序章
凪原柳静は抹茶好きである。
父が茶道の家元、兄が時期家元というのが関係し、幼い頃はよく礼儀作法から始まり、自らがお茶をたて、仲の良い知人や親戚に振舞うという、所謂お茶会に参加していた事もある。
そんな子供が、抹茶を好きになるのは極々自然なことだろう。
柳静の抹茶好きは飲み物だけでなく、抹茶を使用した菓子類、その他の料理も好んで食す。
最近では菓子といっても大福やケーキ以外にも、アイスクリームやパフェにゼリーと和菓子洋菓子関係なく様々なバリエーションが登場してきたため、柳静は歓喜しているらしい。
普段から着物を着るのが習慣となっている柳静が抹茶好きというのは、別に悪い意味ではなく、違和感がない。しっくり来るものがある。
『茶右衛門』
そんな彼が愛する抹茶菓子専門店。
凪原家の近所に十年程前から創業している抹茶菓子専門店は、柳静のお気に入り。
凪原家の右隣にはまた別の和菓子屋が存在しているのだが、そちらにも通っている。そのため、毎日は通えないが三日に一回は必ず出向く場所だ。ちなみに、右隣の和菓子屋は茶会や稽古のお茶請けとして提供する菓子として必ず利用する、所謂御用達というやつだ。まだ創業してから十年程しか経過していない茶右衛門とは違い(というものの、小規模ではあるが別の場で『茶々』という名で営業していたらしい)、創業百年以上の和菓子屋は隣近所ということもあり、凪原家との親交が厚く、もしかしたら、実は柳静が抹茶好きになれたのは、この和菓子屋のお菓子があってこそだったのかもしれない。
それはさておき、茶右衛門の話に戻そう。
この茶右衛門という、抹茶菓子専門店の存在によって、抹茶とはそもそも縁遠いと思われている若者が、甘くて親しみやすいスイーツに変化すれば話題になるのは早いというもの。ネット社会。すぐに店の名前も、場所も、メニューも、写真も、評価も、全てが一瞬で広まるこの時代、たった一年で茶右衛門の人気はスイーツ業界でもランキング上位に位置する事が出来た。といっても、人気=味の善し悪しは実際に口にした者しか分からないが、とにかく、あっという間に人気店となった。
SNSの力は偉大なり、と後に柳静は店員と語らいでいた。
しかし若者への優しくない、だが店側として致し方ない状況で、問題なのは価格。茶右衛門の菓子は、九十%が宇治抹茶を使用している。
宇治抹茶とは、そもそも京都の宇治のお土産物として有名なお茶のことで、高級茶として広く知られている。
そんな宇治抹茶を使用したスイーツ。
コンビニで二個入り一パック三百円前後のケーキを買うとして、茶右衛門でチーズケーキを買うとしたら二個の価格が一個の値段となってしまう。まぁこれに関しては原価や消費税などの様々な大人の事情というものが伴ってくるため何とも言えないのだが、例えば、一粒五十円の生チョコレート、と聞けば一粒十円のチロルチョコよりも高価に見えるのは当たり前で。だがその後で、貴重なカカオを使用した一粒三百円もする有名店の生チョコレートと比較すれば逆に安く見えてしまうのは言うまでもない。何が言いたいかと言うと、割高といっても、手を出しやすいのが抹茶の良いところ、ということだ。
そんな抹茶を愛する者ならば必ず訪れるべき抹茶菓子専門店、茶右衛門に、肩にかかる程度の黒と白のツートーンの髪で、今日もワックスでキメッキメにセットしてある自分がイケメンだと疑わない室弥祥と、その妹で薄桃色のボブヘアでくりくりっとした大きな茶色い瞳が特徴の蛍、そして蛍の親友である右半分が藍色、左半分が金色に染め上げられた祥とはまた違った二色染めの宇佐木侑李の三人は訪れていた。
そんな異色の三人がこの日、初めての茶右衛門デビューを果たした。仲良く並んだ状態でショーウィンドウ越しに商品を選んでいるようだ。
アイスや餡蜜類は、袋詰めされた状態かもしくは商品の写真での掲示になっており、実物ではなくともパッケージを見ただけで美味しいであろうことは伝わってきた。その証拠に。
「侑李・・・・・・。今すぐその口から垂れている涎をお拭きなさいな。お行儀が悪いですわよ?」
甘いもの大好きの侑李は、店内に充満している抹茶独特の香りだけで涙が止まらない。溢れて溢れて仕方がない。やめたくない止めたくない涎の滝。
目の前に並ぶ多種多様のスイーツ達を、ショーウィンドウに頬ずりをしてしまいそうになるのを必死に抑えながら眺めていたら、尚更飲み込んで次々と涎が生成されていくのだろう。自動涎製造機、侑李の誕生だ。ただし、頬ずりはしなくともべったりとショーウィンドウに両手を宛がっているので、きっと両手十本全ての指紋は完全に取れるだろうが。
ともかく、侑李はそんなこと等気にせず、平然と蛍からの指摘に返答する。
「ごめんごめん。まさかぁ~、こんな美味しそうな抹茶スイーツ達に出会えるなんて思いもしなかったからさぁ~。はぁ~。僕はなんて幸せ者なんだろうかぁ~」
「貴方が涎を止める気がない事だけ、分かりましたわ。でも確かに、侑李程の甘味好きでなくとも、そうなってしまう気持ちは分かりますわ。この抹茶チーズケーキなんて、絶対においしいに決まっていますもの。食べていなくともそう断言してしまえるものなんて、私初めて出会いましたわ」
「チーズケーキもいいけどぉ~、この抹茶最中っていうのもいいよねぇ~。僕最中ってあんまり食べないから、久々に食べてみたいなぁ~」
「最中は私はあんまり好きではありませんわね。味がどうの以前にあの口にくっつく感じがどうも苦手ですの・・・・・」
餅から作った皮で餡を包んだ和菓子の一種、最中。
原型は江戸時代に考案されており、改良に改良を重ね、明治時代以降に今の皆が知る最中の形が完成した・・・・、なんてもっと多くの情報がネットに掲示されているあの最中だ。
小学生の頃、リビングに置かれていた菓子箱の中にたまたま入っていた最中を食べたのが、蛍と最中の馴れ初めである。土産物や頂き物、母や父が気まぐれで買ってきた様々な菓子の残りを一つの箱に入れてリビングに置かれているのだが、他の煎餅やプチケーキとは違い、子供からしてみれば少々高級感漂う袋に入っていた最中に、蛍はかなり興奮したのを覚えている。しかし、いざ食してみれば、甘くておいしいという感動と同時に、口の中の水分が奪われ皮部分が口に軽く引っ付いてくるという初体験に、最高のテンションからすっと氷点下の最悪のテンションに下げられたという思い出を、蛍は懐かしく思った。
そんな最中との苦い思い出があって以来、距離を置くことにした蛍。第一印象は大切。
「そういえば蛍はアイスのチョコモナカも苦手だもんな。うまいんだぞ?夏以外でも食べたくなる一品だ。はっ!そうだ!あれはシェア出来るし、今度一緒に仲良くソファに座りながら食べよう、いや、食べさせ合おう!」
「お断りいたしますわ」
「玉砕・・・・・」
そこでようやく、可愛い妹と実の妹と同じくらい可愛がっている侑李のやり取りを微笑ましく観賞していた祥が、初めて口を挟んだ。
特に重要な話があったとか、会話に途轍もなく参加したい欲求を抑え切れなかったとか、そんな大した理由もなく、祥は女子二人の会話に参加を試みた。ただ単に、理由というならば、楽しそうに言葉のキャッチボールをしているのを見て楽しそうだったから、そしてそれ以上に寂しかったから、というクラス替え初日で初顔合わせの子と友達になろうと躍起になっている子供のように、祥は己の本能に従って行動したらしい。
折角キメてきた黒髪に前髪だけ白のツートーンの自慢へアセットが、蛍の拒絶により少々萎れたのではないかと思わせる程、萎びた。
だがそこで立ち直りが早いのが祥という男。
「チョコモナカ、おいしいよなぁ~。三袋目に手を出そうとすると、いっつも母さんに食いすぎだ!って止められるんだよなぁ~」
「あれを三袋も・・・・。それはそれは侑のお母さんの行動はご立派というか判断が正しいというか。まず、お腹壊すぞ」
アイスを一箱買って来るとして、それを一気食いしたがる侑李を心配しての祥の言葉も空しく。「大丈夫大丈夫、僕のお腹は異次元ポケット級だからぁ~」とあっさり返されてしまった。そもそも異次元級って、確かに大食らいの甘い物好きである侑李なら使用許可が下りそうだとは思うけれど、だがしかし、アイスに関してだけは使用云々以前に、腹痛さんへの直行行きの制限をかけておかなければならないのでは、と祥はため息交じりで侑李の母親に同情した。きっと止めてもしばらく押し問答が続けられることだろう。
「あれをそんなに食べたい気持ちが、残念ながら私には分かりかねますの。そんな事より、柳静様への手土産は何になさいますの?」
「あ、そうだった!手土産買いに来たんだった!」
「さすがはお兄様。当初の目的をあっさりすっかりお忘れになるだなんて・・・。予想通りもいいところですわ。ここにもし柳静様がいらしたら何とおっしゃいますかしら」
「やめてくれ、考えるだけでぞっとする。あいつの毒舌は気持ちがいい時と精神病みたくなる時との差が激しいんだから」
「基本柳静様のお言葉は、無数の棘を剥き出していますから、少し霞めただけでもかなりの致命傷ですものね。流石ですわ、柳静様は。まぁ、それと同じくらい、柳静様の毒舌に快感を覚えてしまったお兄様も凄いですわね」
「流石っていえばやっぱり柳静さんは流石だなぁ~。僕らだけだったら、こういう店にはまず来ないからぁ~。尊敬するよぉ~」
普段行くところとすれば、ケーキバイキングやカフェばかり。しかも、それは全て、蛍と侑李が行きたいと言い出したところに、祥と誘われた柳静が付き添うという流れ。そのため、ちょっとリッチ感漂う専門店とはまだ縁が薄い蛍と侑李は、すでに常連の称号を持つ柳静を心より尊敬しているようだ(柳静からしてみれば、月三回のペースでケーキを爆食いしようと言い出す二人の方がよっぽど凄いと思っているようだが、互いの心互い知らず)。
本日、何度か柳静と共に来店したことのある祥を筆頭にここ茶右衛門に訪れた理由。先程から名を連呼されている凪原柳静への手土産を購入するためである。
というのも、今から一時間後の午前十一時に柳静宅でお茶会が催されるため、いつも何かと世話になっている柳静へ、手ぶらではどうかと思い祥、蛍、柳静の三人で話し合い、柳静が愛する抹茶スイーツを選択したのである。購入後すぐに向かえるよう、すでに準備は整えてある三人。緊張と興奮を抑えられないので、個々で少々ハイテンションになってしまっていることは、誰にも分からない。
だがここではっきりさせておきたいのは、お茶会といってもそもそも、祥達は参加しないのだ。厳密に言えば、お茶会は大人達が参加し、祥、蛍、侑李の三人の子供組は凪原柳静の自室でお茶会という名の花見をするのだ。
凪原家はまさに日本屋敷!という程にだだっ広く、庭には何本か桜の木が植えられており、傍には池もある。そんな漫画に出てきそうだなぁと感想を述べたくなるくらいの立派な日本家屋なのだ。散った桜の花弁が池に浮かんでいるのを見ることが出来るのは、公園か雨が降った後の水溜りか柳静の家か、というのが祥流の紹介文句だ(言葉の選び方を知らないというクレームはこの際なしにしてもらおう)。
毎年四月上旬。美しい桜と共に茶会を楽しむという、凪原家が代々催してきた伝統ある茶会があるのだが、最終的には茶会とは程遠い酒会へと変貌するのが決まりのような感じだ。そう、名ばかりの所謂花見だ。
それぞれの知人、友人、親戚、お弟子さん等を招き、一緒に楽しく花見をしようではないかという事だ。普段の堅苦しい茶会は、別の機会で催されている。
凪原家次男の柳静は、室弥一家と侑李(侑李の両親は仕事のため今回は不参加)を招待したわけだが、親は親同士、子は子同士それぞれ別で楽しむのがいいのではないかとわざわざ分けてもらっているため、こうしてお茶請けの菓子を購入しに来たというわけだ。
「贔屓にしている店だから別の店でって考えたんだけどな。あいつはやっぱ抹茶がいいだろうし、下手なところで買って失敗するより、慣れ親しんだここの味の方がいいだろうな」
「僕はここで良かったと、いや巡り合えてよかったと心から思っているよぉ~。これから度々お世話になろうかなぁ~」
「その時は私が必ず付き添うことにしますの」
「ノー制限でよろしくぅ~」
「分かりましたわ。厳しい監視役として、お傍にいることに今、決めましたわ」
「ノー・・・・」
人間言わなくてもいい事を言ってしまうとこうなる。
「んで、蛍も侑李も食べられるものはどれなわけ?」
「え?私達のも選んでもいいんですの?柳静様へのお菓子を購入するだけだと思っていましたのに・・・・・」
「それは別で選んどくから。折角来たんだし、好きなやつ二つずつ買ってやろう、このお兄様が!きゃーなんて優しいー!大好きお兄様ぁ!って、言ってくれていいんだぞ?」
最後がとことん余計だな、と蛍は毎度毎度詰めの甘い残念な兄に嘆息を漏らしつつ、だがしかし、行為には素直に甘える事にする。善行は素直に受けておいて損はない。
「ありがとうですわ、お兄様!大好きですわよ」
「はっはっはっ!そうかそうか、妹にそう言われて俺は幸せだ!」
「よかったですの」
きちんと兄への機嫌取りも忘れない。これも全て目の前の抹茶スイーツのため。
「んー、どれも美味しそうで迷ってしまいますわ。どれがよろしいかしら・・・・。ロールケーキも良いですし、抹茶餡の大福も食べてみたいですの・・・・。あ~でもどうせですし和洋一つずつ味わいたいという、私の強すぎる欲望が・・・・!」
女子は買い物が長いというが、あれはそもそも優柔不断が為せる技だと思う。確かに厳選したものを購入しようというその心意気は素晴らしいものだし、今後とも継承していきたい部類の買い物テクニックではあるが、それは待ち人がいる時にはお勧めしない。
今まさに血の繋がった妹がやっているその姿を、祥はじっと見ている。
と同時に、必死に考えて一番いいものを選びたい、という気持ちは分からなくないがこのままいけば茶会に遅れてしまうかもしれないと感じ始めていた蛍の隣でようやくショーウィンドウから手を離した侑李が、男(?)らしくすぱっと告げた。
「じゃあさぁ~。僕が洋菓子を選ぶからぁ~、蛍は和菓子を選びなよぉ~」
「え?侑李はそれでいいんですの?」
「いいも何も、それでシェアすればいいんじゃないのかなぁ~?別にお茶会といっても、毎年の如く、僕らはゆったりなんだしぃ~」




