いつか時をきざむまで
6
「シーナはとても驚いたそうよ。その子がすっかり新しい先生に懐いてしまったものだから。あとから聞いたのだけど、ちょっと悔しくも思っていたみたい」
おだやかな調子で話し終えた女は、彼にいたずらっぽい顔を向け、少し首をかたむける。
耳のあたりで切りそろえた横髪がさらりときめの細やかな頬にこぼれかかった。
「いや、しかし……。悲劇、とはそういうことだったのですか。火事の話は聞き及んでおりましたが。フィン=ファム家の御息女がそのようなめに遭われてのことだったとは」
「そうね。あまり広くは知られていないと思うわ。別に隠しているわけではないのだけどね」
ホゥアンは深くうなずいた。
「なんにせよ隣国のことがなければ起こらなかった事態です。イェリスには恨みのひとつもお持ちになってもおかしくないような状況かと思いますが」
「ホゥアン儀礼官、あれは戦時だったの。いまは違う。終わらせることが必要なの。そのために来たのよ」
ホゥアンには、女の灰色の瞳がさっと色を濃くしたように思えた。
彼女はきっとこの双眸をもってして、大役と危険を引き受けると宮廷の狐狸たちを前に宣言したのだろう。
「閣下はお強い」
「ふふ、どうかしらね。もうわかったと思うけど、ちょっと、意地っ張りだし、ちょっと、わがままよ」
「小官はそれに何か申し上げられる立場ではありませんが。それで、そのヴィタリー氏はいまも……」
「いえ、いまリーファにはおられないわ。『時がくるまで』そう思って彼はフィン=ファムの家に潜むことに決めていたのだから」
そして、彼女は左手に包んでいる懐中時計のフタをするりと親指でなで、進まない文字盤の針を確かめてほほえんだ。
「時が、来るまで……ですか」
「もう少し、聞いてみる?」
「え、ええ……、大使のご負担でなければ」
彼女が目配せして差し出した手のひらを、ホゥアンはおそるおそるポンと開いた手でたたき、続きを促した。
◇
セピアは学習が進むにつれ、これまでのおてんばぶりをさかしまに勤勉な生徒になった。
ヴィタリーの伝えることをなにひとつ漏らさず拾おうと、男の目と手の動きを、灰色の双眸は熱心にみつめ続ける。
セピアの思いを伝える手段があるということ。
けれど、セピアの思うままにはさせないこと。
ヴィタリーがはっきりさせた事実とルールが、わがまま放題だった少女には新鮮に映ったのかも知れなかった。
中途失聴のセピアには、ある程度の音のイメージがあることも彼女の学習を助けた。国の言葉の文字音図を指文字でおぼえてしまうまで時間はかからなかった。
読む、書く、を少しずつ、確かに。
ヴィタリーの導きで少女は「言葉」を幼い手にとらえていったのだ。
平易な文章で書かれたあの青い本をついに読み通した時には、セピアはよろこびのあまりヴィタリーに飛びつき、痩せた頬にキスをした。
ヴィタリーはずいぶん困ったような顔をしていたが、家庭教師というにはどこか無骨な手でセピアの頭を撫でた。
「セピア、キミはよく頑張った。かんたんなことではなかった」
称賛とともにあたえられた手のひらはこの上なく心地良かった。
これにすっかり味をしめたセピアは、なにかよいことを成し遂げたと思う時にはヴィタリーに向けてグイ、と小さな頭を差し出しすこともしばしばになり、ときにヴィタリーの苦笑をさそった。
苦い笑みでさえ、セピアにはただうれしかった。
「屋敷の使用人たちに、いくつか覚えてほしいことがあります。シーナさん、機会を作ってもらえますか。あまりむずかしいことはない」
勉強部屋に内カギがかかることがなくなると、屋敷中の女中たちにもヴィタリーは学習を促した。
そして、いくつもルールを作った。
セピアの前で顔を伏せない。
セピアの前でしゃべり方を変えたりしない。
「ゆっくりしゃべると、普段の口の形から変わってしまいますから」
ヴィタリーの口の動きをそばで見つめていたセピアは、意味を読み取ると何度も深くうなずいて女中たちを見つめた。
口唇から音を読み取るのもずいぶん上手になってきていた。
指文字から次に手話や口話を学び、少女の瞳には確かな知性が宿りはじめる。
野生児とさえ陰口を叩かれたセピアと、意思疎通ができるようになることは、屋敷中の空気をこれまでになく明るくしたようだった。
『おはよう、みんな』
ある朝、女中たちが別邸のホールに集められた時のことを、セピアはよく覚えている。
あらかじめヴィタリーから教えられていたサインを幼い主人がちいさな手でかたどるのを目の当たりにすると、使用人たちの間には、はじけるような歓声があふれた。
中には感極まって、目頭を押さえるものもいた。
誇らしげなセピアが、うれしそうにかたわらのヴィタリーを見上げる。
そっと頭に乗せられた温かな手に、少女の両手がパチンと軽やかに打ち当てられた。
「ふぃあいー」
毎日、その日の区切りまで学習を終えると、セピアはヴィタリーの手を取り、彼だけに聞こえるよう、ちいさく声を出す。
庭に行こうと指を差す。
ちいさな少女に手を引かれ、ストライドをセピアに合わせヴィタリーは歩く。
そんな姿が屋敷の至る所で見られるようになった。
互いの名を呼び交わし、指先を合わせてなにかを伝え合い、セピアが笑い声をあげる。
「お嬢さま、お変わりになったわ。あんなにも、楽しそうに。本当にヴィタリー様のおかげね」
おっかなびっくり、あるいはどちらかと言えば批判的に彼らを観察していた誰もが次々に賛辞を口にしはじめる。
少女からの信頼が、ヴィタリーの立ち位置を確かにした。
「ふぃあいー……」
それから一年半ほどの間に、セピアはフィン=ファムの息女として必要な知識を、惜しみなくヴィタリーから教えこまれた。
リーファ・イェリス二国の事情に通じたヴィタリーはこの点でも優秀な教師で、勉学や行儀作法、ダンスや音楽さえ、ヴィタリーにこなせないものはないようにさえ思えた。
やかましやのシーナさえ、さすがに目を丸くしたほどだ。
このころには苦戦していたセピアの口話にも少しずつ、上達の兆しがではじめた。
「ビィ、アリー」
「セピア、いい発音だ。もう少しだ」
ヴィタリーが手話で褒めると、セピアはパッと顔を輝かせる。
明瞭とは言いがたく、まだ人前での発話には抵抗があったが、セピアはヴィタリーの前ではおしゃべりな生徒だった。
◇
このころセピアには、どうしても手に入れたいものがあった。
初めて読み通した、隣の国の絵物語。
ヴィタリーの大切なあの本。
休憩時間のハイドゥンシークの最中、うしろを気にしながらヴィタリーの部屋に忍び込んだセピアは、窓際の寝台の脇机に青い本を見つけ、それを抱えて寝台を背にしてしゃがみこんだ。戸口からもここなら見えない。
セピアは本を満足げに眺めた。
どうしても欲しくて頼んでも、ヴィタリーはこれを譲ってはくれない。
『青い絵本』
小さな手のひらで伝える切望にいつもヴィタリーは首を横にふる。
けれど、かなえられないと知っていて、甘えてヴィタリーにねだるのが常だ。
それでもよかったからだ。
ちょっと困ったようにダメだといわれるのだってうれしかった。
困らせても、泣いても、ヴィタリーは変わらない。
それがどんなにセピアにとってうれしいことか、ヴィタリーは知らないに決まっていた。
セピアはそっと首をのばし戸口をうかがった。人の気配はまだない。
ならば、ヴィタリーが見つけにくるまで本を見ていようと、機嫌よく手をかける。
すると、本の右上の金色の金具が外れかかっているのに気づいた。
指先で押しやると、ポロリと取れる。
セピアはハッとした。
ピタリと合わさっているように見えた表紙は、二枚に別れたからだ。その上、中には、紙の角が茶色くなった封筒が挟み込まれていた。
手紙だろうか。
胸がどくどくと脈打つのがわかった。
『セピア、この本は私の大切なものだ。だから、あげられない。わかってほしい』
せがむセピアにヴィタリーはいつだったか、とても苦しげな顔をした。
これは、きっと「秘密」だ。
セピアは直感した。
ぞっと背を走った恐怖に駆られ、急きたてられるようにセピアは金細工の金具をはめなおす。ひどく胸が走っていた。
この手紙をセピアが知ったと、きっとヴィタリーに、知られてはならない。
ホッと息をついた瞬間。
ポン、と肩を叩いた手に、セピアは飛び上がるほど驚いた。
「セピア、ここにいたのか。さぁ、勉強にもどろう」
本を抱えて、どこかこわごわとうなずく生徒をヴィタリーは笑った。
「またその本か」
『イェリス、のものに……興味が、ある、から』
たどたどしくセピアがしぼりだした言いわけを、ヴィタリーは信じてくれたようだった。
「そうか。前も言ったようにそれは譲ってあげられないが……。別のものをあげよう。よく勉強もがんばっているしな」
セピアの後ろめたさを落胆と取りちがえたまま、ヴィタリーはチェストの一番上の引き出しから何かを取り出し、右手に包んでかくしたまま、セピアにそれを差し出した。
「これを、セピアにあげよう。これは……そうだな。むかし身分ある人から賜り、私の家に伝わったものだ。イェリスの時計だよ。フタの模様にも意味がある。あとで、調べ方を教えよう」
ヴィタリーから渡されたのは、銀の懐中時計だった。
フタには動物や植物の複雑な模様が彫金されて、よく手入れされすみまで輝いている。
セピアは目を輝かせてちいさな手には少し大きい時計を、大切そうにどこかこわごわと眺めまわす。
フタを開けて、じっと黒い針を見守ったが、あることに気がついて、ヴィタリーを不思議そうに見上げた。
「ああ、この時計は動かない。この家に来た日に止まってしまった。でも壊れてしまったわけではない」
『先生、どういうこと?』
「動かすにはイェリスの特別な鉱石が必要なんだ。いまこの国では手に入らない。つまりいつか、隣国の……私の国とセピアの国が再び親しく交わることができるようになれば、動く」
手の言葉を読み取り、目をまん丸にしておどろくセピアに、ヴィタリーは言った。
「君がいま、広く深く学ぶことは、そこに至る道を探ることに通じている。君はそういう家に生まれついた」
『私が?』
「そう。君の名にもご両親の祈りが込められている」
『名前?』
「いまは使われない、私の国の古い言葉だ。セピアとは『はばたき』そして『架け橋』、そんな意味を持つ」
『初めて知った。セピアに、それが、できる?』
「そう信じている」
ヴィタリーは穏やかに話したが、そのやさしさはどこかセピアの胸をチクリと刺した。
『でも、そうなったら、ヴィタリー先生は隣の国に、帰ってしまうの?』
「どうかな」
『ここにいて』
「いるよ。心配ない。さぁ、勉強にもどるよ、セピア」
いつまでも、とは言わないヴィタリーに、セピアは気づいていた。
でも、だから――。
その時計をいつか必ず動すと、少女は誓った。
それが自分にできるのなら、と。