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青い絵本の扉はひらく

  3


「そのときのやりとりは、実は半分ぐらいは私の想像なのだけど。多分そんな風に言っていたのでしょう。少なくとも彼女はね、そう、感じたのよ」


 区切りまで聞き終えると、ホゥアンは引き結んでいた薄い唇をほどき、驚きをごまかすように白髪に手をやった。


「すっかり聞き入ってしまいましたよ。閣下は語り部の才能もおありだ」

「あら! ありがとう。思ったより流暢に話すから驚いたのでしょう?」

「それは……まぁ。しかし、こんな経緯いきさつがあったとはついぞ――」


 その時、リーファ側のホールの戸を叩く音が高く響いた。

 ホゥアンがすぐに許しを与えると、襟章をつけた年若い騎兵がひとり飛び込んできた。


「特務儀礼官どの! これは、大使閣下も……!」


 若い騎兵があわててヒザを折って礼を示すと、女は続きを促すように軽くうなずく。

 ホゥアンが軽く咳払いした。


「騒々しいな、状況が分かったか」

「はい、ホゥアンさま。イェリスの伝令が参りました。おりからの大雨で川が暴れ、道中、橋が一本流されたとのこと。使節団の迂回のため到着までかなり時間がかかるようです」


 直立不動の若者の淀みない報告を、険しい顔でじっとみつめていた彼女は、ほっと顔を綻ばせた。


「そう。事故でないのならよかった。イェリスの使者は、まさかその川を越えてきたの? よく労いなさい。道を聞き、こちらからも伝令を出すのです。リーファは、いつまでも待つと。エリストラートフ侯に、伝えるよういいなさい」


 女のはっきりとした口ぶりに、若い騎兵は驚きとともにさらに背筋を伸ばし、深く頭を垂れて了承を示す。

 命を伝えるべく足早に彼が去ると、老儀礼官は感心したようにつぶやいた。


「大使は寛大でいらっしゃる。それを聞けば、エリストラートフもさぞや安心することでしょう」

「十五年待ったこの時を、たかだか橋一本に遮らせるわけにはいきませんから」


 言い切った彼女をどこか面白そうにみつめながら、ホゥアンはそっと己のアゴに手を当てた。


「察するに大使閣下には、この講和にひとかたならぬ思い入れがあるのですね。先ほどの昔話も、なにかわけがあってお話になったと承知しましたが、いかに? 少女は、すぐにそのヴィタリー・オゼロフという家庭教師と打ち解けたのでしょうか」

「ふふ、もう飽きちゃったかと思ったわ。続きを聞くのね? その時の女の子はね。ヴィタリー先生は、銀色の狼みたいに怖かったって。おてんば娘の名にかけて、そう簡単に、仲良くなんてなってやるもんかって、でもね――」


   ◇


 セピアは、じっくりと男を観察していた。

 あの銀色の髪の男はヴィタリーという名らしい。

 異国人だ。


「セピア、着替えてきなさい」


 水と土をぶちまけたひと悶着ののち、けわしい顔で指示されたセピアだったが、なにくわぬ顔で寝間着のままさっさと逃げ出し勉強部屋には戻りもしなかった。

 男が自分を捜し回るのを、絶対見つけられないところから楽しく眺める一日は気分がよく、セピアは満足だった。

 

 その翌日。

 ヴィタリーは昨日のことを叱るでもなく、勉強部屋の内カギをかけ、赤銅色のカギを胸の隠し(ポケット)にしまうと、あとはセピアを自由にさせた。

 そして自分は白いクロスを掛けたテーブルについて、ひとり本を広げた。

 セピアはぷいっとそっぽを向いてしばらくは窓から外を眺めたり、リシュやレィアが手をかけている室内咲きの花をむしったりしていたが、やがてすっかり飽きてカギのかかったドアをガチャガチャと回しはじめた。

 手に伝わる振動は、セピアにとっては刺激になって楽しい。

 セピアがなにをしても岩のように動かない男を振り返るが、彼はチラリともこちらを見ない。

 少女はムッと頬を赤くして、ドアを蹴りつけはじめた。

 扉の震えが足先に伝わる。

 外に居た女中は驚いたのだろう。せわしないノックが返ってきた。


「ヴィタリー先生、なにか問題が? お嬢さまは――」

「問題ない。カギを開けないで」


 それからしばらくセピアの抵抗は続いたが、ついに諦めて少女はその場に座り込んだ。扉を相手に遊ぶのもむなしいものだ。

 もういちどヴィタリーを振り返る。

 長い足を組み、窓辺で本を読む男の姿は、昔本邸にいた頃にかかっていた大きな絵のようだ。

 彼の銀色の髪は、時に晴れた日の雪のように光ってちょっとセピアをドキドキさせた。

 セピアも窓ぎわに近寄り、薄い金色の自分の髪を、ひとふさつまんで光にすかす。やはり、ずいぶん違う。

 チラリと男をうかがう。

 こんなにセピアが勝手にしていても、男はこちらを見ることもなく、ゆっくりと手にしていた本をめくっている。

 セピアはそっと彼の手元をのぞき込む。

 大判の本のようだった。

 表紙には目のさめるような青い布が張られ、縁は金細工の金具で留められている。

 セピアはハッとする。

 厚い表紙の中央には、彩色した象牙細工の薄い板がはめ込まれていた。

 ハチミツ色の髪をした伏し目がちの姫君が精緻に彫られ、その姿を縁取るように表紙には花や蝶の刺繍までほどこしてあるようだった。

 すこしさみしげにみえたお姫さまが気にかかり、セピアは本をもう少し見てみたくなった。

 一心に本に目を落としている新しい家庭教師の袖をそっと引く。

 昨日、セピアをじっと見つめた薄青の視線が静かにおりてきた。


「セピア、なにか?」

 

 セピアは彼が持つ本を指さした。

 ヴィタリーは本を閉じて置くと、セピアに椅子に座るように促した。

 大嫌いな勉強机だがいたしかたない。

 しぶしぶ座った少女の前に本が置かれた。

 思った通り、すばらしい装丁だ。

 セピアは胸に期待の息を吸い、おそるおそる厚い表紙に手をかける。

 けれど、こんな凝った作りのものははじめてだった。

 表紙の姫君の服装からしても別の国のものだろう。

 ヴィタリーの国の物語だろうか。

 遠くから見たときにはわからなかった手擦れやほつれが、この本が長く大切にされてきたものだと教えている。セピアは表紙の象牙細工をめずらしそうに指でたどる。

 けれど、刺繍されたカリグラフィーのタイトルは、文字のわからないセピアには読むことができない。

 戸惑いとともに胸の奥に湧き上がったストレスがセピアを不機嫌にした。

 本を投げつけたい衝動に駆られ、灰色の瞳が癇癪の熱を宿す。

 

「子ども向けの本だ、見てみるといい」


 だが、ヴィタリーは少女の動揺を気に留めず、力のこもりかけたちいさな手を、本の表紙に導いた。

 セピアは一度ヴィタリーをにらんだが、誘いかけるような本の魅力に負け、こわごわとはじまりのページを開く。

 セピアは、アッシュグレーの瞳を揺らがせた。

 そして、ちいさな手のひらで愛しそうに絵をなぜる。

 それは古い城で暮らす王と王妃が、産まれたばかりの赤子を愛しげに抱き、みつめている絵姿だった。

 古い城はいまも焼け落ちたままのフィン=ファム本邸にもどこか似ている。

 輝くような彩色絵に長いこと見とれていたセピアは、トン、と肩をたたかれハッと我に返る。

 男を一度にらみあげてから次のページをめくると、またあざやかな絵物語が少女の目の前に広がった。

 どうやら城に産まれたのは女の子で、やがておてんばな姫君に育ち、屋敷を飛び出して世界中を冒険して回るようだった。

 中庭に虹の橋のある宮殿や、尾に花の咲く鳥の居る島。

 おそろしい黒い竜のいる空の上にさえ、ちいさな姫君はおそれることなくむかって行くのだ。

 美しい絵の左側には、ページいっぱいに言葉が書き連ねてある。

 なんと、書いてあるのだろう。

 セピアは、ヴィタリーを見あげた。少女の瞳に宿るいらだちは美しい絵に洗われて凪いでいた。

 ただ静かに、知らないことを求める幼女のまっすぐなまなざしだった。

 

「セピア・フィン=ファム」


 ヴィタリーのかたどった己の名に、少女はちいさくうなずいた。

 セピアは自分の名を、話者の口唇から読み取ることができる。

 そのほかにも、いくつかの単語は。

 セピアがそのほんのいくつかを目に刻むために、屋敷の住人たちを怒らせながら必死にみつめ続けたことを。

 男が気づいていると、このとき確信した。


「読んでみたくは?」


 ヴィタリーは右手で文字の連なりを指しながら、もう片方の手のひらをセピアに差し出した。

 セピアは彼の手を、自分のてのひらで強く叩いた。

 彼に教えられたように、了承・肯定の意思を伝えるために。強く。

 パチンと快活な音がした。 


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