34. アレイ=ラインロード
――負けた。
武技競戦準決勝。
あと、一勝。たった一勝で良かった。
なのに、俺は第3クラス、本来なら相手にもならないようなやつに負けた。
そいつはこの武技競戦の主役のようなやつだった。
どうしてだ? どうして俺はいつも、こう、主役になれない。中心に立てない。
家では兄さんが、クラスでは右門が、武技競戦ではやつが。
庶民ですらなれるのに……どうして俺はこんなにも望んでいてもなれない?
俺は生まれつき疾患を持って生まれた。
魔力硬化症、通称《MAD》。
それは魔法師を志す者にとって絶望と失望を与えるものだった。
さらに烙印として俺の髪は一部が変色してしまっている。
この青は染髪ではなくて、持って生まれた呪い。
その呪いは魔子の変換効率を大きく下げ、魔力容量、魔力量に対して出力できる魔子の量が低くなってしまう疾患。
他にも魔力の循環が遅かったり、循環がうまく行かなかったりする。
それに俺の魔素は父さん譲りの灰魔法よりの炎属性に何故か水属性の魔子が混在してしまっていた。
複数の魔素を保有する人は極稀にいるらしいが、それが利点となることは少なく、魔術を使うには大抵枷となる。
俺も例外じゃない。
炎属性と水属性は対極の魔素だ。同時に扱おうとしても相殺しあってしまう。
このせいで俺は本来の魔力量の半分しか使えない――さらに言えばMADがあるからもっと制限された。
対して双子の兄さん、ファルツの魔素は純粋に灰魔術のみ。俺のようにMADのような疾患はない。
さらに俺とは違って魔法の才能があった。
俺より魔力量も魔力容量も大きく、小さい頃から魔法の扱いが上手で、父さんを超える才能があると言われていた。
魔法訓練を家で初めて行った時は、その日に基礎付与魔法をマスターしたし、六歳ころには中級魔法に手を出していた。
追いつくためには俺も頑張らなければいけないけど、MADの疲れやすい体質のせいで長時間の訓練には耐えられない。
それに俺には魔法の才能はなかった。兄さんと同じ訓練をしても習得できるレベルが全然違う。
俺が一を覚える間に兄さんは十をマスターするような……。
それも相まって兄さんはラインロード家の次期当主として多大な期待を寄せられていた。
兄さんは魔法だけでなく、期待も全て奪っていった。
ラインロード家は30年聖戦の成り上がりだ。
たまたま父さん、ダルド=ラインロードに魔法の才能があって、灰魔法を大成できたからツァルフィルアラでも屈指の大貴族になっただけ。
もし父さんの子が従来のラインロード家程度の魔法師だったのなら、父さんの死後、すぐに他の貴族の圧力に負けて転落するはずだった。
でも、その父さんを上回るような才を持った子が生まれた。
名はファルツ=ラインロード。
父さんは炎魔法の酷使で灰魔法しか使えなくなったらしい――というのは置いておいて、その父さんと同じ灰魔術師。
もう、兄さんだけでラインロード家は支えられるだろう。
ならば俺は……。
それに兄さんは小さい頃から非常におとなしい性格だった。
双子なのに似ているのは外見くらいで、相互のコミュニケーションは取れない。
俺がなにか話しかけても頷くか「うん」と言うくらい。
俺は兄さんに張り合おうとするが、兄さんは作ったような笑顔を浮かべて、その虚ろな目で、いつも受け流す。
俺は大人に反抗的な態度を取りがちだったが、兄さんは基本的に従順だった。
だから兄さんは家の使用人らに好かれていたが、俺には微妙な作り笑いが向けられる。
家では優秀な兄と、出来の悪い弟という対照的な兄弟として見られるようになった。
『ファルツ様があれだけ出来が良いと、アレイ様が可哀想になってくるわね』
『将来は無為徒食の生活を送られるのかしら』
なんて裏では適当ばっか言いやがる。
準備校に入る頃には兄さんは既に大人の魔法師を相手に取れる程に強くなっていた。
一方、俺は中流貴族出身のやつにも負ける始末。
いいや、ラインロード家はもともと成り上がった家だ。本来、俺くらいの実力が相当のはず――なんて兄さんがいる以上そんなことは考えていられなかった。
それに俺は喧嘩っ早いから、毎日のようにどこか怪我をしていた。
しかし、兄さんはそんな俺を見たとしても何も言わず、眼は虚ろのままだった。
ああ、兄さんは俺のことなど見えてすらいないのだろう。
俺は兄さんの恥部なんだ。
兄さんは準備校の首席で文武両道、完璧な生徒。
一方、俺は、多少努力はしていたから、学業も魔術も低くいというわけではないが、兄さんみたいに突出していない。
準備校ではケンカばかりして問題ばかり起こして、その度兄さんと比べられる。
――ファルツくんを見習いなさい。
――あなたのお兄さんは優秀なのにねぇ……。
――ファルツくんなら……。
誰も俺を見ちゃいない。必ず俺の世界はファルツ=ラインロードという男が中心に動く。
だから俺は家では兄さんにも少し強く当たるようになっていた。
目が合えば大げさにそらしてみたり、嫌味を言ってみたり、流石に喧嘩は挑まなかったけど。
それでも兄さんは相変わらず、虚ろな表情で毎日毎日決まったような動きを繰り返す。
兄さんには感情がないのかもしれない。兄さんはもしかしたら人間ではないのかもしれない。
そんなことまで考えるようになっていた。
でもそんな兄さんも一度だけ怒ったことがある。
俺の兄さんに対する意識が大きく変わった切欠となった事件。
それは準備校時代、俺が二個上のたちが悪いどこぞの貴族のやつらに絡まれてしまった時の話だ。
『おい、アレイ。お前あのラインロード家なんだろう? なのになんだその貧弱さは』
顔を思い切り蹴られる。
歯は折れなかったが口の中で血の味がした。
俺は複数人に囲まれ、嘲笑を浴びていた。
『なめるなよ。お前ら』
しかし俺も気性が荒かった。すぐに立ち上がって殴りかかった。
が、周りのやつに足をかけられ転ばされた。
『は! 雑魚がいきがるな!』
俺は組み伏せられ、頭を踏みつけられた。
『ラインロード家だからって調子に乗りやがって。所詮成り上がりのくせに!』
何度も何度も踏みつけられた。その度に俺はその辱めに怒りを燃やしていった。
『くそがっ!』
しかし、抑える力は強く振り払えない。
そして俺は髪を掴まれ、醜男の顔を見せつけられた。
いまも思い出せる。ひどく醜いやつだった。
『こいつの顔潰そうぜ』
そして奴らはただ俺に無益な、無意味な嫉妬しているだけだと気がついた。
俺はラインロード家ということと、兄さんが準備校の首席だったから、必要以上に女子からモテていた。
正直煙たかった。どうせどれも「政略」絡みだろうと。
その俺を見ているようで見ていない目の奥には「ラインロード」が「ファルツ」が隠れているのだろうと。
『醜男め。やることも醜いな』
俺が好きでモテているわけじゃない。なんならそれは屈辱に等しい。
父さんと兄さんだけを見て俺のことは無視か。
俺はそいつの顔にツバを吐いてやった。
『てめぇ!』
醜男は容赦なく殴ってきた。一度で止むはずもなく、ちょうど十発殴ってきた。
『お前ら。何をしている』
なぜちょうど十発だったか。
『お? お兄ちゃんだぞ? アレイ』
『兄さん……?』
俺と違って変色のない、綺麗な灰色の髪。死んでいるような虚ろな目。
そして俺とそっくりな顔をしている。
兄さんには正直期待していなかった。
おそらく素通り、よくて先生を呼んでくる程度のことしかしてくれないと思っていた。
『お前らが殴っているのは誰だ』
相変わらず音に起伏のない、無味乾燥な声だった。
『お? はははっ。お前の弟だよ。顔を忘れちまったのか? あ、こんな顔じゃ解らないのも無理ないな!』
醜男どもは汚い声でゲラゲラ笑う。
『……そんな顔のやつは知らないな』
『……え?』
兄さんは俺を見てそういった。兄さんは素通りどころか、敢えて俺を確認した上で無視するつもりだったんだ。
俺たちは双子だ。普通の兄弟とは違って同年齢。
兄だから弟を助けるというのは幻想に過ぎない。
しかし、少し期待してしまっていた弱い俺は無気力な声を出してしまった。
我慢していた涙が流れ出そうになってしまった。
『しかし、それがアレイなのだな』
兄さんから名前を呼ばれたのはいつ以来だったろうか。
初めて兄さんのオーラが変わる。
こんな兄さんは初めてだ。
大体八メートルくらい離れているのに、兄さんの魔子波動を強く感じる。
『お? ファルツ。やる気か? 言っとくが優等生の戦い方では俺のような喧嘩……』
『醜男め。口をふさげ』
『ガハッ……。ゴホッゴホッ! うんぐぐぐ? ゲホッ!』
醜男の口から乾いた黒い大量の灰が。
醜男は思わずその場でひざまずく。
ざまあみろ――――と思ったのも一瞬だった。
『――俺の灰は着火させると爆発する』
兄さんはそう言って、人差し指の先に小さな炎を出現させた。
それは小さな【火球】だったが、兄さんの灰魔法下では洒落にならない威力になる。
指先を醜男に向ける。
『んぐぐぐぐぐ!!』
これには周りのやつらも慌て始めた。兄さんはよもやあの男を殺すかもしれないと。
『お、おい。ファルツ。ちょっと待ってくれ。謝るから……』
『邪魔だ』
醜男と兄さんの間に割って入ったやつの前で炎が炸裂した。
小規模の爆発が起こり、爆発を受けたやつは大きく吹っ飛ぶ。
そして十メートル先の地面に落下した。
『ま、まじかよ……』
『狂ってやがる…………』
俺も思わず絶句した。
飛んでいった男子は血塗れとなって、棄てられたボロ雑巾のようにぐったりとしていた。
あれが即死だったと言われても疑問はない、よくない攻撃だった。
火球に灰魔法を仕込んでいたんだ。ただの【火球】の術式に《爆発》は含まれていないはずだ。
『さて。次はお前だな』
兄さんは醜男の灰に火をつけた。
『あ゛あ゛あ゛あ゛!!』
醜男が燃え上がった。
爆発しなかったのは俺がこっそり灰魔法の性質を変換していたからだ。
俺と兄さんは結局は双子。一卵性双生児だから魔子も遺伝的に同じ形質となる。
だから兄さんの純粋な炎属性の灰を、一部俺の水属性に侵された灰に変質させることで爆発は防いだ。
ただ、発火するのは防げない。
醜男は生きたまま焼かれている。
――兄さんは本気で殺す気だ。
一斉に周りにいた生徒がそれを見て逃げ出す。
『誰か助けてくれぇ!!』
『なんの音……? キャアアア!』
彼らが逃げ出すと同時に、異変に気がついた先生が校舎裏に駆けてきた。
眼前に倒れている血塗れの教え子を見て、その奥で燃え上がっている教え子を見て、思わず奇声を上げる。
『ちょ、ちょっと?』
『【フレイムクーゲル】』
兄さんは逃げていく生徒に向けて殺傷力の高い魔法である【灼弾】を撃った。
高速で生徒の背中を追う。
それに対し、先生が水属性魔法を対抗魔法として放ち、小さな水蒸気爆発とともに中和される。
兄さんは一度動きを止めたが、先生はすかさず、醜男の火を消すために水属性魔法を連発した。
すぐに先生は醜男の方に駆け寄り、
『ラインロードくん! 一体何をしているの!』
先生は醜男の容態を確認しつつ、兄さんを咎める。
『……あなたもそいつらの味方か』
兄さんの死んだような目。
物心ついた頃から変わらない、虚ろな目。
その目に俺は映らないのだろうと、憎み続けた目。
その目がこんなにも恐ろしいなんて。
『ちょ、ちょっと?』
兄さんは先生を指差した。
『に、兄さん……?』
【灼弾】が放たれた。先生は水魔法では受けきれず、醜男を抱え、俺を水魔法で掬い上げて距離をとった。
『君たち、すぐに逃げてそして他の先生を呼んできて! 早く!』
先生はそう叫んで兄さんに対し、臨戦体勢を取る。
『アレイくん。お兄さんにはいままで魔法の超意識発動の傾向は見られましたか?』
俺は水でできたカプセルのようなもので守られていた。
横を見れば、似た水のカプセルが二つ。そこには黒焦げの男子が一人、身体が一部変な方向に曲がってしまっている男子が一人、中で浮いていた。
俺はそれを見て思わず吐きそうになり、目を逸らした。
『ないです。兄さんの魔法の扱いは繊細で、精巧です』
気を紛らすためにもすぐに答えた。
口を開いた瞬間何かが喉を焼いてきたが、飲み込んだ。
『そうですか』
そう話している間にも兄さんの【灼弾】が先生を襲う。
先生は少しずつ移動して攻撃の方向をずらし始めた。
これは完全に魔法戦闘だった。
兄さんの灼弾の威力は明らかに力加減されていない。
幹の太い木でさえも、大きな風穴を開け、石でできた硬い校舎の壁をも、鋭く穿つ。
頻りに爆音が響き、これが戦争なのかと俺は思った。
恐ろしかった。初めて、俺が狙われているわけでもないのに、死というものを実感した。
先生は基本的に防御魔法しか使わなかった。そして戦いながら兄さんに話しかけていた。
だが、兄さんの魔法は次第に熾烈を極めて行ってしまう。
そしてまたよくない魔法が発動される。
『【ゾンド・ヴィーベル】』
黒い旋風が巻き起こる。
急に夜になったかのように暗くなり、恐怖があたりを包んだ。
俺たちは先生のカプセルによって旋風の射程外に出されていた。おそらくあの内部にいたら命はなかったろう。
『なんだ……この魔法は……』
他に駆けつけてきた先生たちも旋風の外で呆然とし、立ち往生していた。
正直俺はそろそろ意識を失いかけそうだった。
それでも俺には報告義務がある。
『せんせい……あれは兄さん、ファルツ=ラインロードの灰魔法です……水魔法が有効なはずです……炎魔法だけは避けてくださいッ!』
俺は力を振り絞って先生に伝えた。
灰魔法に水魔法が有効なのは俺が一番良く知っていた。
『ファルツくんだと? たしかに学校内でこんなことできるのは彼ぐらいしかいないだろうが……。とりあえず水魔法だな』
先生は強く頷いて水魔法を展開するが……。
『弾かれる! なんて回転力だ!』
他の先生方も複数の水魔法を放つが、効果はない。
水の射出速度に対して、【ゾンド・ヴィーベル】の回転力が勝り、弾かれてしまう。
それもそうだ。この魔法は30年聖戦で父さんが敵の進行を完全に封じた魔術。
敵の進路を黒い旋風で断って、たった一人で数千の軍勢を機能停止させた魔法。
その回転力はいかなる妨害魔法を受け付けない。
それに一度発動すれば辺りの気流を巻き込むから、慣性によって減衰しにくい。
そもそも灰魔術は魔力消費量を抑えられる魔法だ。
例えば基幹の炎魔法は、空気中に炎を維持するのに魔力を消費するけど、灰魔法は必要ない。
そもそも灰を出現させるだけなら魔力を消費している感覚はない(実際は消費していると思うが)
【ゾンド・ヴィーベル】も炎の旋風なら、火力を維持するための魔力を投じないといけないけど、灰魔術だから必要がない。
だから外から半端な魔法を打っても、兄さんが魔法を解除させない限り、悪夢の旋風は回り続けてしまう。
それに終わるとしても問題があった。
【ゾンド・ヴィーベル】は収束型と発散型の二つの終わり方がある。
収束型は旋風が一点中心に収束し、被術者を粉砕乃至灰に変えてしまう終わり方。
発散型は旋風に着火させ、大規模爆発を起こし終了させる終わり方。
一番いいのは魔法解除であるけれど、暴走した兄さんが解除なんてするわけはなく、外にいる先生たちの魔法も通じない以上、そのどちらかになるはずだ。
収束型なら、旋風に呑まれた先生が運良く水属性魔術師だったから助かる可能性がある…………。
でも、発散型なら少なくとも校舎は全壊。校外、街にも被害が出るかもしれない――いや、この規模なら必ず出る。
無理だ。やはりどちらにせよ死者は免れない。兄さんのあの魔法を、灼弾を受けきれなかったような水魔法では対抗できるはずがない。
それにもしかしたら……もう………………。
俺は立ち上がった。
『【水球】』
俺は初級の、殆ど訓練したことのない水魔法を立ち上げ、
『纏え』
【水球】の周りを灰で覆った。これならば、本命の水魔法の威力が下がってしまうが、灰の旋風に入り込めるかもしれない。
『いけぇぇぇ!!』
灰を被った水魔法が黒い旋風に突撃する。
弾かれることなく吸収され、内部で水魔法が炸裂した――――が。
焼け石に水。あんな小規模の魔法じゃ兄さんの旋風は止められない。
『くっそ…………』
その時、急に俺の視界が平衡感覚を失った。
とうとう倒れたのだと。横になった世界では旋風は止まっていたように見えた――――。
◇
俺が目を覚ましたのは事件から三日後、保健室だった。
俺は何発か殴られた程度だったから病院には連れて行かれず、準備校で治療を受けた。
他の二人は病院に送られたようだが、子供の回復力もあって後遺症は残らなかったようだ。
旋風に巻き込まれた先生も瀕死だったようだが、一命を取り留めたらしい。
そう、兄さんは自分で魔法を解除した。
そして兄さんは軍警に連行され、その後魔法研究機関に送られ、俺が目覚めた頃には既に自宅謹慎処分になっていた。
俺もまともに生活できるようになってから、学校や軍警に事情聴取され、できるだけ嘘が無いように報告をした。
父さんもその頃、家に帰ってきていて、俺にも兄さんにも特に怒ったり、罰を与えはしなかった。
確かに、兄さんでなければただの子供の喧嘩にすぎないようなことだった。兄さんが力を持ちすぎたゆえに起きてしまった事だ。
その後、兄さんは準備校を自主退学し、入学予定だったツァルフィルアラ川国の宮廷魔法学校には行かず、父さんの勤務先の魔法公学校に進学することに決めた。
俺は準備校を止めなかったが、進学先は兄さんと同じところにすると父さんにダメ元でお願いしたが、意外とすんなり認めてくれた。
あれから三、四年ほど経ついまでも兄さんとはまともに会話ができていない。
あの事件以降、俺は兄さんに恐怖を抱くようになっていた。
兄さんは人を殺せる魔法を使っているときも、人を殺しかけた後の生活でも、立ち振る舞いも、目の輝きのなさも、何も変わらない。
あの事件以前までは兄さんにはいつもポケーとしているような間の抜けたような印象しかなかった。
その抜けた間に俺がいるから兄さんは俺が見えていないのだと。
でも、いまは兄さんは全く何を考えているか解らない怖さがある。
兄さんはみっともなくぼろぼろになった俺を見ても、醜男たちと睨み合っているときも、最初に魔法を発動したときも一切表情が変わらなかった。
だからもしあの時、義憤などに駆られて我を失って魔法を発動したのではなく、俺を、弟を助けるという大義名分のもとに殺傷力の高い魔法を試し打ちしたと言われても、俺はその説を即否定できないだろう。
もしかしたら…………そうなのかもしれない。
そう、考えてしまうことがある。
それを父さんに話したこともある。
兄さんは戦闘狂なのではないかと。殺しに既に馴れているのではないかと。
俺のことは見えていないのではないかと。そして、本当は兄弟ではないのではないかと。
――父さんは言った。
『ファルツは私と同じくらい、お前のことを愛している』
と。
しかし、それはなんの説得力もない言葉だった。
俺は端から父さんを信じてはいなかったのだ。もちろん、兄さんも。
なのに、襲われれば兄さんが俺を助けてくれるかもと期待したり、思い悩めば父さんに相談したりしてしまうのは逃れられない血の縁というものなのか。
それ以来、俺は兄さんや父さんに追いつこうとするのは止めた。灰魔術は練習しなくなった。
俺は水属性魔術師を目指すことにした。
俺は、兄さんや父さんを見返せるような――斃せるような――魔術師を目指すことにした。
その意思表示をこの、武技競戦でしてやろうと思った。
――しかし
消えたッ!?
やつは砂埃の向こうに見えなかった。
一瞬俺の思考が停止する。やつの速さは危険だ。
見失うのが一番危険であったのに。
すぐに、後ろを振り返る。既に俺は守勢になっていることに気がついて少し腹がたった。
いないッ……!?
そんなバカな。四方どこにも…………。
――上……だと……。
気がつけばやつの刃は俺を縦に両断せんとしていた。
くそったれ!!
それは落雷だった。全身に振動が伝わり、身体中が痺れて励起する。
休む間もなく斬り上げられる。それを防ぐのは見えている以上、難はない……が。
――なんで、こいつ。笑っているんだ?
やつの口角は上がっていた。
俺はこんなにも必死なのに…………。
こいつ、笑っていやがった。
――叩き切ってやるッ!!
が、俺の身体は……不完全な身体は応えちゃくれなかった。
「なッ……に………?」
俺の両手は震えきっていた。まともに指も曲がらない。感覚もなかった。
落ちた剣に手を翳しても触っている感覚などなく、見ればまた地面に落ちていやがる。
――いや、まだ……まだだ。
そんな時、俺の胸元に銀色の咎めが。
――い、いや、お、俺は、まだ……戦える……はず……なのに……。
俺は顔を上げられなかった。
――負けた。
なぜだ? どうしてだ? どうして俺は庶民にすら勝てなくなっている?
俺はいつか兄さんと父さんを超えるためにここに立ったのに……。
父さんと兄さんに「お前ら見ていろよ!」と伝えるためにここに立ってきたのに……。
またか。また……まだなのか。まだ俺は誰にも……。
汗が地面に落ちた。
「アレイくん。顔を上げなよ」
やつの声か? なんだ。上から……。
いや、俺は確かに負けたんだ。
こいつはすごい。俺みたいに家名もないのに、みんなこいつを「潤女玲」と決まって呼ぶ。
個性ある一人として学校内で認識されている。
俺は黙って顔を上げた。
そいつは拍手喝采を大歓声を浴びながら俺の前に立っていた。
背丈は俺より10cmも小さいはずなのに、俺より10cmは大きい存在に見えた。
「アレイくん。これは君への拍手だ!」
やつはそう言って、両腕を広げ、笑顔で俺の事を見た。
「お、れ……への?」
――いい試合だったぞ!!
――俺はこのままやったら黒が勝つと思った〜
――見てただけなのに汗かいたぁ ナイスゲーム!
――惜しかったなぁ……
「アレイくん。二階の右の方」
俺はやつが言った方向を見てみた。
「……兄さん!?」
見に来ていた……いや、俺を見に来たわけじゃ……
その時、俺は兄さんと眼があった気がした。あの虚ろな目と。初めて……。
「……兄さん?」
兄さんが笑った?
気の所為などではない。はっきり……ではないけど、たしかに閉じた口の両端が上がっていた。
「兄さん……。ぎこちないよ……」
ああ、目から何か流れてきて仕方ない。
なんだこれは……塩っぽい。汗か……?
「あ……あ゛あ゛あ゛……うッ。くっそォ」
俺だってぎこちないじゃないか。