第一話 真夜中の逢瀬
新月の夜、それは存在していた。草木も眠る深き夜、漆黒の中それは確かに存在し眼前に眠る少年を凝視していた。存在の姿は漆黒の中に沈んでいて、ただ薄布が擦れたり揺れるような音が空間を支配している。
月明かりもなく空間は闇に染まっていたが、存在の目の前の少年は血の染み込んだぼろぼろのローブを着ており、さながら旅装といった風体が闇の中でただ切り出されていた。眠りが齎す寝息は深く、深く、深く、この空間に響き時間の流れを感じさせている。空間にほのめく覚醒の気配。寝息は徐々に小さくなっていき、やがて漆黒の主に少年の目覚めを告げる。
「名は?」
暗闇にそぐわぬ透き通った声。少女のような声音と歳を重ねた者のような物言いは少年に安心感を与える。次第に少年の意識は覚醒し、少女の声のする方へと目を向けた。一見暗闇、しかしながらその闇の中に艶めく一対の碧い眼、金色の髪がしかと存在している。
「……ぁ。うぅ…」
何時間、何日眠っていたのだろうか。彼の喉はすっかり乾ききっておりしわがれた声がただ絞り出てくるだけであった。その上体も鉛のように重く床の冷たさすら冷たいと感じないまでに冷たくなっている。
「……そうか、三日も寝ていれば身体も渇くだろうな。こんなものしかないが、ほれ。飲むといい。」
金色の方から何かが差し出され、それを口にあてがわれる。柔らかい質感と冷え切った身体には熱すぎる物体の温度。そこから口内へと滴る液体。…瞬間、少年の口内には鉄の味と体温の温もりが広がり、この液体が生物の体の中を巡るソレであると知覚し思わず咽せる。
「すまんな。ここで飲めるモノなんてコレくらいしか無くてな、許せ。そして再度問おう、少年、名はなんと申す?」
金色から再び投げかけられた問い。少年の口内は未だ鉄の香りに支配されているが、香りは彼の脳内へと訴えかける。
これが生の味である、これが生の匂いであると。
生の香りはこの上なく彼の意識をより浮上させ問いに対する答えを手繰り寄せる。
「……お気遣い感謝します。口にさせて頂いた飲み物、私の口にはこの上なく甘美でありました。……うっ、この身は、身の上を明かせぬ身であります。切にご容赦ください。」
ただ、少年は幾ばくか閉口したのち逡巡した様子で金色に告げる。
「……ただ。ただアルとだけ告げさせてください。私はただの″アル″という名を持つ男であると。」
瞬間、金色の目が輝いたかのような錯覚をする。闇の中で爛々と光る碧眼は相変わらずその碧緑を誇示しており、決して変わった様子はない。
しかし、彼が名乗ったやいなや明らかに金色は興奮を隠せずにいた。この少年が放った一言一句がその感性を刺激し、少年への興味を掻き立ててくる。そして金色はくすくすと笑うとこみ上げた言葉を紡いだ。
「……甘美、甘美とな!……ふむ、アルよ。キミが何を飲んだか存じているだろう。それを、甘美と。…身の上はよい。私はそのようなこと知りもせぬ。私はただ名を問うたのだ、それでよい。」
金色が差し出した自らの腕、それに口づけ嚥下される自らの血液。金色は乾いた少年に対してそんな施ししかできないことに対して本心から申し訳なく思っていた。であるにもかかわらずこの少年は甘美である、と自らの血液に対し評した。また、金色自身も少年が血液を甘美であると思ったこと、そのことについては本心からの言葉であると根拠のない確信を持っているのだ。
「……返礼しよう。我が身もまた名乗ること憚られる身である。」
暗闇の中で、金色は未だその碧眼と黄金のみが少年の瞳に映り込む。だが、少年は溶け込むような闇の中で福音を紡ぐ唇の運びを然と感じていた。
「この逢瀬を、この時を無二と感じるならばこの名を刻んでほしい。」
霞む視界と訴えかけてくる飢餓感。彼の全身が訴えてくる不調を制し、眼前の存在が紡ぐ一音一音を零さぬよう全霊で意識を保つ。その姿は偶像に一心に願い祈る信徒の様であった。
「……我が名はイル、漆黒に沈みしイルと、この名を刻んでほしい。」
イル、閃光に通づる名はこの金色の主に似つかわしいと少年は感じた。
「……イル様と、そう呼ばせて頂けないでしょうか。あなたは私に眩しすぎる。」
「……ククッ、漆黒に眩しいなどと奇怪な表現をアルはするのだな。子供が礼儀など気にするでない。君が自身をアル、と呼ばせたように我が名もまたイルと呼んでほしい。」
少年は金色、イルの固持に思わず口元が緩む。自身の頬の紅潮を、血の巡りを床の冷たさが教えてくれる。この瞬間ばかりは自分から彼女の姿を覆い隠す暗闇に、自分の表情を隠してくれたことを感謝せずにはいられなかった。
自覚は無いものの、少年は童心ながらにも内に芽吹く好感は少年の中で初めて出会う感情としてひどく持て余していた。
「……イル、イル、イル。イ……ル……。」
アルの意識はだんだんと傾聴にすら集中できないくらいに遠ざかっていった。その時彼は、せめて、せめて金色が自分に告げた名だけは起きても忘れぬよう、身に刻むようにその名を唱え続けた。
薄れゆく意識の中、アルのぼやけた視界に陽光が差し込んでくる。深き夜は旭光にて引き裂かれ、夜の主の姿を燦然と映し出す。少年の瞳に映し込まれるは黄金と碧緑、それを強調する漆黒のナイトローブに身を包んだ彼女の姿であった。
第一の逢瀬は陽光に終わる。