ある日、森の中
林間を縫うように滑りぬけ、ただただ東へひた走る。
剣を片手に、旅人さんを追って。朝露に濡れた草地を駆け抜けながら、未だ見えない背中に焦りを覚え始めていた。
(村から出て30分は走ってきたけど……っ! まだ、見えないし、っていうか、ちょっと、きっつい……!)
早々に限界を迎えて足を止める。舐めんなこちとら村娘、慣れない森を30分も走ってこれただけで上出来ってもんでいこんちくしょう。
水の一滴も欲しかったけど、着の身着のまま飛び出してきたもんだから水筒なんて小洒落たものはない。あるのはこの手に握りしめた一振りの剣だけ。
「さすがに……。早計、だったか……」
肩で息をしながら近くの木で体を支える。しんどい。
かなりのペースで走ってきたけど、旅人さんの気配は無い。どこかですれ違ったのか、というかいつの間にか道を外れて林に突っ込んだけど方角はこっちで合ってるのか、そもそも旅人さんとは私の空想上の人物で実在してないのではないか。
世界に広がる可能性が無限大すぎてめまいがしそう。
「はぁ……。諦めて、帰ろうかな……。もしかしたら向こうが気がついて取りに来るかもしれないし……」
これ以上労力を裂くのは懸命とは言えない。突っ走ってきてしまったけど、人里離れたこの場所は魔物が闊歩する危険な土地だ。
もしもそんな場所に戦闘能力に欠ける村娘Aが迷い込もうなら、巡り合う運命は大体どれもロクなものにはならないだろう。
それは例えば、力尽きて休憩しているところを襲われるとか。
「ぐるる」
「あ、どうも」
目の前に現れた森の熊さんは、筋肉質な体躯を盛大に隆起させながら、可愛らしく小首をかしげた。
森林の王、黒月熊。いつかの酒の席で冒険者さんが言っていた。いつの日かこれを倒すのが目標だと。
そんなことはいい。今重要なのは、ある日森の中熊さんに出会った村娘Aがどういった命運を迎えるかだ。
「この辺を縄張りにしてらっしゃるんですよね。少し休んだら出ていきますので、命だけは助けていただけませんか?」
案外話せばわかるタイプかもしれない。にっこり笑って命乞いなんかもしてみる。
死にたくない、死にたくない、死にたくない。冷や汗が頬を伝い、眼前に迫る暴力の化身に身をすくめて怯える。脳裏に閃くのは生存本能のレッドアラート。
お願いします、どうか見逃してください。私には父上様からあの宿屋をかっぱらうという大望があるのです。それを成し遂げぬままにこんなところで若い命を散らせたくはありません。
可愛らしい熊さんは可愛らしくない筋肉をモリモリ誇示しながら、好奇にらんらんと輝く瞳のままにたたたたっと駆け寄ってきて。
豪腕を振り上げ、私の素っ首目掛けて振り下ろした。
「やっぱりいいいいいいいい!」
全力で体を横に投げ出し、全身を草まみれにしながら無様に転がる。
分かってたよ、話が通じる相手じゃないことなんて。でも現実を認めたくない日だってあるんだ。
くっそ、厄日だ。なんてこった。ついてねえなこんちくしょう。
「逃げなきゃ……、逃げなきゃ……!」
剣を杖にしてよろよろと立ち上がり、走り出そうとして、また転んだ。
さっきの転倒で足首をひねったらしい。無理に立とうとするとズキリと痛み、走ることなんて到底無理そうだ。
これは、さすがに、笑えない。
「嫌だ、嫌だ、まだ死にたくない……!」
尻もちをつきながらも魔法を編む。獣には、火。飛散しかけた悲惨な思考ではそれしか考えられなくて、必死に編み上げた魔法は手のひらほどの小さな火が灯すだけだった。
熊さん、さしてビビる様子も無し。獰猛な唸り声を上げながら平然と近寄り、鼻息のひとつで私の魔法を吹き飛ばす。
泣きたい。泣きそう。なんで私がこんな目に合わなきゃいけないんだよ。ああくそ、いつもこうだ。
とかく私はツイてない。賭ければ負けるし出かければ怪我するし、天運ってやつにはつくづく縁のない人生だった。
次に生まれてくる時は、もっと天のお星様に愛される人生を歩みたいものだ。ちらりと脳裏をかすめたその考えに、私は吠えた。
「んな……、諦められっかよこんちきしょうがッ!」
悪態を吐く。次に生まれてくる時は、だァ? ミーチェちゃんにしては珍しくお花畑な頭してんじゃねえか。
うるせえ黙れ簡単に諦めんな、今を生きないやつに次なんて二度と与えられねえんだよ。母上様はいつもそう仰っていたじゃないか。
生きてやる。この星の全ての命を引き換えにしたとしても、私は最後まで生きてやる。我が身が可愛くてたまらない。
無意識に掴んでいたものを引き抜く。生きるか死ぬかの瀬戸際に、世界で最も価値ある私の命を預けたもの。
それは見惚れるほどに優美な、一振りの剣の形をしていた。
「……ぐる?」
「いいこと教えてやるよ、熊っころ。私の親父は今でこそ飲んだくれだけど、母上様と宿屋を始める前はそれなりに勇名を馳せた剣士でね」
父上様が剣を振る姿を見たのは二度だけ。女子供に見せるものではないと普段は隠しているが、あのときの剣筋は脳裏に焼け付いている。
どこまでも研ぎ澄まされた、揺らぎが介在する余地すらない純なる技。かつて頂を極めた親父の剣。幼いながらもそれを見て、私は。
「獣よ、獣よ。寒村に封じられし剣技の頂、その身を持って味わいたくば首もて来たれ。案ずるな、汝が魂は誇りと共に風に葬って――」
「ぐる、ぐるるるっ」
「ひゃーん!」
熊さんがちょいっと小突くと、剣もろとも私は簡単にひっくり返った。やっぱダメだ。こんな刃が付いただけの金属棒じゃ人は熊に勝てない。当たり前だ。
っていうかそもそも、ミーチェちゃん剣なんて持ったこと無い。母上様からは魔法の才は受け継いだけど、父上様からは特に何ももらっていない。母親似なのよ。
自分の中に眠る秘された剣才の覚醒に失敗した私は、ぺたりと座り込んで熊さんを見上げる。いよいよ持ってこれまでか。
「おさらば」
母上様、あなたの教えを守れなかった私をお許し下さい。今御下へと参ります。
握っていたものを抱き寄せて、ぷるぷると震えることしかできなかった。恐怖が吹っ切れて感覚が麻痺する。震えるような咆哮が耳をつんざき、丸太のように太いけむくじゃらの腕が迫って――。
眼前で、衝撃とともに跳ね返った。
「……え、うぇ?」
「ぐるらぁっ!」
よだれを垂らしながら熊さんが私目掛けて突撃を繰り返す。それは、私を中心に展開する障壁に弾き返されていた。
抱き寄せていた剣の鞘。剣に負けず劣らず壮麗な意匠が施された、月光のように黒く透明な鞘は、鳴動とともに強く明滅している。私の命を拾い上げたのはこれらしい。
何がなんだか分からない。首の皮一枚繋がったのは確かだ。とにかく、何か、生存の一手を。
「痛っ……!」
立木に体を預け、痛む足を抑えながら立ち上がる。地面に転がる優美な剣を拾い上げ、熊さんに向けて切っ先を向ける。
右手に太陽の剣、左手に月の鞘。村娘Aには似合わない装備だ。旅人さん、剣借りるけど文句言うなよ。こちとら今にも死にそうなんだよ。
鞘から発せられる鳴動が収まると、私を中心に展開していた結界が消失する。
やるしかない。やるしかないんだ。
「やらなきゃやられる……。やらなきゃやられる……。やらなきゃ、やられる……!」
心の中の乙女ゲージをガリガリと削り散らして、半泣きになりながら剣を構える。もういい、分かった、やってやる。
戦う術なんて知らないし、血の気もそんなに多くない。喧嘩なんてここ数年はからっきしだ。それでも私はやらなきゃいけない。
あるのは生きたいという強い意志と、戦うための剣。それ以上は与えられない。
「ぐるおうぁっ!」
「わああああああああああ!!」
無我夢中だった。
熊さんの突進を左手に握る鞘の力で弾き飛ばす。痛む足を無視して右手の剣を右から左に振り抜く。
斬る、という行為にすら達していない。振り抜いた金属の塊をただぶつけただけ。
しかし、それで十分だったらしい。
「……へ?」
ざぱっ、と。
水が詰まった革袋を裂いたような感触が手に伝わる。跳ね返った鮮血がびちゃびちゃと頬を濡らす。
あまりにあっさりと。ただ一振りの剣で、熊さんの上半身と下半身は容易く分かたれて。
私の手の中で、ひとつの命が散っていった。
「ひっ……、え、あ、や……っ!?」
どう、と熊が倒れ伏す。おびただしい鮮血を撒き散らしながら。
こぼれ落ちたぐちゃぐちゃの臓物が美しい草木の緑を汚し、生臭い血臭が鼻を突く。
殺した。私が、殺した。今日まで続いてきた命のひとつを、私がこの手で終わらせた。
血溜まりの中にへたりこむ。心の防衛機構が現実を拒絶し、空虚で曖昧な感覚に迷い込む。
ゆらゆらと揺れる感覚の中、目の前の現実を忌避したくて、目が逸らせなくて。血溜まりの赤だけが目に入って。
私は。私は。私は――。
「大丈夫?」
声をかけられて、私は現実に戻ってきた。
へたりこんだまま見上げると、そこには心配そうな顔をした旅人さん。
「初めてにしては上出来だね。大丈夫、僕も最初はそうだった」
「え、ちょっと、なんで……? 何が、どういうこと、なんですか?」
「こっちの話。ほら、立って」
状況に理解が追いつかないまま、差し伸べられた手を握って立ち上がる。
探していた人が現れたというのに、途方もない空虚が胸の中に空いた気がして。不思議と涙が湧き上がってきた。
「あーっと……。そうか、そりゃ泣くよね。ごめんごめん」
「そうじゃなくて、えっと、待って、なんで旅人さんが居るんですか!?」
「…………」
涙をぬぐいながら問うと、旅人さんは少し考え込んだ。
「……星月熊の声が聞こえたから来たんだ。そしたらこの状況に出くわした。偶然だよ、偶然」
「もう少し、早く来てくださいよ……」
「ごめんって。それより足首ひねってたね、見せて」
旅人さんに促され、熊の死体から少し離れたところでブーツを脱ぐ。
ひねった箇所はじくじくと腫れ上がり、冷たい外気に晒されて刺すような強い痛みが走った。
「触るよ」
私の返事も待たず、旅人さんは指先に灯した光を患部に当てる。回復魔法、それもかなり高等な。
巻き戻るように腫れが引いていき、数秒もすれば痛みも静まった。まだ少し痛むけれど、これならすぐに歩けるようになるだろう。
「応急処置。すぐ良くなるから、もう少し安静にしてて」
「……ありがとうございます、助かりました」
木立に背を預けて体を休める。思わぬ大冒険になってしまった。でも私はまだ生きてるし、もう少ししたら村に帰れる。
旅人さんが手渡す水筒を受け取り、喉を潤すと心にゆとりもでてきた。元はと言えば私がこんな目にあったのはこいつのせいだ。おうおうおう、どうしてくれんだよこんちくしょう。
……やめとこう。今は悪態をつく元気も無い。
「それじゃ、そろそろ僕は行くよ。悪いね、これでも先を急ぐ身なんだ」
「はい、お気をつけて。後これ、忘れ物なんですけど――」
「お元気で。今度会ったらゆっくり食事でもしよう」
そう言って旅人さんは消えた。
私が差し出した剣を受け取る前に、瞬きするような刹那に。旅人さんはもう居なくなっていた。
「え……、えっ。ちょっと、え、嘘でしょ」
さーっと顔が青ざめる。剣、渡せなかった。
おいおい、マジかよ。剣置いてっちまったよあの人。どーすんだ。
立ち上がって後を追おうにも足が痛む。吹き込んだ風が体の熱を奪い取り、私はしばし呆然としていた。
*****
「ててて、てーへんだ! てーへんだ! おやっさん、あんたんとこのミーチェが、勇者様を追って出て行っちまった!」
宿屋に駆け込んできた門番の知らせを聞き、酒瓶を片手に昼寝を決め込んでいた男は片目を開く。
「……そうか、行ったか」
男に動揺は無い。いつかこの日が来ると分かっていた。
この村に現れた勇者と、彼が残した言葉。それは随分と唐突なものだったが、その時には既に覚悟は決まっていた。
親として。父として。思うことはひとつやふたつではない。しかし全ての想いを酒と共に飲み下し、あの男に娘を託した。
「放っておけ。そのうち戻ってくるだろうよ」
「でも、今の時期の森は熊がうろついてんだぁよ!?」
「熊ぐらいどうってことはねえ。あれは己の娘だぞ」
今頃ざばっと斬り伏せてるだろうよ、と男は呵々と笑い、酒瓶をぐいっと煽る。
娘の前途に幸あらんと祈ったが、物寂しい気持ちは隠しきれない。強い酒精でごまかして、男は再びごろりと寝転がった。