必ず、と手のひらはいう
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「閣下、他人事のようにお話しですが、その少女というのは……。時計とも、どういう関係が」
ホゥアンは、流暢な語りが途切れると緊張を逃すように短く息を吐いた。
気難しい顔を緩めぬまま、腹のあたりで手を組む。
「そんなに急がないで。お話はゆっくり楽しむものよ」
新しく持って来させた椅子を二脚壁際によせ、ふたりは並んで腰をおろしていた。
女は途中、離席から戻った通訳に、控室に戻っているよう伝えるとホゥアンに向き直った。
「式典のときには戻ってきてもらうから、心配しないでね。でも、私とあなた、ふたりだけなら、こうしておしゃべりしても大丈夫でしょう?」
聞いていたより快活な気性に思える女の顔色は明るく、長い待ち時間を少しも苦にしている様子はない。
内緒話でも楽しんでいるかのような彼女に、ホゥアンはなかばあきれもしたが、しかたなく物語の続きを待った。
◇
セピア・フィン=ファムは名家に生まれた。
両親はすでにない。
世間が彼女について知っているのはそれくらいのものだ。
社交に出る歳でもなく、有力な後ろ盾さえいまはない。
幸い国の法律は彼女が財産を継ぐのを妨げはしなかったが、過分に手を差し伸べることもしなかった。
やがて六つになる彼女のことを、あわれな孤児だという人もいる。
長く続いたリーファのフィン=ファム家もこれでしまいだと嘆く人もいた。
数年前の事件を機に、セピアたちの生活の本拠が本邸から別邸に引き移ると。
華やかだったフィン=ファムの家の使用人たちもひとりふたり……櫛の歯が欠けるように去ってゆき、いまはセピアの住まう別邸をようやく維持出来る程度の人員が残るのみだ。
人手の不足を埋めるため、古参女中のシーナが家令の役割まで背負って、屋敷を束ねている。
当の少女セピアは、灰色の瞳を燃え立たせ、昨日来た怖い顔の男をじっと待ち構えていた。
また「あいつら」が来たのだ。
勉強部屋までの廊下を踏む靴のリズム。
女中たちよりも重たい振動。
セピアはドアに頬を当て、足音を体感で必死に捉えようとしていた。
少女の瞳は、やり場のないかたくなな怒りに満ちている。
屋敷の人間が自分に困り果てていることを少女は理解していた。けれど、彼女自身にさえ制御できない苛立ちが生来の穏やかさをどこかに閉じ込めてしまい、少女は広い自分の屋敷の中で野放図に生きるほか「手段」を持てなかった。
重い扉を叩く、ノックが頬に伝わる。
少女のためにつるされた来客を告げる鏡が、ちらちらと動いて光を投げた。
白い寝間着姿のままのセピアはドアが開く前にサッと扉の際まで飛びのき、準備していた水差しをグッとにぎって構え、その時を待つ。
一度、了承のノックを返す。
「おはよう、セピア。今日から──」
男の足が、ドアの隙間からのぞく。
現れた背の高い男に、セピアは水差しの水を勢いよくぶちまけた。
男がひるんだ隙に、用意していた鉢植えの土を投げつけてまき散らす。
男の衣服は濡れ、汚れ、無残なありさまだ。
セピアは薄い灰色の瞳に、燃えるような怒りを込めて男をにらみつける。
銀色の髪の男だ。キレイで、怖い顔をしていると思った。セピアのふるまいに怒り狂うに違いなかった。
いままでの「あいつら」はそうだった。
はじめはへらへら笑っていても、すぐにまるで化物を見るような目をセピアに向ける。
悪くすればぶたれるかもしれなかった。けれど、そうなれば好都合だ。腫れた頬を見せればシーナがすぐに追い出してくれるだろう。
男は足下のセピアに視線を落とし、一度立ち止まった。
しかし、セピアの覚悟をよそに、彼はなにごとも起きなかったかのように部屋の中に入ってきた。
ひるんだと感じたのさえセピアの見間違いだとでもいうように。
後ずさるセピアの前に片ヒザをつき、肩をふるわせた少女の手を取った。
有無を言わせずに視線を合わせられる。
そして男は、常と変わらぬ口調ではっきりと言った。
「おはよう、セピア」
「うう……、うう」
「私はヴィタリー。今日から君の家庭教師だ」
「あああっ!!」
セピアは声を上げて身をよじったが、”怖い顔のきれいな男”は手をほどかない。
少女の手を握るのと反対の手で丸めたこぶしを作り、少女のちいさな手にコツリと当てた。
男はリーファの民のように頭を垂れたまま話すことはしなかった。
セピアを見つめ、セピアが理解できると信じて言葉を紡いでいた。
「ノー、セピア」
「うううっぃあ!」
全身の力を使って反抗する少女の握りしめた手に、自分のこぶしを押しあて、もう一度サインを送る。
「セピア、ノー」
セピアは彼の手つきの意味するところを知ったが、細い絹糸のような金髪を頑迷にふるふると打ち振った。
けれど、男が濡れて汚れた服を気にもかけず、握られた手が決して離されないの悟ると、やがて諦めてうらめしそうに彼を見た。
少女の透けるような金色の髪は乱れている。
か細い首元で切りそろえられた幼な髪は、大きな窓から注ぐ陽光をはじいてきらめいていた。
少女の母親ゆずりのノーブルなグレイの瞳は、自分を見つめる薄青の瞳をなおもにらみ返している。
「私が、君の先生だ」
「…………」
ピクリと少女が反応した。
セピアのかたく握られていた手がほどける。
ヴィタリーはそれを逃さず、耳の聞こえない幼い少女の手を導き、自分の口唇に触れさせた。
「ヴィタリー」
セピアは指先に伝わる振動を恐れるように、びくりと指を震わせた。
もうヴィタリーの手は少女の手に添えられてはいない。けれどセピアはヴィタリーの口唇に触れたまま、促すように幼い人差し指でもう一度彼の唇をたどった。
「ヴィタリー」
「……いあぃ」
いびつにノドをふるわせた少女が、その瞬間瞳に浮かべた深い哀しみの色を、その日まで屋敷の誰も知らなかった。
うまく発音できていないことは、わかっていた。
だから、この屋敷の中でだれもセピアの言うことを分かってくれないのだ。
もどかしさにセピアが癇癪を起こせば、使用人たちはなだめようと菓子や人形を手にセピアを押さえつける。シーナは呆れかえり、なにかしきりに説教するが、その意味はセピアにはわからない。
わからないのだ。
少女は肩を落としヴィタリーに触れていた手を、だらりと自分の横に垂らした。
ヴィタリーはその少女の手をもう一度取り、上向けた。
ちいさな手のひらに自分のひらいた手をあわせてポン、と。
セピアの身体に響くよう、軽く音を立てた。
「そう、ヴィタリー。セピア」
「えィ……」
セピアは言いかけて首を振り、うなだれる。
話すことは――、伝えることは――、セピアにはできない。
「目をふせないことだ」
ヴィタリーの指先は少女の幼いあごをとらえ、そっと視線を上に導く。
セピアははっきりと覚えている。
少女を見つめた薄青の瞳には、一片の揶揄も憐れみもなかった。
「君の思いは、伝えることができる」
かがんだまま、ヴィタリーは少女の手のひらをもういちど開いた手で軽く叩き、そして包むように握りしめた。
必ず、と伝えるように。