ヒナギクの花
5
聴き終わるとホゥアンは眉を寄せていた。
「都合がよかった、とは。ずいぶん不穏ではありませんか?」
「そうね、都合が明らかになるのはもう少し先。エリストラートフ侯がおつきになるまでに終わると思うけれど」
二人の前には、いつの間にかちいさな机が準備されていて、リーファ名産の濃い緑の茶がそれぞれに供されていた。
ホゥアンはひと口茶をすすると言った。
「こんな半端なところで終わられてはたまりませんな。どうか続きを」
「そうこなくちゃ。私もひとりでじっと待っているのはすこし退屈だから。その女の子はすっかり先生に懐いてしまってね。どこに行くにも先生を伴って、庭で遊んだり近くの小川までピクニックしたり、それからしばらくが、とても。ええ、女の子にとってとても幸せな時間だったのよ」
もの思うように、女は窓の外に目を向けた。
◇
シーナは思いに耽っていた。
あの異国の家庭教師は、幸いにしてまだ暇を申し出ることもなくセピアの教師を努めている。
さるやんごとない家からの紹介状を持って現れたヴィタリー・オゼロフという男は西の隣国からの亡命者だという。
遠縁に当たるリーファの名家からの紹介を取りつけ、フィン=ファム邸に流れ着いたらしかった。
「遠縁といったって、どれほどの縁者かはわかりはしないけれど。まぁ、紹介状を持たせるぐらいだからただの平民ではないのでしょうが」
先ごろの政変で、前王の失脚後いまや内戦状態の隣国だ。
いろんな事情に明るくとも、使用人でしかないシーナには知るよしもない事情もあるのだろう。
シーナは、焼け落ちたままの本邸を見上げた。
いまのフィン=ファム家には、この屋敷のカタをつける力さえない。
シーナは風に乱れた後れ毛を耳にかけた。
ふたつの屋敷の間にある干し場に、リネンや衣服がはためいている。
東西の人と文化を混じらせて強国となったリーファは建物に西の風合いが強く、逆に衣服は東の影響が色濃い。
腰結いの紐のついたヒダのある下衣に、立ち襟のついた袖広の上着を合わせ、サッシュで色を差す独特の衣服はこの国でしか見られないものだ。
「ともかくあのむつかしい癇癪をおさめてくださったのにだけは、感謝しなくてはね。お嬢様が、宮廷に参内できるようになればと思うのは出過ぎているけれど……。亡きご夫妻の夢、叶う望みがあるのなら、私はまだ、ここでやるべきことがあるわ」
シーナは今も消えぬ悔しさを胸に、目を伏せた。
二年前、本邸は火事に見舞われた。
そのほんの二日後には、停戦条約が結ばれいまにつながるおだやかな世が訪れたというのに。
敵国イェリスのしたことだという向きもあれば、親イェリス派で当時の王と親交のあったフィン=ファム家を恨む勢力の仕業だったとも言われ、その犯人は公式に定まってはいない。
『戦はおわると陛下はおっしゃったわ。ねえ、あなた。よろこばしいことね。セピアが大人になるころには、きっと両方の国が手を携えて、よりよい関係を作っているでしょう』
幼い娘を抱き、当主夫妻がほほえみを交わし合っていた夜を、シーナはよくおぼえている。
母親の腕の中で寝ぐずっている娘を抱き上げて、当主は言った。
『セピア、君の名にふさわしい世がくるよ』
幸せな夜。そのさなか射込まれた矢と油が、美しいフィン=ファムの館をまたたくまに炎に包んだ。
火はなめるように古い屋敷を飲み込んでゆき、悲痛な叫びがあちこちで響いた。
『どうか、神様。娘を、お守りください――』
セピアは生き延びた。
夜を焦がし燃えさかる本邸の二階の窓から、当主夫妻の手で外へ放り出されたのだ。
頭を打ち生死をさまよったセピアは、目覚めたときには両親と聴力を失っていた。
幼いセピアに最後に刻まれた両親の記憶は、炎に包まれ死にゆく姿だ。
黄土色の積みレンガの美しかった本邸は、いまだ業火の爪痕が刻まれたまま、とりこわされることもなくツタが這う。
あれからセピアは変わった。
変わってしまった。少女の心は、あのときに閉ざされてしまった。
そう、シーナは思っている。
「シーナさま!」
「あら、リシュ、いま考えごとをしていたのよ。あ、もしやセピアさまがなにか」
めずらしいほどの静かな日々に胸をなで下ろしていたが――。
サッと顔色を変えた女中頭に、リシュは抱えていた果物のカゴをぐいっと突き出した。
白いヒナギクが二輪、ほそいリボンで束ねられて真っ赤なリンゴの上にそっと置かれている。
「これ、いただいたんです!」
「誰から……、屋敷内での恋愛沙汰は歓迎しませんよ」
「お嬢さまからです」
「え?」
「お嬢さまが、くださったんです」
「まさか、どんな気まぐれ――」
「にこってお笑いに」
「まあ!」
「いえ、あの……、ほら! シーナさま!」
リシュは長身のシーナに隠れるようにして身を縮めると、彼女の向こうをのぞきみるようにして指を差した。
「指をさすなんてはしたない!」
目くじらをたてつつも、シーナがいぶかしげに振り返る。
瞠目するほかなかった。
そこにはただ穏やかな時間が流れていた。
あの事件以降、本邸に近寄ることをしなかったセピアが、おびえることも怒り出すこともなくあの男と歩いている。
やわらかな日差しが朽ちたフィン=ファム邸の庭にあふれ、すきとおって金色に広がっていた。
少女の頭には白い花を編んだ花かんむりがのせられている。
セピアはすこしうしろを歩いていたヴィタリーに甘えるように手を差し出す。
ヴィタリーは何事かを手話で彼女に伝えると、少女を自分の左肩に腰掛けさせて抱き上げる。
はじけるようなセピアの笑い声が響いた。
セピアは目隠しするように男の頭を抱くと、その銀色の髪の上に自分の頭に戴いていた冠をそっと乗せる。
ヴィタリーは苦い顔をしていたが、シーナにはその顔に浮かぶものが嫌悪でないことを読み取ることができた。
手入れが足りず、背の低い野の花のあふれる庭をふたりが歩く。
セピアは忙しなくあちこちに指をさし、時にはシーナにはわからない仕草であれこれと何かをヴィタリーに教えているようだった。
「ま、……」
「魔法みたいでしょう! とんでもない方ですよヴィタリーさまは」
この二年、家庭教師がひと月と続いたことはない。
そのたびにあちこちに募り、こいねがって新しい教師を迎えることが続いていたのだ。
『まるで野生児ですよ。学ぶ意思がまるでない! これ以上は時間のムダです!』
女性も男性も等しくセピアには手を焼いた。
荷物をまとめた家庭教師たちがそろって吐き捨ててゆく台詞に、シーナはなんど悔しい思いを抱いたかしれない。
フィン=ファムの当主夫妻がいたころ、セピアはやさしく利発で、屋敷に咲く可憐な花のような幼な子だった。
あの火事ですっかり変わってはしまったけれど。
「ああ、う。あっ!」
花かんむりを手に、セピアが声を立てて笑う。
彼女に昔、亡き母がかぶせたヒナギクの花かんむりを、きっとセピアは覚えていたのだ――。
久方ぶりに目にしたあのころあったおだやかな時間。
彼らがシーナの姿に気づかずいなくなるまで、彼女はじっと独りみつめ続けた。