
曙はゾッとした。
か細く小柄な体。そこから溢れる底無し怒りと力…。これ程の力、神降ろしの力では無い。
あれよりも強く、古く、
恐ろしい。
「これは罰では無い。罰など私の手に余るからな…。」
純黒。何処までも続いて、何もかも吸い込んで、膝まづかせる黒色。その中で、全ての色が廻っている。
「よって、これはただの八つ当たりと思って構わん。」
邪物は震えながら、それでも愉愉の目を見詰めていた。
「安らかに逝け。」
滑らかにそう動いた唇の残像が、曙の頭で、暫く燻っていた。
邪物が倒れる。静かに、彼等の死に方としては珍しい静かさで、死んでいた。愉愉は、少しの間黙って空中を眺めていた。が、やがて、ゆらりと視線が邪物の死骸へ向き、それを確認してから食百と頭兜を抱えて、邪物の輪から抜ける。ぽっかりの空いた邪物達の真ん中。
夏牙は、愉愉の行動の意味に気付き、戦慄した。
愉愉は、待っていたのだ。自分の目では見えない邪物が、見える状態になるまで。つまり、死体に、生者で無く"物体"に、なるまで。
生物が死骸になるのを、冷静に、待っていたのだ。
そんなこと……、
「…夏牙さん。」
はっとする。いつの間にか愉愉が目の前にいた。愉愉に抱えられた食百と頭兜は目を閉じている。
それを見た途端、夏牙の恐怖は強烈な自己嫌悪に変わった。
二人の安全の為に愉愉は待っていたんだ、と夏牙は思った。邪物を踏んで転びでもしたら、幼い二人が危険だから、と。だから彼は、愉愉が差し出した二人を抱いて、愉愉の目を真っ直ぐに捉えて、言った。
「ありがとう。本当に、本当に、感謝する。…ごめんなあ…。」
愉愉は目を見開いて、夏牙を見詰めていた。この世のものとは思えぬ色の瞳が、僅かに揺れる。それから愉愉は、小さく息を吐いた。夏牙には、その顔が、笑いそこねた様に見えた。
「あなたは、やっぱり、おかしい。」
「…そうかもな。」
夏牙も、愉愉の様な顔をした。やれやれ、とでも言う様に首を振ってから、愉愉は服に付いている帽子を被り、目を隠して、それから夏牙の腕の中の二人へ囁いた。
「もういいですよ。」
途端、素晴らしい反射神経で二人は目を開ける。食百と頭兜は辺りを見回し、誰にも怪我がないのを確認してから、愉愉の方を見た。
「ありがとう愉愉!みんな助けてくれて、ありがとう!」
「ゆゆゆ、わたしからもありがとう!ありがとう、ゆゆ!」
にっこりと、愉愉の唇は弧を描いた。目は、隠したままで。
「いーえ。」
食百がきょとんと小首を傾げる。
「ゆゆゆゆ、なんでぼうし、かぶってるの?」
愉愉は雑に肩を竦めた。
「ただの気まぐれ。」
それから愉愉は周りを見渡した。
「さてと。ボクの結界に邪物が侵入した。これはどうゆうことですかね?」




