7. カイン出生の秘密
マリはノール・セトレ魔法学校の第2クラスに入学した。
学内に蔓延っていた差別は「魔法差別」。だから第2クラスは標的にはならない。もちろん、「身分差別」もあるが、世界各地から学生が集まるため、一概に「身分」だからと差別はできない。
それに身分は制度であって、差別すべき対象では本来ない。
しかし、マリは結局その二つの「差別」に巻き込まれる形で自主退学をすることになった。
皮肉にもその二つが禁止された年に。
「ちょうど、このくらいの季節だった。マリがぼろぼろになって家に帰ってきたのものな……」
当時にはクラブという、軍学校由来の課外活動をする場があった。
学生の有志が集まって、互いに武技や魔術を高め合ったり、学術会といって討論をし合ったり、他にも駛帥や読書までといった娯楽を楽しんだりと幅広くジャンルがあった。
マリも武術の家出身であるから、武技のクラブに所属していた。
そのクラブはマリが一年の時の三年の先輩、ミュー=リュー家の季子、カーシュ=ミューリウスという男子学生がリーダーをしていた。
ノール・セトレ魔法学校最後の年というのもあったのかもしれないが、そのクラブはすでに第3クラスの受け入れをしていて、クラブ内でいかなる差別も禁止していた。
「とはいっても、第3クラスの学生は誰一人として所属していなかったがな」
カーシュは真面目な性格で、穏やかであったから、クラブも和気藹々としていた。
実際、マリも良き先輩として慕っていたし、クラスの大半は貴族や士族だったから、空気が合わず、クラブは彼女の大切な場所ともなっていた。
しかし、秋頃。そのカーシュという学生は急に姿を消したのだ。
それはクラブからだけでなくて、学校から。
ミュー=リュー家といえば四大連合国の一つ、ミュー=リュー家国の国長家(ミュー=リューは家名であるが、苗字ではない。ミューリウスという苗字を使用している)
ノール・セトレ魔法学校最後の年であれ、四大連合国の影響はとても大きく、協力する形で捜索を始めた。
しかし、行方不明になったのはカーシュだけではなかった。
それは同じクラブのリンという女子学生。学年ではマリのひとつ上で、カーシュの一つ下だった。
リンは世界西部の小国の貧民街出身で、到底魔法学校になんて通える経済状況にはなかった。
彼女には身寄りもなく、入学前にはリンという名前すらなかった。
ではなぜ魔法学校に入学したか。本当に偶然らしいが、その小国を出張の帰路で訪れた、ノール・セトレ魔法学校の教諭に魔法の才能を買われたからだった。
リンは魔力量は決して大きくないが、魔法の技術的な才能は中流貴族を凌ぐほどで、マリも魔法の天才と評していた。
「そのリンもカーシュがリーダーをしているクラブに興味を持って入っていたんだ。カーシュが強く身分差別を嫌っていたから、居心地も良かったのだろうな。マリも同じ理由で選んだのだからな」
それにリンという女学生は相当な美貌の持ち主だったらしい。
リンは自分の正確な年齢は知らないようだったが、当時のマリには十七とか十八に見えたらしい。
「到底、あと一年で纏える嫋やかさじゃなかったって、半ば絶望していたな」
ケイリは郷愁を漂わせ、注いだきり、持っているだけで口はつけていなかった猪口をとうとう置いた。
「ま、まぁ、苗字は貰っていなかったが、それを気にさせないほどの魔法の才と美貌が備わっていたから、近寄りがたさはあったらしい。何回か男子生徒から言い寄られたこともあったらしいが、バックにミュー=リュー家がいるから下手なことはできなかったらしい。で、リンとマリは特に仲が良かった。たぶん、同じ非上級階級出身の学生だったから、互いに共感できることも多かったんだろう」
ケイリの話から解るように、リンは第3クラスではなく第2クラスに所属していた。
だが、そのリンも夏休み明けに姿を消した。
マリは急に二人の敬愛していた先輩を失う形になった。
しかし、学校側は一人の行方不明の学生の捜索しかしなかった。
一切、リンの捜索をしなかった。
――いま、カーシュの捜索人員は減らせないと。
――それにリンがカーシュを行方不明にさせた可能性が高いと。
――ここで、リンの捜索を公にすれば、リンは容疑者として捜索されることになると。
これは連合の影響下にある学校の限界だった。
逆に学校が取れるうちの最も賢明である選択肢でもあった。
リンを容疑者として捜索すれば、二人が同時に発見された時に、学校がリンの存在を連合に隠しきれない。
更に悪いことには、リンに冤罪をかけられ、ミュー=リュー家国の裁判にかけられれば、いよいよリンを守るものがいなくなる。
ミュー=リュー家は家父長制だ。カーシュは季子で、彼のミュー=リュー家への影響力は微々たるもの。
しかし、リンの捜索班を結成せず、偶然に発見した形にすれば隠蔽のしようがある。仮に連合側に情報が漏れても、行方不明のカーシュの発見に偶然にも出くわした女子生徒でしかない。
マリはそのことを理解していた。だが、憤るのも当然。
「この学校は生徒一人すら守れないのか」
マリは独断で二人を探しに行こうとも思ったが、マリの魔法は捜索には一切向いていないし、そもそも手がかりもないし、カーシュが消えたことによって学校の監視は強くなっていたから、二人の帰りを待つことにした。
「この事件が動くのは、魔法公学校になってからだ」
マリが二年に上った頃、公に差別の禁止と、魔術と学術の等位評価に転換したことで、学内は荒れていた。
例えば第3クラスの学生にわざとぶつかって身分を誇示して脅迫したり、クラスの壁に「ヌル・テラー」(非魔術師の蔑称。『魔法の使えない魔物』や『無能な家畜』という意味になる)と書かれていたり、挙げ句攻撃魔法で怪我を負わせるといったことまで、全ては語れないほど起きたらしい。
不名誉なことに、軍学校時代から記録で、一年間の停学処分者は過去最大人数だった。
どれも名目は「素行不良」で。
マリはクラス的には「差別する側」で、身分的には「差別される側」だったから、昨年までには一切関係なかった差別や嫌がらせの対象に何回かなったらしい。
それに差別が過激化したこともあって、第2クラスでも下位クラスだと、たしかに差別は受けた。
ただ、マリは武術は言わずもがな、魔術に関しても扱いが長けていたから、いざとなれば返り討ちにしていたらしい。
しかし、その分指導も受けるわけだが…………。
それにマリは「差別」なんかよりも未だ見つからない二人に先輩の方が気にかかっていた。
◇欒かの森 林道
それは夏休みに入ったばかりの頃だった。
「「追え! 追え!」」
「先輩! 頑張ってください!」
マリはリンを引っ張って林道を駆け抜けていた。
追手は六人といったところか。軽量アーマープレートを見るからに魔法撃退も簡単ではない。
「マリ……わたしの霧魔法で目眩ましをするわ」
「先輩、でもここは一本道です」
「だからマリはその子を連れてここから十一時の方向に森の中を走り抜けて!」
マリはタオルに包まれた嬰児を抱えながら走っていたのだ。
「え……?」
森の中を抜けるのは危険極まりなく、マリならある程度の魔法耐性もあるから迷ったり、魔獣や魔物に襲われたりしなければ抜けられるだろうが、まだまともに魔法能力が発達していない嬰児には影響が大きすぎるし、仮に生還できたとしても後遺症のリスクが高すぎる。
例えるなら水深20メートルくらいの海を更に潜っていくようなものだ。
そのくらい、人間には高すぎる森の魔力濃度は危険なのだ。
この無策と言ってもいいほどの案を出すリンは冷静な判断が下せないとマリは思った。
リンは聡明だ。少なくとも行方不明になる前までは。カーシュの影響もあったのか、気配りもできるし、臨機応変な対応もできた。
こんな行きあたりばったりみたいなことを言い出す人ではなかった。
しかし、これも無理はない。彼女らは既に混乱している。
まだマリがリンの無事を確認できた安堵感で和らいでいるだけで、マリも大概だった。
そもそもどうして一本道の林道を駆けているのか。どうして学校に助けを求めないのか。
魔法公学校はすでに独立機関だ。相手が連合であれ影響を受けない。
だから一番安全なはずなのに、魔法公学校に逃げ込まない理由。
それは魔法公学校が彼女らを拒んだからだった。同時にそれが彼女らを混乱に陥れた。
マリは魔法公学校を出て、駅に向かう途中、なんとなく遠回りした時にリンと出くわした。
すぐに事態を察したマリはリンとともに、魔法公学校に引き返すが、それがよくなかった。
マリは走りながら考えた。
(――学校もすでに奴らの手中にあったのか?)
学校へは長い一本道を通る。マリは学生の中では遅めに学校を出たが、まだ疎らに学生がいる。
クラスメートもいたし、同じクラブの学生もいた。
そのうちの二人の異変に気がついた学生らが近寄ってきた。
それをマリはてっきり手助けをしてくれると思ってしまった。
魔法公学校は魔法差別の禁止を謳う稀有な魔法学校。
しかし、その学生らは二人を捕縛しようとしてきたのだ。
思えば二人はまだ敷地内に入っていない。学外であれば学則など彼ら彼女らには関係がない。
だとしても、一人くらい……それも向けられる眼の冷たさに、マリの一方的な期待でしかないと悟る。
マリは学生のバリケードに怒声を張る。
どうして同じ学生なのに敵に回るのかと!
返ってくるのは苛立たしい声か、嗤笑の声か。それがさも当然のように、二人にぶつけられた。
――ヌルと魔法師の卵である俺たちと一緒にするなと。
――スラムの塵芥が戻ってくるなと。
――魔力を持たないものが魔法学校の門を潜るなと。
リンもマリも魔法技能は高いが、魔力量や魔力容量は決して大きくはなかった。
魔法差別は魔法技能では差別せず、魔法の素質で差別する。これがシャルルが最も魔法差別を厭う理由。
魔法技能は決して先天的ではなく、努力次第で引き上げられる。が、魔法の素質(=魔力容量や魔素)は殆ど先天的に決定される。
これでは旧くに悪だと歴史に斬って捨てられた人種差別と変わりない。
しかし、差別の本質がそこにあるのは変わらないのだ。
口論の果てに二人、特にリンは不法侵入であると、学生から魔法で攻撃される始末。
その学生らを突破して学校に助けを求めることなど、叶わなかった。
マリはノール・セトレ魔法学校だったら引き返さなかった。魔法公学校だったから引き返したのだ。
それなのに、結果論として最悪の事態に陥った。
二人は絶望と失望を抱え、排斥される形で一本道の林道に逃げ込まされることになる。
嗚呼、学校は権力の許には学生を斬って捨てるのだと
確かに運営と学生一人を天秤にかければ運営に傾く、いやかけることなどこの学校はしないのだろうな、とマリは下唇を強く噛んだ。
「先輩は!」
「わたしが囮になります。そもそもわたしが追われているのよ」
「なら、ダメです。先輩が追われているのなら、私は先輩を置いていくことはできません」
「いいの。それにわたし、もう走れそうにないし……その子だけでも逃して」
マリは走りながらふと目を落とす。リンは足に裂傷を負っていた。
学校に引き返したせいで余計に傷を負ってしまったリン。だが、自分を責めているような時間はない。
「なら、私が風魔法で奴らを吹き飛ばします。失敗したら霧魔法で撒いてください」
マリは走りながら風魔法を展開した。
【ウィンド・フラウド】
突如、林道の進行方向と反対方向に猛風が吹きすさぶ。林道であったから風は分散することなく、弱まることのない猛威で追っ手を怯ませる。
アーマープレートは魔法攻撃には強いが、ただ、吹き飛ばすことを目的にした、攻撃性の高くないこの魔法の前にはただの抵抗でしかなく、情けなくも六人のうちの前二人が森の方へ吹き飛ばされていく。
残り四人も前身ままならず、その場で風と格闘することになる。
「先輩頑張りましょう!」
「す、すごい! マリ成長し……マリッ!!!」
リンが急にマリを突き飛ばした。
「キャッ!」
不意であったが、マリは赤子を庇いながら倒れる。
直後にマリの風魔法を物ともしない、強力な魔法が林道を一本槍のように貫いた。
「せんぱ………い?」
マリが見上げるのは、上半身が血に染まった敬愛する人だった。
そこはマリが走っていた場所で、そこには本来自分に空いたはずの風穴がリンにあった。
「マリ……カインと逃げて……」
リンは顔だけマリに向けながら、涙を流しながら、それでも変わらぬ婉麗な笑顔で最期の言葉を告げ、マリとすれ違うように林道に仆れた。
「え……」
その音をマリの耳はすぐに認めただろうか。
マリは初めて人の命が命でなくなる時に立ち会った。
「せんぱい……」
「はぁ。手こずらせるなァ。このクソ魔女め!」
現れたのは見覚えのある顔によく似ていた。
「カーシュ……先輩?」
カーシュに。
「え……」
追っ手の他四人の上半身がない。
あの魔法は追っ手の仲間諸共この場にいる全員を滅殺するための魔法だったのだ。
それをリンが盾になって、弱めてくれたからいまマリは胸の中に自分の命と、腕の中に小さな命を抱えていられるのだと。
「ん? なんだお前は」
マリは足がすくんだ。
この男はカーシュなはずがない。こんな物でも扱うかのように人は殺さない。
カーシュの風魔法はもっと優しい魔法だったはずだ。
「お、お前こそ誰だ!」
「……口の訊き方がなってないなッ!」
男は右手に持っていた、長さ2メートル近くもある鞭をしならせ、超速でマリの頬を打つ。
「イタッ!!」
マリは赤子を庇うために避けられなかったのではない。全く軌道が見えなかったから躱せなかったのだ。
「ほら、顔がつぶれる前にその悪魔の子を渡せ」
男はもう一度鞭を振り上げる。
「「「やめろぉぉぉぉ!!」」」
男の背後から【風刃】が首元に飛んでくる。
「「カーシュ先輩!!」」
カーシュは跳躍してマリの前に降り立つ。
よく見れば、カーシュの髪の方が金色が薄い。
「マリ。君を巻き込んでしまうとは……」
カーシュは赤に咲く華のように謐かなリンを一瞥して、とても悲しい顔をしたのだ。
その顔を見ただけでマリは堪えていた涙が流れ出そうになるほどだった。
「「おい、カーシュ。お前今度こそ死にたいようだな? それとも改心したのか?」」
男は鞭を手元に引き戻し、眉間に強く皺を寄らせる。
マリの前に立つカーシュも身体中に傷を作っていた。
「マリ。これは私の最期のお願いだ。私が兄さんを道連れにしてでも、絶対に足止めする。どうか、どうか、カインを連れて東に逃げてくれ!」
カーシュは弱い心を強く痛めつけながら、拳で不甲斐なさを握りつぶしながら、マリに懇願した。
マリは小さく頷き、ゆっくりカーシュから距離を取りながら、また林道を再び駆けていく。
「兄さん。私のことはなんとしてもいい。だが、この子たちには何の罪もない!」
もちろん、リンにも。
カーシュは強い男だった。愛する人の死を見ても、いわば仇を前にしても、涙も見せぬし、怒りも露わにしない。
それは理路整然が相応しい。至って冷静に己を確かに対峙する。
「「はぁ? テメェがどこともしれぬ魔女に誑かされ、挙句の果てに魔女なんかを孕ませたから、こういうことになってんだろ! 確かに原因はテメェだろうが、問題はそのクソガキと、たったいまくたばった魔女だけだ」」
「なぜだ。どうして彼女が貴族でないからって! 多少魔力が少ないからって!」
「「はぁ? テメェ正気か? ミュー=リューの血が穢れるということだぞ?」」
「兄さんの考え方は旧い陋習だ! 人は生まれながら平等であるべきなんだ!」
その瞬間、カーシュの右腕が飛ぶ。
サーシュは完全に頭に血が上っていた。
「「「グアァァァ!!」」」
「「平等だぁ? なめたこと言ってんじゃねぇよ。ならなんだ? テメェは俺と平等だというのか?」」
カーシュは無い肩を抑え、地に屈しながらでも、自らの兄の顔を強く睨み返し、怒声を張る。
「「「「そうだ! ゲルハ=サーシュ=ミューリウス!! わたしと俺は対等な人間であるべきだ!!」」」」
カーシュはサーシュの神経を更に逆撫でするように呼び捨てにして呼ぶ。
「「「「カーシュ!!! 貴様ァァァ!!」」」」
サーシュが鞭を振り上げるが、それより先にカーシュが動いた。
大規模風魔法が展開される。
カーシュは飛ばされた右腕を消費して、いまの彼では本来、発動できないはずの上級魔法を行使する。
「「【ファンシャンター・ヴィンド・ケイン】」」
それは禁術にある《死に至らす魔法》だった。
カーシュの身体から瞬間的にほとんどすべての魔力が消費される。
それと同時に、地を食み、空を螺旋に引き込む、災害級の竜巻がサーシュを中心にうずまき始めた。
やがて轟音は木々も巻き込み始め、竜巻はまさに龍のごとく、天をも食らうようだ。
「サーシュ。これがわたしの最期の魔法だ。せめて貴様の命でも連れていきたいが!」
カーシュは言葉とともに血反吐を吐き、残されたリンの許に歩み寄る。
「リン。すまない。こんな形になってしまって…………」
カーシュは初めて涙を流した。
「リン。いつかキミに苗字を与えたかった……いつか同じ苗字で三人で過ごしたかった……」
カーシュは自分の死を覚っている。
もう十秒とない命。
カーシュは静かに冷たいリンの口に接吻した――――。
「「「ラ゛ァァァァ!!」」」
サーシュはカーシュの魔法が弱まるのを待つような形で、魔法を解除した。
しかし、カーシュの最期の魔法は見事で、Aランク魔法師であったサーシュが解除するのに五分以上も、逆に五分以上もその精度と規模を保ち続けた。
サーシュは結局無傷だが、カーシュの挑発によって完全に冷静を欠き、最初から防御に専念することなどがなければ、カーシュの望み通りに道連れにできていただろう。
しかし、サーシュはカーシュの実力は一切軽視していなかった。
サーシュは始めからカーシュの魔法能力は高く買っていたのだ。
だからこそ、ミュー=リュー家長男直々に二人を追ってきたのだ。
「クソ面倒な魔法を遺しやがって!!」
カーシュはリンを抱いたまま、静かに絶命していた。
「カーシュ。テメェ、【ファンシャンター】を使って守りたかったものがこれか? 【ファンシャンター】を使ってこの程度か?」
サーシュは死んだカーシュの背中に語る。そこに僅かな寂しさが含まれていることに、誰も気がつくことはない。
「末っ子は末っ子らしく俺らに守られていればよかったのだ。その魔女とガキを我が国で火炙りにすればよかったのだ。お前がこんな魔女なんぞに魅入られるから、弱くなったのだ。どうだ、【ファンシャンター】で結局、妾のつもりだったか何か知らんが、あの女も守れないのだから」
サーシュは遠くで逃げているマリを魔法的に捉えていた。
「このクソ魔女が! 俺は死体にはもう興味はねぇが、それでもバラバラにして圧し潰したいほどだ。愚弟を誑かしおって! 我家に泥を塗りやがって!!」
しかし、サーシュは死んだ二人の身体には一切触らなかった。
それこそ貴族の矜持だったのか。
「ハァハァハァ!」
カーシュ先輩の魔法が破られた!
お願いだ。まだ、来ないでくれ。
まだ、駅までは私の脚では十分は……林を抜けるまでは五分……いや、三分で駆け抜けてみせるから!
マリは魔法を過剰行使しながら、駆けて抜けていた。
敬愛する二人が命を賭してつなげた命。
私が先輩たちと出会えたことに意味があるのなら!
「うっ!」
【基礎付与加速魔法】は単位時間に過剰行使すると、筋肉を蝕む。
「《脚が千切れようとも! 私を前進させろ!!》」
この自由律の詠唱魔法はマリが編み出したものだ。
魔法効果は弱いが、精神作用が強く、こうして痛覚を麻痺させることもできる。こうして筋肉が文字通り消費されるまで、骨と皮だけになるまで疾走り続けられる。
「おい、そんなに急いでも俺からは逃れられん」
その声はすぐ背後から聞こえた。
(――そんな! カーシュ先輩は五分は足止めしてくれていたはず……!)
幻聴だ! マリは一切振り向くことなく疾走り続ける。
止まればもう立ち上がれない!
「「無視をするなァ!!」」
マリは前方から空気砲を受ける。
倒れ込むと同時に吐血する。それは魔法攻撃を受けたからではなくて、逃げるために魔法を過剰行使した結果だ。
つまり、マリの身体は限界をとっくに過ぎていた。
戦いたくもなかった学生と交戦し、追っ手を吹き飛ばし、先輩を喪って、それでも全力を疾走にかけて。
「面倒をかけさせるな」
マリはすぐに起き上がって、サーシュを強く睨む。
その眼にいくつの感情があったのか、彼女自信にも解らなかった。
「お前は見たところ、東部の人間か。ならば、そのガキをおとなしく渡せば特別に不問にしてやる」
サーシュは片手を伸ばし、赤子を投げ渡せという。まるで物のようにいう。
「誰が渡すか! これは先輩たちの子だ!」
マリは赤子を背後に背負った。
その赤子には未だにリンの防護魔法が付与されていた。
それに気がついて、マリはまた涙を流しそうになる。
「ならば同罪だ。ついでにお前達の家族も同罪だ。こんな悪魔の子を匿うのだからな!」
「はっ! 醜いな貴族め。そうやって弱きものを脅すことしかできない!」
「「侮辱するかァ!!」」
サーシュは鞭を振った。魔法付与がされていて、周りの木が一斉に薙ぎ倒される。
しかし、それは牽制でマリには当たらなかった。
「「俺への侮辱は死罪に等しい。そこに屈め」」
「「誰が!」」
マリは魔法で土埃を巻き上げ、走り出す。
しかし、マリの魔力は底を尽きている。林道は土が湿っているため、巻き上げたところで期待するほどの目眩ましとしては働かない。
「「「うあ゛!!」」」
マリは赤子を身体で覆いながら、咄嗟に自分の脹脛を抑える。
「「うッ!! あ゛あ゛あ゛あ゛」」
抉られていた。削がれていた。
知らない痛みだ。
気が遠のきそうだ。
ダメだ。カインがいるんだ。
私は片足になろうが、両足を失おうが、それでも走らなければならない。
「はっ! 臥したか。ちょうどいい。同時に首を転がしてやる」
立て! 逃げろ! 届けろ!
私の身体よ、言うことを聞いてくれ!
サーシュは高く鞭を振り上げる。
「いや、お前らが忌み嫌う貴族の魔法で葬ってやろう」
サーシュは鞭の付与魔法を解除し、【風刃】を行使した。
「「ほら! 疾く死ね!」」
(――先輩。すみません。護りきれませんでした)
今度こそ流れ出そうな涙を殺し、マリは死を覚悟する。
いまのマリの魔力量では、防護魔法の発動もままならない。
せめてもの思いで嬰児にリンの防護魔法の上から重ねがけするが、あの風魔法を止めきることはできないだろう。
「お兄さん。何をしているの?」
途端、マリに向かう風魔法が消滅した。
「何者だァ? 貴様」
(――あれは……)
「お兄さん。女の子を痛めつけるとか趣味が悪いね」
(――なんでここに……)
黒髪の少女。年齢は十歳くらいに見える。マリはその少女が今年の学年首席であることを知っていたから、十二歳であることも判っているが、それでも幼く見えた。
その少女は着物の上から紅の炎の模様がある白い羽織を羽織っていた。
「ガキが。お前も魔女の仲間か? ほんと東部の人間はヌルばっかで呆れるぜ」
サーシュが再び鞭を振り上げるが――。
「「ああ゛!!」」
その振り上げた鞭が爆散する。
サーシュは巻き込まれた右手を抑えながら、穴が空きそうなほど強く睨む。
「「き、貴様! 俺に魔法攻撃するなど! 死罪じゃ足りねぇぞ!」」
サーシュが少女に即死級の攻撃魔法を放つが、その瞬間にはすでに彼女の姿はなく、魔法は虚しく林道を走っていった。
「追われていた魔法公学校の先輩ですね」
少女は瞬時にマリの傍らに現れた。
その移動過程、速度をマリもサーシュも把握できなかった。
なのに、少女にはマリの前に瞬間移動するのは自然なことだと言わんばかりに、にこやかに立ち現れたのだ。
「荒療治でしかないですが、幾分か楽になると思います。他に追っ手はいないと思いますが、動けたら逃げてください」
女子学生はマリの損傷した脹脛を魔法で修復した。
修復とは言え、治癒魔法ではなく、抉られた部分に魔法塊を埋めたのだ。
「で、でも、あなたは……」
「だいじょうぶですよ。あんなのわたしの相手にもなりません。さぁ、行って」
女子学生はマリに背を向け、サーシュと再び対峙する。
その羽織にあったのは「月の家紋」だった。
「さて、お兄さん。実はわたしは魔法が苦手なんですよ。手加減が全然できないのですね」
少女は「えへへ」となぜか照れながら言う。
「なんだァ? いまさら命乞いか?」
しかし、サーシュは簡単には斬り捨てられなかった。
少女に向けたはずの最速の魔法が、手元から離れた瞬間に、標的を失った。
それこそ瞬間移動でしか無い。
「いいえ。もし、わたしと戦うと言うのならば、少なくともどこか一本は飛んでいってしまうと言っているのですよ。まぁ、下手すればその一本があなたの可哀想な頭かもしれませんけど」
相手は十歳程度の子供。対してサーシュは二十代後半。
普通だったら、子供の戯言にしか思えないはずなのに、どこか不気味な現実味もあった。
「はぁ? それはこっちのセリフだわ!」
「そうですか。では、始めましょうか」
女子学生が右手を軽く肩ぐらいの高さまで上げた。
刹那――彼女が向けた右手の方角になかったはずの一本の道が形成され、その遠くで大規模魔法爆発が引き起こされる。
その轟音と森は呼応するように地ならしを始め、自然の中で不自然が召喚される。
「なッ!?」
サーシュは地震の中、立っているだけで精一杯だった。
サーシュは左を見る。
そこは林であったはずだった。その林が跡形もなく散った。いまでは新しい林道ができている。
その道は正確に直線で、ずっと先まで見通せるほど。
サーシュには魔法の正体、乃至属性すら解らなかった。
そもそも近距離にいるのに、こんな大規模の魔法の兆候も捉えられなかった。
「もう一度訊きますよ? わたしの魔法『豪華絢爛』を見ても戦意は喪失しませんか?」
サーシュの身体が硬直する。急に鼓動が早まり、無意識に一歩引き下がる。
「『豪華絢爛』だと……。お、あ、あなたは零月の……」
「ええ。ご存知でしたか。わたし零月家長女、零月藹と申します」
これが少女の正体。世界最大の士族、零月家の長女。
それは一国の長のミュー=リュー家でさえ、畏怖を強く抱く家。
そんな畏れられる藹は恭しくお辞儀をする。
「それで、まだ戦意は喪失しませんか? そうでなければ次は命を喪失しかねませんよ! なんちって!」
藹は歳相応の無邪気な笑みを送る。
「こ、これは失礼した。私はゲルハ=サーシュ=ミューリウス。まさか零月家の者とは露知らず」
「……ん? それは不戦の表明と捉えていいのかな?」
「ええ。ここは互いの領地でもない。一戦交えるのはお互いに不利益しかありませんからね」
「そうだね。わたしとしてもノール・セトレに近いこの場所で攻撃魔法なんて使いたくないもん」
先の魔法は攻撃魔法ではなかったと、藹は示唆する。
サーシュにとっては巫山戯たことだが、藹にとってはただ右腕を上げただけのことなのだろう。
「しかし、いまの女と嬰児は我が家、及び我が国の謀叛者でして、追跡……」
「それは無理ね。どこの国の方か知らないのだけど、ここはあなたの国の領土ではないでしょう?」
ミューリウス家がミュー=リュー家であることを、藹が知らないはずはないが、もし知らなくても「無礼」「無知」などとサーシュが言えるはずもない。
「それはあなたも同じはずでしょう?」
「そうだね。でもね、あの者は零月が一門の子女なの。わたしは零月の本家として分家の安全は守る義務があるの。それは世界中どこにいてもそう」
「それは謀叛者を追う私たちだって……!」
藹はサーシュの発言を手で制す。
その一挙動にサーシュの脈は強く跳ねるのだった。
しかし、これは単に藹の親切心からの行動に過ぎない。
サーシュにその言葉を言い切らせてしまえば、藹も手段を選ぶことを止めたかもしれない。
「だからもし、これ以上我が家に攻撃の意思を示すのならば、ミューリウス家でしたか? あなたのお家を我が零月の全勢力を以て誅滅します。とはいえ、あなたの力量を見るに、どうやらわたし一人でも事足りそうですけど」
藹の言葉は実に挑発じみていたが、憤慨するほど心に余裕がなかった。
ただ、畏れ、恐れ、慄れることしかできなかった。
「そ、それは脅迫ですか」
「いえ、警告です。脅迫はあなたたちの十八番ですからね。さすがのわたしでも敵いませんよ。ない力を振り翳す恥ずかし〜い行為など!」
サーシュはいつもならすでに爆散してしまっているが、鞭を振り翳して、眼の前にいる少女とその家族の鏖殺に向かっていてもおかしくない。が、この十歳くらいの小さい大魔術師に指一本も触れられるような気はしなかった。
実際、どういうわけか、基礎魔法さえ発動できていないのだから。
「いやはや、これは一本取られました」
(――どうした……怖気づいているのか? こんなおなごに? この俺が?)
サーシュは言いしれぬ震えに襲われ始める。
「それで。引きますか? それとも……」
「わ、解った。今回はお互いに齟齬が生じていたようだ。引こう」
「そうですか。穏便に解決できそうで良かったです」
藹は再び無邪気な笑みを作って、恭しくお辞儀をした。
「だ、だがしかし、零月殿。これからはもう少し目上の者には歳相応の態度を取ったほうがいい。今回は私であったから無事であったが、無作法ものは既に貴女の首を落としているだろう」
「そうですか。魔法が使えないのに、魔術師の私に勝てる無作法者をご存知なのですね。それは気をつけねばなりませんね」
「ッ……!?」
サーシュは動揺を明らかにする。魔法が発動できないのは自分のメンタルの問題であったからだと思っていたからだ。
「ああ、もしかして『豪華絢爛』がただの高出力の必殺魔法とでも勘違いしていますか?」
藹は無邪気に代わって不気味な笑みをこぼす。
サーシュの身体が硬直する。
(――な、なんだ……?)
「『豪華絢爛』は基礎魔法系統の魔法ですよ?」
(――これが基礎魔法だとッ!?)
サーシュに加わっていた全方向の魔法的圧力が強まる。
「この影響下ではわたし以外魔法は使えませんし、もう少し影響力を上げれば、触れずとも失神、カニみたいに口から泡吐かすこともできますね、フフフ」
藹は子供の声だが、サーシュの耳元には悪魔の呪文にしか聞こえていなかった。
藹が一歩、二歩とサーシュに近づくのだが、サーシュは全く動けない。
そして藹の人差し指が下からサーシュの胸元に優しく突き立てられる。
これも本当にただの少女の指であったら可愛いと思えるだろうが、藹ではそんなふうに思えるはずはない。
(――射抜かれるッ!!)
サーシュの鼓動が一等強くなった。
自身の胸元に風穴が空くイメージが、心臓が消滅するイメージが鮮明に浮かぶ。
冷や汗が止まらなくなり、涙まで吹き出そうになっていた。
十歳くらいの少女に指で触られたくらいで。
藹は指でサーシュの胸元に「の」の字を書いて、サーシュを見上げるように無邪気な笑みを作る。
「ま、お兄さん。半端な脅しは止めましょう。醜いですよ。クスッ」
藹は魔法を解いた。
そして藹はすれ違うようにしてマリの走っていた方に歩いていった。
サーシュは強く拳を握りしめるだけで、藹の方すら見られなかった。
彼は屈辱感に塗れ――気がついていない。
自分の向いている方向が知らぬ間に逆方向になっていることに。
一方、マリは藹の半永久的な時間稼ぎのおかげで急行列車に乗り込めていた。
ぼろぼろの身体を席に預け、カインという赤子の顔を拝む。
「二人の金髪に似ている……」
リンもカーシュも独特の、しかし互いに似た金の髪色を持っていて、その赤子もしっかり二人の髪色を継いでいた。
マリは自分の垂れ下がった黒髪を触る。
カインには未だに死んだ母の防護魔法が付与されたままで、そのおかげで赤子は熟睡しきっている。
「せんぱい…………」
マリは初めて嗚咽を漏らした。
「どうして…………」
◇七里家
マリが里についたとき、里も騒がしかった。
(――まさか追っ手が?)
マリは最悪を考えた。彼女はもう零月藹という少女以外、信じることができていない。
列車の中でも只管カインを誰にも見えないように抱えていたくらいだ。
「「マリィ!!!!」」
「父さん?」
だが、その彼女には他にも信用できる人間がいた。
「「良く無事で……」」
「マリッ!」
続いてミリも正装でマリを出迎えた。
それは――彼女の家族だった。
「父さん、母さん、わたし……わた……」
「だいじょうぶだ。何も言わなくていい」
マリはカインをケイリに預け、役目を終えたかのようにふっと意識を失った。
次話で七里家訪問編は終わります。