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戯-たわむれ-  作者: 櫻月 靭
一日目~ショッピングモールの話~
4/53

第一章3 『お会いもの』

3(AM 10:35)


 どのショッピングモールにも必ず存在する場所。

 それが何なのか、分かるだろうか。

 この大型ショッピングモールの中央部分に存在している。l

 インフォメーション。

 来訪者に対してフロアの案内を行ったり、問い合わせや質問に答える場である。よく、イベントなどの情報をアナウンスしているのを耳にするだろう。ショッピングモールの情報屋だ。その内、迷子案内を頼まれる事も多い。なくてはならない場所と言ってもいい。

 今は携帯電話という画期的機能があり、子供専用携帯も出回っているこの時代必要か?と思うだろうが甘い。そんなものがあろうがなかろうが好奇心旺盛な子供に意味はなし。幼い子供は持っていないのと同じ。といっても迷子案内は探されている側より、その周囲の人間の方が聞いていることが多いかもしれない。

 そんな場所に祥と柳静はいた。

 本日定番化しつつある絶望オーラに包まれた祥が床に手を付きうな垂れ、その横に腕組みをしながら無表情で友人を見下ろしている柳静が。なんとも悪目立ちの二人組みだ。

「嗚呼・・・・絶望絶望・・・超絶望。今日一日何故俺はこんなにも不運と絶望が続いているのだろうか。俺はもしかして神に見離された哀れな羊なのだろうか・・・。そうだそうに違いない、いやそうであってほしい・・。つうか、こんな言葉をこの場でさらりと言ってしまう俺、格好いい・・・」

 完全な崩壊状態(ナルシストだけが残るというウザイ状態)の彼がこうなってしまったのはこうだ。


 以下回想。

 甘ドから立ち直った後。

 ショッピングモールの二階にある、祥お気に入りの男性服専門店『スパイラル』へ三人で向かうためエスカレートに飛び乗った。瞬間、祥は足を踏み外し背中から転倒。そのままの体勢で上へと運ばれていき、周囲からの苦笑や心配の眼差しを頂き、ついでに近くにいた「ふざけているとこうなるから気をつけるんだぜ」ともう遅い自分へのフォローと無駄な格好良さを披露した後入店した。

 流石セール中なだけのことはあり、スパイラルは「全品三割引!」という紙がそこら中に貼りだされており、値札をみるだびに興奮で(なみだ)を垂れ流しそうになるのを抑えていた。

 しかしそのまま気持ちよく興奮状態を維持させてくれればよかったのだが、そうはいかないのが祥だった。

 新商品を含め、店内をとりあえず一周した際、とある商品の前で膝を崩したのだ。

 突然目の前で客が膝を崩したので、店員が慌てて「大丈夫ですかお客様!」と声をかけた。それが常連である祥だと気付いた店員は、目の前の商品と祥を交互に見遣ると、肩をぽんぽんと二回優しく叩いた後、「何かすみません」とだけ呟いた。

「はぅあ~。今日は本当についていないなぁ、もう。聞いてくれよ我が妹。お兄ちゃんウルトラ級ショックを・・・・」

 そこで祥の言葉は止まった。

 「ありがとう、大丈夫です」と店員にお礼を言い立ち上がり、妹にこの嘆きを聞いてもらおうと店内を見渡した結果、同伴者が一人いなくなっていることに気がついてしまったからだ。

「ダイレクトアターック!!?」

 祥は二回ものダイレクトアタックを決められ、ライフを大幅に削られた。

「どうしました?祥。いくら自分好みの服を発見したからと、店内に響き渡るほど歓喜しなくてもよろしいでしょう」

「俺の今の叫びをどう解釈したらそうなるんだ!おまっ、蛍は!?」

「?知りませんよ。先程までこれお兄様に似合いそうとか独り言を言っていましたが、そういえばいませんね」

 ただの傍観者として祥についてきた柳静は、そこでようやく一人いない事に気がついたらしい。ぐるりと店内を見渡し、姿が見えない事を確認すると、面倒くさそうに嘆息(たんそく)()らした。

 回想終了。


 そんなこんなで、現在インフォメーションカウンター前。

「うおぁああああああ!蛍!?何処へ行ってしまったんだ、マイシスター!」

「・・・・うるさい。今日は何時(いつ)にもなく(うるさ)さが倍になっている」

 蛍の姿が見えない事に完全にパニックを起こした祥は買い物を中断し、急いで妹の名前、年齢、容姿を話しアナウンスをかけてもらった。途中から好きな食べ物や得意料理、身長、蛍のどこが愛らしいのか等のどうでもよい情報まで提供し始めたので、柳静が強制終了させた。

「ちょ、柳静!妹が迷子になって傷心している友人に煩いとは冷たすぎるぞ!」

「今呼び出してもらっていますから大人しく待機していなさい。騒いでも仕方がありませんよ。それよりも・・・・」

 アナウンスをしてもらい、後は本人が現れるのを待つだけなのだが、その間に柳静は気になったことが一つや二つ・・・・・。

 まずは祥。

 肩にかかるくらいまで伸ばされた髪は黒色に前髪は白のツートーン。毎朝ハードタイプワックスでセットしている、祥のアイデンティティ。しかし今の祥は違った。

 髪は白一色に。どうやったらそんなに綺麗に脱色するのだろうか、あいつマジシャンなのか?と周囲は怪訝(けげん)そうな視線を寄せる。それを代弁(だいべん)するかのように柳静が口を開いた。

「・・・本当に綺麗に髪が変化しますよね。人は多大なるストレスを感じた際、白髪が増えるとはいいますが。一瞬で全て白髪になるとは誰も予想しませんよ」

「・・・うん。俺もね、自分の髪ながら不思議な髪質だなぁって思う」

「髪質で済ませますか・・・・。これを」

 祥は四つん這い絶望ポーズから動かず、己の髪の見事な変化っぷりに少々感心した様子。己の摩訶(まか)不思議な髪をあっさりと髪質の一言で済ませるあたりを、どうしたらよいかと柳静は心の中で呆れを通り越して感服するしかなかった。

「はっ!柳静・・・。俺・・・、気がついたことがあるんだけど」

「?」

 がはっ!と突如顔を上げた祥を怪訝そうに見下げる柳静。

「俺・・・・・・」

「俺?」

「白髪の時も、実は格好いいんじゃないか?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 たっぷり一分間。二人を静寂が包み込んだ。互いが互いを見つめる図がここに。

 静寂な空間を破ったのは柳静だった。

 無表情のまま無言で羽織を脱ぐと、軽く投げつけるように且、汚したくないのかギリギリ床に付かないよう、祥に被せた。ベージュ色の羽織は祥の足以外を隠す形で被っているため、周囲から更に遠巻きにされてしまった。

「え、何?蹴るわけでもなく殴るわけでもなく、ただただ羽織を被せるだけって・・・・え、何のプレイですか?柳静ちゃん」

 普通この場合はツッコと称し物理攻撃をされるものだと思ったが、柳静はただソフトに自分の羽織を被せるだけだった。その行為が逆に恐怖心を(あお)って来る。冷や汗が頬を伝う。がくがくと両腕が震える。

「いえ。公共の面前で暴力を働くのもどうかと思いまして。幼子も多いですし。それにこうして姿を隠してしまえば、もう髪型がどうのスタイルがどうのと言えなくなるでしょう。今の貴方は『ただの四つん這い尻出しお仕置き待ちプレイ中の変態』としか思われないでしょう」

「プレイ名長ぇ!!?もっと端的(たんてき)に言えよ!」

「『変態プレイ』」

「うん確かに端的だけれども!!」

「我が儘ですね・・・・。では『快楽待ち』」

「救いようがなくなりましたぁ!」

「もう名などどうでも良いでしょう。そんな事よりも、今の貴方の格好が・・・・ぷぷっ」

「よくねぇ!って何笑ってんだ、アホ柳静!!?」

「いえいえ。貴方が言葉を発するごとにカウンターの女性職員の表情が引き攣っていくものですから」

「えっ・・・・・・・」

 珍しく噴出し笑いをしている柳静の視線の先、迷子アナウンスをしてくれたインフォメーションのカウンターに座っている右側の女性が、二人のやり取りを苦笑交じりで眺めていたのだが、祥の現在の姿には軽く引いてしまっている。

 ちなみにカウンター左側に座るもう一人の女性は現在電話対応中。こちらが気になっているようだがそこは仕事優先。

「い、いや、お姉さん!違いますからね!俺はプレイ好きの変態さんじゃありませんから!いえプレイは好きです!ただ変態ではありません!」

「フォローのつもりですか?それ。プレイ好きな時点でもう変態の仲間入りですよ」

「うるせぇ!あ、そうだ、違います言い直します。俺は妹大好きお兄さんです!」

「その言い方、何も解決していませんから。プレイ好きの変態に『妹』というオプションが追加されただけです」

「オプション・・・・良い言い方するなぁ。妹・・・・、オプション・・・・」

「もう黙っていた方が少しはマシになりますよ」

「な、なんだよ!この洋服嫌いの着物男児め!」

「それ、悪口だと思ってます?」

 ムフムフと気色の悪い妄想を始めようとした祥に、柳静は切り捨てるように言った。それに対し、低いレベルな言い返ししか出来ないのが祥だ。しかし、ここで負けてしまってはいつものと同じパターンだ、と負けじと主張を続ける。

「お。俺が周囲から四つん這いでプレイをお楽しみ中の変態だと思われるのなら、お前だってこんなショッピングモールに祭り以外の着物姿披露中の青年としてさっきから視線を集めていることに対して一度でもいいから動揺するなり気にするなりしてみろよ!」

 検事側、祥の必死の主張。

「特に気にする必要はないかと。これが私の私服兼日常ですので一々物珍しさの視線に付き合っていては過ごせません」

 弁護側、柳静の正当な反論。

「まぁ確かに夏には花火大会やいろんな祭りで着るし、着物ではなくても甚平も着る人もいるが!世間一般的ではサスペンスで登場するどこぞのお家元が着てるっていうイメージだろうから、実際にこんな大型ショッピングモールで若い男が着物を着ていたら珍しく思うだろう!」

「ここには呉服店もありますから最悪の場合店員さんだと思ってもらえます」

「店員なら首からスタッフ証明カードを下げてるよ」

「ふむ・・・・・最近の若者は都合の良いように使用し過ぎなんですよ。洋服ばかりに気を持って」

「時代の流れだ。逆にお前は洋服も毛嫌いし過ぎ!呉服屋の主人だって若い膝上のドレスを着たキャバ嬢と浮気してたぞ!」

 普段から無表情で物事に動じない柳静は、周囲から寄せられる物珍しさの視線を受けても動揺一つしない。それに不満なのか、祥は一度くらい動揺してほしいという子供の我が儘のように自分の考えを押し付けてくる。

 着物に対するイメージは人によって様々だが、国民的アニメのお母さんみたいに特別な日以外で着用している人は身近で見ることはあまりないだろう。しかし、柳静は生まれてからずっと着物で生活しており、これが当たり前のことだと思っていたため、洋服が今や私服として主流だと聞かされた際は戸惑っていたらしい。幼い頃は周囲からの視線が気になり、それが嫌で一時期外出するのを控えていたこともあった。

 それを忘れている親友の祥の言葉に苛立ちを覚えているかと思われた柳静だが、彼が気になったのはそこではなかった。

「はぁ・・・・・、貴方がサスペンス好きなのは結構ですが・・・。祥の着物へのイメージは遺産相続などのお家騒動で最初に殺害されるお家元、なんですね」

「家元もあるけど、次期家元を狙う長男夫婦っていうのもある」

 サスペンス好きで、平日の夕方やたまに土日にも放送する二時間もの、決まった曜日に放送されるのを必ず見ている祥は今、超ドヤ顔だ。きっと、知識を披露している俺って格好良くね、とでも思っているのだろう。かなりウザイなと柳静は心の中で呟いた。

 ふわっとしたクリーム色の髪を親指と人差し指で摘みながら祥を見下ろし、ため息を吐くのと同時に再度口を開く。

「少しはお家元から離れてください。どちらかといえば、国民的アニメのご夫婦が着物だと言った方が分かりやすくないですか」

「お父さん会社ん時はスーツだから洋服だけどな」

「散歩や就寝時は着物です」

「散歩も時々洋服だぞ」

「盆栽剪定時は着物です」

 細かいな、と祥が言うのを無視し、柳静は「というのはさておき」と話を元に戻す。

「何故こういう時に限って携帯電話を忘れてくるのですか?私にはあんなに持て持てとおっしゃるくせに」

「そういうお前も何で電池切れなんだよ!ちゃんと寝る前には充電するようにってプラスで言っておいたのに!」

 そう。蛍がいなくなったとしてもこのネット社会、さくっと携帯電話で連絡を取り合えば良い。それを出来なかった理由。

 祥は携帯電話を家に忘れてきてしまい、柳静は懐に財布とハンカチと共に入れていたのだが充電切れだった。

「そんな事言われましても。電池切れが無くなるなら無くなる前に一言、充電して欲しいと告げて頂ければ良いのです。何も言わずに切れられても知りませんよ」

「携帯にそんな機能を求めんじゃねぇ!!?」

 凪原柳静は機械に弱い。苦手、というのは多少なりとも使用出来るものが許される言葉なのでここはあえて、弱いという表現にしておきたい。はっきりと機械音痴(おんち)と言ってしまいたいのだが、本人に自覚が足りない。

 別に機械に触れずに今迄生きてきたとか、馬鹿過ぎて操作が出来ないとか、三種の神器が家に一つも置いていないとか、親が機械嫌いだとかそういう事は一切無い。柳静以外の家族は全員当たり前のように生活用品を使用している。ただ一人、柳静のみが使えないのだ。おまけに柳静は『機械に人間性を求める』という変な一面を持っている。

 例えば、携帯電話ならば話しかけるだけで一字一句間違える事無く自動入力しろだの、残り充電が少ないなら「充電してほしいでーす」と自分から告げてこいだの、置いた場所が分からなくなったらそれを察知して「私はここにいまーす」と声かけしてこいだの。どこぞの意思を持った未来型ロボットと同じ要素を求める節があった。夢を持つのは勝手だが。

 色々と言い訳をして行動しない馬鹿と同類扱いされても仕方が無いだろう。まぁ本人にそんな事を言ったら恐らく、いや確実に木刀で半殺しにされてしまうだろうが。しかも無表情で。

「テレビではよく未来型ロボットが意思を持って行動しているではありませんか。だったら携帯も出来る筈です。それにすでにアイフォンではメリーさんとかいう近しい機能が出来ているわけですから・・・・私の折りたたみ式携帯もきっと出来るはずです」

「シリーな。メリーさんの電話みたく言うな」

「メリーさんの電話?新機能か何かですか?」

「違ぇよ。ホラー映・・・・」

「あ、結構です。それ以上は」

「メリー・・・・」

「結構です」

 語句を強くし、祥の言葉を(さえぎ)る。

 柳静はホラーが大の苦手で、小学校低学年の頃、祥がレンタルショップから借りてきたホラー映画を見て気絶した事がある。大人になった今見れば、低予算で作られたことが否めない程、チープな演出で物足り無さを感じるかもしれないが。小学生という幼さのせいでただの人形がぽつりと廊下に立ち、それに気を取られている間にそれと同じ人形に肩を叩かれるという場面を見ただけで気絶してしまったのだろう(これをきっかけにホラー映画を断固拒否するようになったので、今現在において同作品を見ても平気かどうかは判断しかねる)。

 付け加えると、中学生に上がるまで兄と同じ布団で寝ていたという恥ずかしエピソードも、この映画がきっかけである。

 閑話休題。

 今後将来、可能になっていくかもしれないが、現時点で携帯電話が人工知能のように自分の意志と感情を持って話しかけてくる等不可能だという事を全く納得してくれない友人の言葉に、祥は頭を搔く事しか出来なかった。

 彼に何を言っても無駄だという事は長年の付き合いで分かっている。

 ここで一番効果的な方法・・・・・・。話を逸らす!

「ごほん。それはそれとして。こうして会話をしている間に多少の時間は経過したとは思うのだが・・・・。全っっ然!来ねぇじゃねーか!!」

「おや。きちんと頭の隅にありましたか」

「ありましたとも!俺が妹のことを忘れるなんてありえない!」

「迷子にはなりましたが。まぁ、買い物に夢中にでもなっているのでしょう。アナウンス自体聞いていない可能性が高いですね」

 思った通り、柳静は話を逸らされたのにも関わらず何もつっこんではこなかった。特に気にした様子もない。

「だからって・・・・!携帯二人とも使えねぇんじゃ、このアナウンスしか俺には妹を探す手段が残されていないんだぁ!」

 普段から蛍は勝手な行動に出ることはあまりない。必ず行き先を告げ、用事が済んだら携帯に連絡する等、きちんとしていたため特に心配することはないのだが、今回は行き先は聞いていないし、携帯がどちらも機能停止状態では最終手段に頼るしか選択肢は残されず。


「あああああ!マイ!スイート!!シスターーーーーー!!!戻ってきてくれええええッ!!?」


「祥、うるさいですよ。場所を考えなさい。そして静かになさい」

 シスコンの祥にとっては一大事以外の何ものでもない。たとえ四つん這いで着物によって尻だけ出ている状態であろうと、叫ばずにはいられなかった。

 そもそも蛍がいなくなったのは、祥が『スパイラル』で絶望ポーズを披露している最中。

 いつもなら一言二言発言してくる妹が今日はやけに無言だな?と不思議に思ったがもう遅い。後ろを振り向いたら自分の後ろをついて来ているものだと思っていた妹、蛍の姿はどこにもなかった。その後、全店舗を走り回って探したが、すれ違いでもしたのか最愛の妹と再会する事はなかった。

 こうして多大なるストレスを感じた祥は絶望ポーズの最終形態+髪色脱色という結果になったわけである。

 大型ショッピングモール入店から、わずか三十分での出来事にしてはなんとも騒々しい。

「あ・・・あの・・・。お客様・・・、大丈夫でしょうか?」

 見るに見かねて声をかけてきた、インフォメーションの女性。先程二人のやり取りに苦笑を通り越して引いていた右側に座っている女性だ。そして、蛍の迷子アナウンスをかけてくれた女性でもある。

 だが、そんな気遣いも今の祥の耳には一切入ってこない。というより、右耳から左耳に直通しているだけだった。

 インフォメーションの女性の言葉よりも、ただただ今迄の三十分という長くも短い辛い記憶を振り返ることにしか意識がいかないようだ。

「折角の土曜休み・・・・」

 ぽつり、と。頭を垂れながら弱弱しい声で心中を吐露(とろ)し始める。

「中々に取れない貴重な土日休みにありったけの感謝をシフト表にしたのに・・・・・」

「そこは店長ではないのですね」

「あ、店長ありがとう。それなのに朝から珈琲に塩を入れるしさ・・・」

「それは砂糖と塩の容器を洗ってから、貴方が間違えて逆に補充してしまったのが原因です。折角蛍が分かりやすく色違いのものを購入したというのに」

「はっ!だから朝食の俺専用のだし巻き卵が塩辛かったのか!蛍からの愛のムチかと思ってた!」

 冷徹な瞳で「とか思っていそうですので、言い訳をするのも面倒ですからそのまま放置しておくことにしましたの」と道中蛍に聞かされていた事を祥に告げると、一瞬ショックを受けながらもどこか嬉しそうにしていた。ちなみに、ただ今出し巻き卵特訓中の蛍は、練習したものを祥に出している。

「でもさ!自動ドアが反応しないってそんなのあるか?いつも来ている俺の事を忘れるなんて!」

 自動ドアが開くのは当たり前と無意識のうちに常識化していたため、約時速三キロで強化ガラスに激突してしまった。幸い激突したのがステンレスフレーム部分だった為、特にガラスが割れ、破片で怪我をするだのはなくただ一人、祥が右頬を痛めるというダメージを負うだけで終了した。

「あれは自分の速度に合わせて開いてくれると油断した祥が悪いです。私と蛍は少し止まってから入っていたというのに」

「でも何で開かなかったんだろうな」

 自動ドアは通行しようとする人や物を感知するセンサーと、ドアの開閉をコントロールする制御装置、ドアを動かすモーターなどから構成されている。ドアに近づく人や物をセンサーが感知して制御装置に信号を送り、モーターを動かすことで開閉する。だがセンサーは停止中もドア周辺の状況を読み取っているため、温度や湿度、太陽光などの影響を受けやすく、正しく感知しない場合がある。

 他にもベルトが伸びていたり、補助センサーが働いていない場合は挟み込み事故が起きる可能性が高いので、祥のように常識化している場合や、そうでない人でも危険な目に合うレアな日が来るかもしれない。

「そんな事は専門家ではありませんので分かりかねますが、そのせいでドーナツを購入出来なかった事をお忘れなく」

「うぐっ。さすが・・・容赦なく傷をぐりぐりとぉ」

 祥が頬の痛みで駄々を捏ねていたせいで目的のドーナツは完売してしまった事を、地味に柳静は根に持っていたようだ。小さい男だな、と思われようがそれを目的として早朝メールで起こされたのだから仕方が無い。

「全く。祥一人で大人しく待機していてくれれば出来る事はなかったのですよ。二十五にもなる青年がお留守番一つ出来ないのですか。いえ分かっていましたけどね」

「あ、あとで抹茶ドーナツ各種三個ずつ買ってやるから・・・許してもらえませんか?柳静サマ?」

 相変わらず無表情なのだが、祥は微かな表情の変化にも気付いているようで。柳静が楽しみにしていた抹茶ドーナツで手を打とうと考えていた。

 ちなみに限定ドーナツ詰め合わせには人気ベスト10が一つずつ入り、抹茶ドーナツは三位に位置づいているため、購入したら今日のお茶請けにしようと決めていた柳静。

「・・・仕方がありません。抹茶ドーナツ三個で手を打ちましょう」

「へ?三つだけでいいわけ?」

「はい。私、祥、蛍一つずつです。お茶請けには一つで十分ですから」

「優しい・・・・。そして相変わらず欲が無いな」

「別にいいではありませんか。逆に祥は欲がありすぎでは?人様のことをどうこういうつもりはありませんが、少し我慢していれば今日のセールで安く手に入れられましたのに」

 そう言いながら指差した先には、祥の着ているテーラージャケット。

「セールが今日明日行われると広告で予告していたでしょう。なのに人の話を聞かないで購入するから」

「ほ、欲しかったんだもんよ!あそこは俺好みのものばかりで欲なんて抑え切れねぇ!」

 実は今日着ているテーラージャケットは、数日前に購入したばかりのもの。セールの事前予告されていたが、一目惚れしてしまった祥は”買いたい”という衝動を抑え切れなかった。案の定今日のセールの対象商品には見事にテーラージャケットも入っていた。柳静の言う通り我慢していればもっと安く買えたというのに。

「仕方がなかったんだよ!俺の中の天使と悪魔が戦った末、導かれた結果を行動しただけなんだ!」

「・・・・ほう。天使と悪魔は何と?」

 祥の買い物で一番重要なのは、天使と悪魔のジャッジに掛かっていることが大概である。

「今買わずに何時買うんだにゃ、後悔なんて来るのはずっと後のこと。だったら今という幸福感に浸ればいいんだにゃ!と悪魔が言って。駄目にー、きちんと持っている服に合うかどうかの確認をしてからにしないと、ここはいつもの黒にして他の色はまた違う商品が出たらにするにー!と天使が言った」

 バカ丸出しの欲深き言い訳に、天使と悪魔が使用されている。というより、止める側の天使が購入の促進(そくしん)を行っている時点でおかしい。それに柳静も気付いているようで。

「いつも思うのですが、何故静止側であるところの天使が、悪魔よりも的確なアドバイスをしてくるのですか?後押しの仕方が説得力半端ないです」

 無表情ながらもきっと呆れ顔なのだろう、柳静は嘆息を漏らす。

 対して祥は「どうしてだろうねぇ」と答えるだけでへらへらしていたため、今度またエスカレーターで転倒させてやろうと固く誓った柳静だった。

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