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窓際の少女は消える前に  作者: 有野実
帝都
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第36話 小さなキャンバス



 結局、マンフレッドとの戦闘は、世間には「城壁の抜け穴から侵入したナトゥアの攻撃によるもの」というカバーストーリーが敷かれた。


 帝都の人、物ともに被害が非常に大きく、城壁の内側で起きたこの事件は、帝都の歴史にも前例がないほどのものとなってしまった。


 出回った情報がカバーストーリーであることを知っているのは、当事者であるユーリア、ヘレナ、イーナの三人と、エドラー家の当主、フリッツのみである。


 エドラー家が事件を処理したことで、工作がうまくいき、壁外地区を無視してナトゥアが侵入するはずがないなど、疑念も声も上がったが、大体の人間がこの作り話を受け入れたようだった。


 


 遺された妻イレーネは実家へ呼び戻され、帰ることになった。


 ヘレナが表での騒動を見たかと聞くと、彼女は静かに、一言だけ、「もっと早く気づけていれば」と謝罪した。


 イレーネと使用人がマンフレッドの異変に勘づいていたかはわからない。


 しかし、イレーネ本人が事件そのものに関わっているということは事件当日の行動を見ても考えにくかった。


 大人気画家の彼女なら、仕事に困ることはないだろう。


 邸宅はイーナが使うのは構わないと言い残して、使用人とともに、イレーネは事件の数日後には邸宅を発っていった。




 すっかり静かになった邸宅の応接間で、イーナはソファに座りながら、正面の絵を眺めていた。


 絵画の中の少し暗い寝室には、窓から線のような日差しが入って、部屋の中の明暗が強調されている。


 部屋にヘレナが入ってきて、イーナの隣に座った。



 「ずっと、うまくやれる方法があったんじゃないかなって思う」


 イーナは独り言を言うようにつぶやく。


 「最後の攻撃を右腕にすれば、叔父は死ななくて良かったかもしれないとか、途中の隙をつけなかったことも何回もあったとか。おかしいなあ、覚悟を決めてやったはずなのに、ずっとこんなことを考えてるんだ」


 応接間には時計の秒針が動く音が響いている。


 ヘレナがおもむろに口を開いた。



 「私は作品の価値と作者の人格を切り離して考える人間です」


 「イーナも切り離せばいいんです。この間の彼と、それ以前の彼をです」



 「切り離す?」


 


 「そうです。私が彼の作品を好み、彼の性格を好まないように、イーナも以前の彼を好み、あのときの彼だけを嫌えばいいんです」


 「あのときのイーナは、あのときの彼に然るべき対処をしたんです、そう信じればいいんです。そして、亡くなって悲しむべき相手を、昔からの彼にすればいいんです。分けて考えて、感じるんです」


 


 「……ヘレナはよくわからないことを言うね」


 イーナは目の端に溜まった涙をそっと拭って、くすりと笑う。



 「そうですね……自分でも何言ってるのかわかってないかもしれないです。でも、一つわかることがあります」



 「わかること?」


 


 「はい、少しだけ来てくれませんか?」


 


 ヘレナに連れられて行った先は、マンフレッドのアトリエだった。


 彼のアトリエは事件の当日そのままの状態になっている。


 大きな窓からは庭が見え、部屋の隅にはまだ穴が空いている。


 奥の馬小屋から馬がいななくのがかすかに聞こえた。



 「これ、見てください」


 ヘレナがアトリエの中に乱雑に置かれた物の中から、一枚の小さなキャンバスを取り出して、部屋の真ん中にあるイーゼルに置く。



 マンフレッドが仕事の合間に描いただろう絵だった。


 窓のない寝室が描かれている。


 左に天幕付きのベッド、中央奥に暖炉とテーブル、椅子。


 右に大きな本棚、家具は深い茶色で統一されている。


 少し薄暗いけれど、暖かい雰囲気を持った、見慣れた部屋。


 イーナは何も言えずに、じっと小さな絵を見つめる。


 それはまさしく、手のひらよりも少し大きいキャンバスに描かれた、イーナの「部屋」そのものだった。


 


 「多分、イーナの額縁を手に入れたあと、模写したんだと思います」


 ヘレナは小さな絵を手に取る。


 裏面には小さく日付が書いてある。


 事件当日だ。



 「確かに、マンフレッドは額縁を持つ四ツ窓に対して劣等感があって、恨んだこともあったかもしれません」


 「でも、彼の仕事やこの絵を見ると、どうもそれだけじゃないように思えるんです」



 ヘレナは再び絵をイーゼルに置いた。


 小さな絵なのにも関わらず、細部までよく描き込まれている。


 照明に照らされた家具の艶、陰の濃淡は、作者のこだわりを感じさせる。


 「こんな絵は、イーナの『部屋』が本当に好きでなきゃ描けないですよ。……だからなおさら、私もイーナも彼を惜しく感じるんですね」



 「じゃあ、どうして叔父は私のことを……わからないことが多すぎるよ」


 イーナは困惑する。


 気持ちも情報も、何もかもが整理できていない。


 イーナの中ではさまざまな感情がうごめいて、身動きができないような、そんな状態になっていた。



 「それも全部はっきりさせればいいんですよ。マンフレッドの言った『奴』を探しに行けばいいんです。あれこれ考えるのは後回しにしてしまえばいい。ドゥルヒブルフ部隊なら、それができます」



 「ナトゥアについて調べれば、いつかはわかるってことかな?」



 「そうです。今までのこと、全部ナトゥアが関係しているんです、きっと、何かしらはあるはずです」


 ヘレナはイーナを励ますように、一言一言はっきりと語りかける。



 「……そうだね、やることを決めた方が、嫌なことも忘れられるかな」


 ナトゥアの解明は父の遺志であり、イーナの夢でもある。


 叔父から一度目を背ければ、気が楽になるなら。


 目を背けて、ほかに集中したものの先に、叔父の問題を解決する手掛かりがあるとするなら、イーナはそうしようと思った。



 「ならもうすぐ動いちゃいましょう!とりあえず壁外で仕事してるユーリア呼んできましょう、あ、その前に少しだけ支度をさせてください」


 ヘレナは途端に楽しそうになって、勢いよくアトリエを出ていく。


 


 アトリエにはイーナ一人が残された。


 イーナは大きく息を吸うと、思い切り吐く。


 アトリエの空気は少し埃っぽかった。


 背中の革製のケースから額縁を取り出して、手頃なところに立てかける。


 イーナはイーゼルからマンフレッドの小さなキャンバスを取り上げ、「部屋」の中に入る。



 イーナは「部屋」を見回しながらゆっくりと歩いて、ベッドの脇のドレッサーの上に、小さなキャンバスを立てかけた。



 「まったく叔父さんは絵が上手いな」


 立てかけられた叔父の絵は、当然ながらも、自分の「部屋」によく似合っていた。


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