嵐の夜のひとりとふたり
4
「本当に素敵な本だったのよ。ひとめで心を奪われてしまった。とても気に入って何度か欲しいとお願いしたのだけど、先生は譲ってくださらなかった。大切なものだったの」
空色の幅広い袖で口元を覆って女はふふ、と声をたてて笑った。
「なるほど、確かに我が国の古話に、おっしゃるような物語は聞いたことがありませんな」
首を捻りながら聞いていたホゥアンは、似た話を思い出すのを諦めて少し肩をすくめた。イェリスにあるものがリーファにないとは思ってもみなかった、とでもいいたげだ。
「そうでしょう? めずらしくて、うつくしくて――。ひとつ言葉を覚えるごとに、すこしずつ物語がわかるようになるのが、とてもうれしかった。それからはね、その女の子、一生懸命に勉強することにしたみたい。ひとつひとつ言葉を知りながら、気づいたの。読むことができれば、自分の世界を広げることができるって。伝えることができるならもっと、って。それを教えてくれた人を、ちょっと信じてみようと思ったのよ」
ホゥアンはわけしり顔でうなずく。
「子どもに自ら学ぶ気を起こさせるのは難しいものです。ずいぶん優秀な教師だったようですな」
「そう、先生はとても熱心に教えてくれたわ。ちいさな女の子がどういうことに興味を持つのか、多分懸命に考えたのだと思う。結構必死にね。だって先生は、先生をするのが、その時初めてだったのだから」
ホゥアンの反応を既に予想して、女の口元は笑みをかたどっていた。
「なんと、はじめて……、ですか」
「そうよ。まだ、イェリスの到着の報せはないようね。もう少し続きを話しましょう。周りくどく話してしまってごめんなさい。私の悪いクセよ。時計の話まで行き着くかしらね?」
「構いませんとも、聞くのがわたしめでよろしければ」
「ありがとう、ホゥアン儀礼官。――さて、ある日。その女の子は、とても怖い夢を見ました。先生とすっかり打ち解けたのはこの時だったのではないかと思うわ」
◇
ヴィタリーがフィン=ファムの館にきて数ヶ月。
嵐のように風の強い夜だった。
半木造の別邸は大風が吹くと時に揺れを感じるほどだ。
寝支度を済ませたヴィタリーはランプをつけたまま、青い絵本を手に寝台に背を預けていた。
薄く文字が読める程度の明るさの中に、赤く紙巻きタバコの火がぽつりとともる。
煙をひとすじ吐き出して、ヴィタリーは己の生国由来らしい厚いガラスの灰皿にまだ長いタバコを押しつけた。
ヴィタリーは絵本の表紙をするりとなで、隅の金の留め具をはずした。
絵本の表紙はぱっくりと割れ、中には変色しかかった封筒がひそかに綴じ込まれていた。
手に取った手紙を開くこともなくヴィタリーは苦々しげに見つめた。
繰り返し読んだ書面はヴィタリーの鎖だ。
書簡をもとのとおりにしまい、絵本をサイドテーブルに置く。
タバコを消すとずるずると寝台に沈み、薄青の瞳はビロードの覆いに金糸の縁取りと房飾りのついた天蓋をじっと見た。
異国で眺める天井は何年目だろう。
いつ役立つのかわからぬ書簡を読み返すのも――。
祖国はたおれ、ヴィタリーの帰るべき家も家族もいまはない。
それなのに背負いつづける紙一枚の重さに、ヴィタリーはひとり深く息をついた。
コンコンとノックの音がした。
日付がかわるころだ。
いぶかしみ答えずにいると、もう一度同じ音でノックが鳴った。
ヴィタリーは身を起こした。
「誰だ、なにかあったのか」
だが、声は返らない。代わりに、なにかが扉によりかかったようなちいさな軋みが聞こえた。
ヴィタリーは声の主を悟った。
おそらく灰色の目の子猫が白い頬を扉に押しつけているのだろう。
小さく肩をすくめ、ヴィタリーはベッドにずるずると沈み、指を組んだ。
真鍮のノブがゆっくりと回る。ちいさな足音が部屋の中に忍び入る。
現れたのは、セピアだった。
枕を抱えた彼女はたよりない足取りでヴィタリーの寝台に近寄ると、家庭教師が静かに目を閉じているのをじっと眺めた。
明かりはまだ点いている。
「ふぃ、あいー」
ちいさな声がヴィタリーを呼ぶ。
反応がないのを見ると幼い手は、そっとヴィタリーの銀色の髪に触れようと手を伸ばす。セピアはこの銀の髪好きだ。起きている時はさわれないけれど、眠っているならセピアにだって手が届く。チャンスだ。
しかし、ちょっとした冒険はすぐに終わった。
指先が届く前に、ヴィタリーが少女の手をとらえると、セピアは「あっ」と声をあげた。
待ち構えていたように起き上がった家庭教師は、厳しい顔で生徒を迎えた。
「セピア、勝手に人の部屋に入ってはいけない」
叱られていることを理解し、セピアは一瞬瞳を曇らせたが反発をあらわに宿した。
ヴィタリーは握ったこぶしで「ノー」と敷布を叩くが、セピアは猛然とヴィタリーのベッドに乗り上がった。
両手を合わせ、耳の横に当ててコトリと首を倒す。
近ごろおぼえ始めた手話を使い「ここで寝る」と少女は主張した。
ヴィタリーは「ダメだ」とくりかえしたが、少女が白い房飾りのある枕を抱え、本気でこの部屋で眠る気で準備してきたと知り、ずいぶん困っているようだった。
セピアはヴィタリーの枕を少しよけ、自分の枕を並べる。叩いて整えていると、風がまたゴウと音を立て、屋敷を揺らす。
背筋をのぼる恐怖に少女は震え、寝具の中に急いで入り込んだ。
ヴィタリーの横に陣取るように座ると、何度かヴィタリーの腕を叩く。
「ふぃあいーぇんえ」
ひどく拒まれはしないが、受け入れられているわけでもないらしいとセピアはわかっていた。
セピアは語りかけ、灰色の瞳を上向けて、薄青の彼の視線をじっと待ちわびた。
ひとときしてヴィタリーが諦めたように嘆息してセピアを見ると、少女はさっそく使い慣れはじめた指文字で、ひとつずつ単語をつづった。
ヴィタリーの手を自分の膝の上に引き寄せ、ちいさな手がひらひらと花のつぼみのように開いて閉じてを繰り返す。
『こわい、夢』
「こわい夢をみたのか、ならばシーナを……」
ヴィタリーの口元からシーナの名を読み取ったセピアは頭を強くうち振り、こぶしでポンとシーツをたたく。
ヴィタリーはいよいよため息をついた。
「困ったな。セピア、なにか話したいことが?」
『風、火』
「風が、怖いのか? 火……」
『父、母』
そしてセピアは最後に『死』とヴィタリーの手に言葉を結ぶ。
綴られる文字が単語を作るたびに、ヴィタリーの瞳に戸惑いとあるいは憐憫に近い色が浮かんだ。
ヴィタリーは、時に彼を囲むかしましい女中たちのさえずりから事実を拾い、かつてフィン=ファムの家に起きた悲劇をこの時には知っていたという。
伸びてきたヴィタリーの手を、セピアは振り払わなかった。
大人の手が少女の心細さを拭い去るように、慈しむようにひとなでする。
「そうか」
ここに、そうしてただうなずくだけのヴィタリーがいてくれることが、セピアにとってたまらなくうれしかったことを、きっとヴィタリーは知らない。
セピアの話を聞いてくれる人がいる。
いつもならシーナの部屋に飛び込み、ひとしきり騒いで泣いて困らせるだけだった夜だ。
どうしようもなくて、苦しくて怖くて――。
けれど。
セピアはうなずき、もうひとつ言葉をつづった。
『ひとり』
ヴィタリーは薄青の双眸を細め、物思うようにかたわらに置いていた青い絵本に手をかけた。
布張りの表紙を撫で、そしてその手をもう一度、セピアの頭にそっと乗せた。
「――いっしょだよ、セピア」
『?』
父、母、死。
ヴィタリーはセピアの手に彼女と同じことばを描いた。
それに続けるように、妻、娘、仲間と。
「ちょうど、同じぐらいの年か……。いや、余計なことだな」
セピアの目がこぼれおちそうなほど見開かれる。
少女は頭の上のヴィタリーの手を取るとぎゅっと頬をおしつける。
ひんやりとした手が、かすかに緊張したのを感じた。
そしてまたその手を引き寄せ、自分の指を走らせた。
『ひとり』
「そうだな、私も、ひとりだ」
ヴィタリーが言うと、セピアは大きく首を打ち振った。
ひとさし指で、自分の胸とヴィタリーを指す。
『ふたり』
どこか誇らしげにさえみえた仕草に、男はかすかに頬をゆるめた。
「そうだな、ふたり、いる」
ヴィタリーは、セピアの枕をたたいた。
「さぁ、もうやすみなさい。ここで寝て構わない」
ひらいた手で伝えられた了承に、セピアは安心したように笑った。
秘密の仲間ができたような心持ちは、大嫌いな風の吹く夜さえ、特別なものに変えてくれたような気がした。
とたんにまぶたが重くなる。日付はもうとうに変わっていて、まどろみにとろけかけた灰色の瞳は、夢の世界に旅立ちたがっている。
セピアは、ヴィタリーの脇にぴたりとよりそうようにちいさな身体を押し当て、やがて安心したようにちいさな寝息を立てはじめた。
この時ヴィタリーが何を思ったのかはセピアには知る由もない。
あるいは、いつもそばにあったあの青い本だけは知っていたのかもしれない。
このときから、ヴィタリーの得たセピアの信頼は完全になった。
フィン=ファムの家は、ヴィタリーにとってひとときの安住の地になりえた。
傾きかかった人少ななかつての名家は、いまや世人の興味の対象ではなく、目の届きにくい格好の隠れ家だったからだ。
聾唖の少女の家庭教師はヴィタリーにとって、どこよりも都合が良かった。