94.封印されし悪魔
辺りは月明りに照らされた。
よもや幻想的とさえ言える絶妙な雰囲気をかもちだし、その静けさだけが部屋の中を覆い尽くす。
「スー……スー……」
その一室で、一人の少年がスピスピと眠っている。
これはアッシュだ。
ただいまの時間は深夜。
いくつになっても変わらないその可愛らしい寝音と、外にいるカエルの鳴き声で、なんとも微妙な音色を奏でている。
「…………」
そんな寝室にもう一人。
ベッドの前に立つ、無言の女がいた。
月明りで薄っすら見える美しい褐色のお肌、煌びやかな白銀の髪から覗かせる尖った耳。
神の使い、ヘルナだ。
無言のままずっと少年の寝顔を見つめている。
「う、う~ん……ふわふわが~、いっぱいさ~……」
アッシュは気づく様子もない。
ムニャムニャと何か呟いている。
「…………」
ヘルナはしばらく見ていたが、
髪を後ろに流しながら、ゆっくり顔に近づいていく
「……ン、チュッ……ン」
そのままアッシュの柔らかな頬に数回キスをした。
「う、う~ん……」
アッシュは頬をかゆそうにして寝返りを打つ。
今はこれが限界、これ以上やると起きてしまう。
ヘルナは度々こうやってバレない程度に夜這いしていた。
彼女のささやかな日課であった。
だが、今日は少し違う。別の目的があった。
おもむろに胸の中に手を突っ込み、中から丸い球を取り出す。
真夜中のせいか、控えめに輝く銀色の玉だ。
それは彼女の体温で生暖かくなっていた。
アッシュの胸の中にソッと入れる。
起こさないよう慎重に。
ズズ……ズズズズ……
玉がゆっくり身体に溶け込んでいき、やがて完全に入り込んでしまった。
「私のご主人様。フフフ……」
最後にもう一度、アッシュのほっぺにチュッチュして、音を立てずに部屋から出て行った。
ふわふわも持ち帰ろうかと一瞬考えたが、風邪をひいてはいけないと思い、それはやめておいた。
彼女なりの気遣いだ。
パタンッ
「スー……スー……」
可愛らしい寝音が響く。
──真っ暗な世界、暗黒、深淵、ダークネス、良く分からない不思議な空間。
そこに何かいる。
それは人間の形を成している。
だが、目と口だけが異様に真っ白な姿をした、赤黒い何かだ。
「うおおおおおお!!! なんだこれ⁉」
何やら苦しそうに頭を抱え、身体をひどく捻じらせている。
「おいてめえ! 何しやがった⁉ なんかおかしいぞこれ!!!」
必死な形相でこちらに何かを訴えて来る。
だが、どうにかしようにも、どうしようもない。
──しつこい
聞き覚えのある女の声が、空間全体に広がる。
「なっ⁉」
突如現れた銀色の光、それが赤黒い何かを強引に抑え込む。
──邪魔
「ちょっ⁉ 待ってくれよ! こっちは大人しく寝てただけで話を……ってギャアアアアア!!!」
聞くに堪えない醜い断末魔。
そのまま光の中に消えてしまった──。
──────
────
──
「──ベルル⁉」
アッシュは目を覚ました。
すでに夜は明けており、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえる。
「ハア……ハア……」
えらくひどい夢を見ていた。
全身が汗でグッショリ、心臓もバックバクだ。
「あれは……夢なのか……」
夢にしては迫力満載でとてもリアルだった。
それに、どこか身体も落ち着かない。
身体に異物があるような、不思議と神聖な気分にさせられる。
「っ⁉︎」
アッシュは急に焦る。
身体の中に住み着いている居候の悪魔がいなかったからだ。
正確にいえば、2匹のうち片方だけ、存在が空白のように消えている。
「ベルルが、いない……⁉︎」
ウィリーの方は相変わらず微かに力を感じる。
だが、ベルルに至っては反応が全くなかった。
試しに悪魔の左目を使おうとしたが、やはり発動しない。
あれは夢ではなかったのだ。
自分の中で何か不思議な力が働いて、ベルルはそれに襲われた。
あの銀色の光、とても見覚えがある。
それに身体の中に満ち溢れる神々しい力……。
しかもどこか不快なこの感じは、
「ま、さ、か……っ⁉」
とても嫌な予感──というか、確信したアッシュはとっさに部屋を飛び出した。
寝巻きのまま向かった先は、ヘルナの寝室だ。
バンッ!
アッシュがドアを勢いよく蹴り飛ばす。
そのままズカズカと中に入る。
「スー……スー……」
ヘルナが寝音を立てて眠っていた。無防備だ。
「起きろ!」
アッシュは容赦なく布団を剥ぎ取り、お姫様を眠りから叩き起こしてあげた。
「ふあ~……」
ヘルナは欠伸をしながら、ゆっくりと起き上がる。
身体を伸び伸びさせ、まだ気ダルそうにしている。
「……なに?」
「なに? じゃないさ! オレにクロスオーブ入れただろ⁉」
「うん、入れた」
「いや入れたって、そんなあっさり……なに勝手なことしてくれたのさ⁉」
相手の全く悪びれない様子にアッシュはたじろぐ。
「その目はなにさ!……っ!~~~っ、クソッ!」
カッとなりヘルナの胸倉に掴みかかろうとするも、その手をグッと堪える。
「取ってくれ!」
とにかく今は怒ってる場合ではない。
クロスオーブが身体の中にガッチリ固定されており、アッシュの意思では取り出せない。
そのため、入れた本人に懇願するしかなかった。
「イヤ」
しかし、ヘルナがプイッと顔をそらす。
それを見たアッシュは、抑えたムカムカが再び込み上がってくる。
「いや、じゃないさ! いいから早く取ってくれ! さもないとベルルが!」
「ベル、ル? うん、アレなら閉じ込めた」
「と、閉じ込めた⁉」
「うん。悪魔は邪魔、だから閉じ込めた」
ヘルナは言う。
アッシュの身体にクロスオーブを入れたのは良い。
ところが、中に悪魔がいると何かと都合が悪いため、神の力を持って封印したそうだ。
悪魔と聞いて、アッシュの目は丸くなる。
「悪魔を知って……封印? ってことはベルルは無事なのか?」
「うん、無事」
邪魔だったからとりあえず封印しただけなので、別に消滅させるまではやっていない。
いくら神様と言えど、今は元神様。
悪魔を消滅させるほどの力はないそうだ。
……あの程度なら頑張れば出来るが。
「はあ~、なんだ……良かったさ~……」
それを聞いたアッシュは肩から抜け落ちた。
クロスオーブが身体に入ったせいで、神と悪魔の反発作用的なモノが働き、貧弱なベルルが消滅してしまったのではないかと焦っていた。
でもそれは違うみたいでホッとする。
ベルルには少し気の毒ではあるが。
「どうして悪魔を心配するのか分からない、だけど忠告する。悪魔に肩入れするのは良くない。絶対ダメ」
悪魔に魅入られてるのは非常に危険だ。
ご親切なことに、神の使いであるヘルナが注意してあげた。
「わかってるさ……はあ」
「うん、良い子」
その返答にヘルナは満足そうにうなづくも、
「……ってなに偉そうにしてるのさ! 元はと言えばお前のせいだろ!」
安心してすっかり忘れていた。
勝手にクロスオーブを入れられたのを思い出し、アッシュはまた蒸し返す。
「頼むから取ってくれ、ベルルがいないと困るのさ」
このままでは悪魔の左目が使えない。
それはアッシュにとって死活問題だった。
「イヤ」
しかし、ヘルナは首を振って頑なに応じようとしない。
「頼むさヘルナ!」
「っ! 名前を呼んでもイヤ」
「そんなっ……おいヘルナ! ヘルナ!」
「イ・ヤ」
この女は言うことを聞いた試しがない。
アッシュは怒りたいのを我慢して、必死に名前を呼び続ける。
今は彼女を説得させる以外、他に方法がなかった。
一方ヘルナはヘルナで、愛しのご主人様から何度も名前を呼んで貰えるため、イヤイヤとは言いながらも内面ではとても喜んでいた。
つまり逆効果であった。
「はあ、どうすればいいのさ……」
こんなに頼んでもダメなのか。
情けない話ではあるが、ベルルがいないとレクスと真っ当(?)に戦えない。
だから何として封印を解いて貰いたいところだ。
「はあ……」
こうなったらアレをやるしかない。
この女とするのは嫌だが仕方ない。
「くっ……」
やはり初めては思い人とが良かった。
なんて、意外にロマンチストなアッシュだが、もう背に腹は代えられない。
そう考えて、相手の顔をじっと見る。
「……?」
ヘルナはさぞ不思議そうにしている。
「そう言えばさ、前からしたがってたよな」
「……?」
「とぼけるなよ」
すると、アッシュはいきなりヘルナの両肩をガシッと掴まみ、そのまま顔の前に迫る。
「っ⁉︎」
突然のことでヘルナは身体がビクッと反応した。
「今からしてあげるさ。代わり約束しろよ、クロスオーブを外すってさ」
「はぅ……い、イヤ!」
ここまでされてもまだ首を横に振ろうとする。
もうやるしかない。
「くっ、一度きりだからな。こんなこと……」
14まで大事に大事に取っておいた初めてが、まさかヘルナとだなんて……。
アッシュは悔しそうに目を閉じて、ゆっくりと顔を近づけた。
「……っ⁉」
迫り来る好みのお顔。
ヘルナは目を閉じることができず、頬を赤くさせ、ただじっとするだけだ。
今までずっと拒否されて来たのに。
まさか向こうから来てくれるなんて……。
ご主人様の息が鼻をかすめる。
それだけでどうにかなりそう。
やがて、待ちに待った瞬間が訪れようとした時、
「……イヤ」
寸前でヘルナが顔をそらす。
「…………」
これでもダメなのか。
以前のヘルナなら間違いなく応じていたはずだ。
なのになぜだ。アッシュは分からなかった。
「あの人と、約束した」
ヘルナがボソッと呟く。
「約束?」
「うん、君を守ってくれって」
前の主との最初で最後の約束、だからできない。
これをやってしまうと君を守れない。
切なげにそう言った。
「あの人って……」
「うん、あの人」
ヘルナは目を閉じて、胸を押さえている。
あの人というのは勿論、前の主のことである。
名前は確か……そうだ、金=金──
「──嘘つくなよ、そんなわけないだろ」
あの極悪人が、死の間際にそんなことを頼むはずがない。
アッシュはモノの数秒で相手の嘘を見破ってみせた。名推理だ。
「…………」
ヘルナはお口をバッテンにして横に向いている。
バレた時の反応だ。
「なにそれっぽいこと言って誤魔化そうとしてるのさ」
ためらいもなく前の主を利用するこの女……。
この件であれだけ揉めたのにも関わらずだ。
アッシュは我慢の限界である。
「ああ分かったさ! ならこっちもとことんやってやるさ!」
こうなったら無理やりにでも外させてやる。
ヘルナが折れるまで何度だって──
バンッ!
「──はいストーップ! あなた達! 喧嘩は……あっ」
と、ここでまさかのプラス登場である。
クロスオーブの件で2人が揉めていると予想して、その仲裁にやった来たのだ。
「…………」
しかし、そこで見たのは、2人の男女が顔を間近にして見つめ合うという、非常にアレな光景だった。
「い、いや、これはその……」
男側が女の肩に触れている。
アッシュの方からしようとしたのは誰の目からも明らかだ。
「あっ、ああ、あ……」
確かに仲直りしろとは言ったが、これは仲良くなりすぎだ。
プラスは空いた口が塞がらない。
「どういうこと⁉︎ やっぱりアンタたちデキてたの⁉︎」
当然、こうなってしまう。
「違う! 誤解さ!」
「あら、一体どの口が言うのかしら? 今その子にキスしようとしてたじゃない⁉︎」
「そうだけど色々違う!」
「えっ、なに? これには深い訳があるって? あのねぇアンタ、それは浮気がバレた男の常套句よ! 分かってるの⁉︎」
「そんなこと誰も言ってない!」
この後、2時間ほど掛けてお姉さんを説得した。




