恐怖! 口裂け女!
大門大介は、エレファン島の生まれである。
エレファン島とは、インド洋上にある小さな島であり、様々な人種の者が住んでいる。大介は自然の中で生を受け、逞しく育っていった。
そんな大介に、悲劇が訪れる。ICPO(国際刑事警察委員会)の秘密刑事である父・大門勇太郎と母・大門優子が離婚し、話し合いの末に大介は日本にいる祖父に引き取られることとなった。
両親が離婚した際に味わった悲しみは、未だに癒えていない。それでも、大介は日本で強く生きていく決意を固めたのである。
ただ残念なことに、エレファン島で得られる日本の知識は……サムライやヨウカイやニンジャやハラキリやバンチョウといった偏ったものばかりだ。
そのため大介は、恐ろしく間違った昭和時代の知識を大量に詰めこんだ状態で、日本に来たのである。
・・・
その日も猫耳小僧と会うため、大介はママチャリを漕いでいた。既に日は沈み、空には月が出ている。
ふと前を見ると、道端にひとりの女が立っていた。赤いコートを着て背が高く、髪は長い。マスクをしてはいるが、大きな二重瞼と高く形のいい鼻は、そこらのアイドルが裸足……いや、全裸のままで逃げ出すくらいの美貌の持ち主であることが窺える。
さらに豊かなバストとくびれたウエストと豊満なヒップ、加えてすらりと伸びた美しい足は、街灯の明かりでも刺激的に見える。もはや、戦術核兵器の域にまで達しているだろう。
これは彼女いない歴十六年、十六歳の少年・大門大介にとって、あまりにも刺激が強すぎる……彼は頬を赤らめ、必死の形相で目を逸らして横を通り過ぎた。本当は、ガン見したくてたまらないのだが、その衝動を不撓不屈の精神で堪えていたのである。
ところが意外なことに、美女の方から声をかけてきた。
「そこの少年、ちょっと待ってくれないかな」
その魅惑的な誘いに、抗うことなど出来ようはずがない。
「は、はい! な、何でありますか!」
海兵隊のような声と共に、立ち止まる大介。すると、美女はゆっくりと近づいて来た。
美女の体から発せられる何かが、大介を狂わせていく。胸はドキドキし、呼吸は荒い。日本に来た直後、二十人の暴走族に絡まれ喧嘩し全員を病院送りにしたことがあったが……そんな時など比較にならないくらい緊張していた。
「君に、聞きたいことがあるの」
言いながら、美女は困ったような表情で見つめてくる。大介は、その場で飛び上がりたい衝動を必死で堪えていた。
「な、何でしょうか! 俺はどんな疑問でも答えてみせます!」
またしても、海兵隊のごとき大声で答える大介。美女の顔に、戸惑いの表情が浮かぶ……だが、それはほんの一瞬だった。
「あたし、綺麗?」
その問いに、大介はぶんぶんと首を縦に振る。
「は、はい! もちろん綺麗です!」
すると、美女の目付きが変わる。マスクに手を伸ばし、一気に取り去った。
耳元まで裂けた口が露になる──
「これでも?」
そう言って、ニヤリと笑う。このパターンならば、どんな人間であろうと恐怖に耐えられず逃げ出すはずだ。事実、女の素顔を見て逃げ出さなかった男など、今まで存在しない。
しかし、女は何もわかっていなかった。目の前にいる少年は、並の高校生ではないのだ。単なる老けた高校生でもない。日本最強の番長なのである。
大介は女の顔を真っ直ぐ見つめる。その表情は、先ほどまでと全く変わっていない。何事もなかったかのように答える。
「はい! とても綺麗であります!」
「えええっ!?」
想定外の答えに戸惑い、女は思わず後ずさりしていく。しかし、大介はお構い無しだ。必死の形相で、巨体を震わせながら近づいて行く。
「あ、あのう! し、初対面でこんなこと言うのは、アレですが……お、俺とお付き合いしていただけないでしょうか!」
「は、はあぁ!?」
女は、思わずすっとんきょうな声を上げていた。事態は、予想していなかった方向に進んでいる……怯みながらも、必死で大介を睨み付けた。
しかし、大介には退く気配がない。
「ど、どうでしょうか? 俺では駄目ですか?」
「いいわけないだろ! お前、今の状況を分かってるのかい! 空気を読みなよ空気を!」
「お、お付き合いは駄目ですか。じゃ、じゃあ……せめて、お友だちからお願いします!」
「ふ、ふざけるんじゃないよ! だから空気読めって言ってるだろうがぁ! 人の話を聞けえぇ!」
女は怯みながらも、真っ赤な顔で怒鳴りつける。すると、大介の表情にも変化が生じた。
「ふざけてなんかいません! 俺は……俺は極めて真剣です! あなたみたいな綺麗な女性は、初めて見ました! 一目惚れしました! まずは、お友だちからお願いします!」
言いながら、大介はずんずん突き進んでいく。そのプエルトリカンのごとき濃い顔を、女に近づけていった。こうなると、どっちが妖怪だか分からない。
すると女は、両拳を上げて構えた。
「や、やめんかあぁ! 近いんだよ!」
吠えると同時に、女のすらりとした足が伸びる。ブルース・リーばりにスピードとキレのあるサイドキックが放たれたのだ。女の足裏は、弾丸のような速さで大介の顔面を捉えた──
直後、大介は鼻血を出しながら仰向けに倒れる。常人なら、確実にノックアウトされていた一撃である。
しかし、大介は瞬時に立ち上がった。その顔には、満面の笑みが浮かんでいる。
「いやあ、素晴らしい蹴りだ! こんな威力の蹴りを食らったのは久しぶりです! 是非、お手合わせをお願いします! 今度、一緒にキックボクシングデートなどしませんか? スパーリングなら、いくらでも付き合いますよ!?」
鼻血を出しながら、なおも迫る。女は、耳まで真っ赤になっていた。
「い、嫌じゃあ! 離れろボケえぇ!」
叫ぶと共に、女は高く跳躍した。体をくるりと一回転させ、強烈なローリングソバットを見舞う──
女の足裏が、またしても大介の顔面に炸裂した。さすがの大介もたまらず吹っ飛び、仰向けに倒れる。
体の回転を利かせたローリングソバットは、打撃技の中でもトップクラスの威力を誇る。普通の人間なら、死んでいたかもしれない一撃であった。
もっとも、大介は並の人間ではない。彼は番長なのである。絶滅危惧種の人間なのである。
大介は、すぐにむっくりと立ち上がる。顔から鼻血を吹きながらも、女に思いのたけを叫ぶ──
「いくら蹴られても、俺は死にましぇん! あなたがあぁ! 好きだからあぁぁぁ!」
すると、女は全身が真っ赤に染まっていった──
「い、い、嫌じゃあぁぁ!」
叫ぶと同時に、女は向きを変えた。
そのまま両手で顔を覆い、凄まじいスピードで走り去っていく……あまりにも急な展開に、大介は呆気に取られ、その場に立ち尽くしていた。
その時、後ろから彼をつつく者がいる。振り返ると、猫耳小僧が心配そうな様子で立っていた。
「大介、鼻血出てるニャ。大丈夫かニャ?」
猫耳小僧の言葉に、大介は鼻血を手で拭った。
「ああ、大丈夫だよ」
「それなら良かったニャ。にしても、大介は本当に凄いニャ。あの口裂け女が逃げ出すなんて、考えられないニャ。俺、あいつが逃げるとこなんて初めて見たニャよ。大した奴だニャ……」
言いながら、猫耳小僧は腕を組む。感心したような表情でうんうんと頷いた。
だが、当の大介はポカンとしている。
「クチサケオンナ? 何だそりゃ?」
大介は首を傾げる。すると、猫耳小僧は呆れたような顔つきになった。
「お前、口裂け女を知らないのかニャ。昔、都会で何百人もの子供を怖がらせ、社会現象にまでなった妖怪だニャ」
猫耳小僧の説明も、大介には今ひとつピンと来ていない。まあ当然であろう。口裂け女が活躍していたのは、昭和の時代である。平成生まれの大介が、知るはずもない。
「いや、ぜんぜん知らんな……というか、あの人のどこに怖がる要素があるんだ! あの宝石のように輝く瞳、白い肌、完璧なボディライン……まさに俺の理想の女性だ! 美の女神さまだ! ちょっとばかり口が大きいくらい、なんだって言うんだ!」
空に向かい叫ぶ大介を見て、猫耳小僧は溜息を吐いた。
「お前、全然わかってないニャ。あいつはキレたら殴るわ蹴るわ、めちゃくちゃ怖い奴ニャよ」
「だから何だ! 突きも蹴りも、俺の筋肉で受け止めてやる……いや、ちょっと待てよ。猫耳、お前はクチサケさんと知り合いなのか?」
恐ろしい勢いで大介が迫ってくる。猫耳小僧は、狼狽えつつも答えた。
「ニャニャ? い、一応は知ってるけど……」
「じゃあ、クチサケさんを紹介してくれ!」
言葉の直後、いきなり土下座する大介。
「ニャニャ!? 何してるニャ! あ、頭を上げろニャ!」
「いや、俺は頭を上げない! お前が、俺とクチサケさんとの仲を取り持ってくれるまでは!」
「あのニャ、あいつは妖怪ニャよ。お前は人間だニャ。妖怪と人間とじゃ、無理だニャ」
猫耳小僧の言葉に、大介は顔を上げた。
「バカ野郎! 愛さえあれば、んなもん乗り越えられるんだよ! 愛とは、すなわちミラクルを信じる力! 俺は諦めないぞ! あの人のためなら、七つの海を泳ぎきってみせる!」
「いや、意味がわからないニャ……だいたい、それじゃあストーカーだニャ」
困惑した表情で、彼は自身の猫耳をポリポリ掻く。しかし、大介に引く気配はない。再び土下座し、リーゼントの頭を地面に擦り付けている。
ややあって、猫耳小僧は溜息を吐いた。
「もう、しようがない奴だニャ。協力してやるニャよ」
その言葉に、大介は勢いよく顔を上げる。
「ほ、本当か! 本当に協力してくれるのか!」
「だって、このままだと大介はストーカーになりそうだニャ。だから、ちょっとずつ仲良くなるくらいの手助けはしてやるニャよ。ただし、上手くいくかは保証できないニャ──」
「あ、ありがとう心の友よ! 俺は今、猛烈に感動しているぞ!」
言うと同時に、大介は猫耳小僧に飛びついた。その太い両腕で、小僧を力の限り抱き締める。
「な、何するニャ! 苦しいニャ! 離れろニャ!」
必死の形相で、猫耳小僧はもがきながら叫ぶ。しかし、大介は離そうとしない。
「ありがとう猫耳小僧! お前には深く感謝している! これからも、俺の親友でいてくれ!」
「わ、わかったから離せニャ! ぐるじいニャ!」
その翌日、ふたりはいつもと同じように役満神社にいた。猫耳小僧はベンチに座り、弁当に舌鼓を打っている。その横で、大介は気合いと共に拳立て伏せをしている。
百八十センチを超える男が、野太い声を発しながらの拳立て伏せをする……かなり暑苦しい光景なはずなのだが、猫耳小僧は気にもしていない。ニコニコしながら話しかける。
「ハンバーグ弁当、美味しいニャ!」
「おお、そうか! また持ってきてやるぞ!」
「ありがとニャ!」
楽しそうに笑い合う、大介と猫耳小僧。
そんな両者を、羨ましそうにじっと見つめている者がいた。妖怪・口裂け女である。派手な赤いコート姿で、もじもじしながら大木の陰に隠れている。
「あ、あたしは、お前なんか好きじゃないんだからね。お前みたいな暑苦しいガキなんか、好みじゃないんだよ。あたしはただ、猫耳小僧が心配なだけなんだからね……」
赤いコート姿で頬を赤らめ、ひとりでブツブツ言っている口裂け女。言葉とは裏腹に、彼女は大介にストーカーのごとき熱い視線を送っていた。
・・・
その頃、山の中にある廃屋では、都市伝説でその名を知られた妖怪たちが集結している。首なしライダーと送り犬とテケテケらが、仲良く酒盛りをしていたのだ。
「なにい!? 口裂け女と猫耳小僧が人間に負けたのか!?」
首なしライダーが怒鳴った。彼は口が無いはずなのだが、流暢に声を発している。
「うん、そうらしいんだよ。口裂け女の奴、目がすっかり恋する乙女になってたんだから。耳まで真っ赤にして、あたしの負けだ……なんて言ってたよ。あれは、大介に惚れたね」
テケテケの言葉を聞いた首なしライダーは、不快そうに首の付け根に酒を流し込む。彼は口がないので、そこに酒を流し込むのである。
「だったら、次は俺が行く。あの大介とか言う生意気なガキを、必ずひれ伏させてやる」
そう言うと、首なしライダーはバイクに飛び乗った。直後、凄まじいスピードで下へと降りていったのである。