第四章2 『締め括る夜』
2(PM 22:45)
蛍は珈琲を飲んでいた。
白の珈琲カップは重曹を使用してピカピカにしているため、新品同様の輝きを放っている。
今はリビングに一人。順に入浴をしており、蛍は一番風呂を頂いた。一応はレディーファースト、というわけらしい(祥が蛍の残り湯に浸かりたい、という変態思考による気回しなのだが)。
ガチャリ、とリビングのドアが開く。入ってきたのは変態の兄、祥だった。
「ふぃ~。いい湯だったぜ。つっても、俺、シャワーで四十二℃の浴びてっから、湯船は温く感じたけどよ!」
「熱過ぎませんの?あ、きちんと温度設定戻しておいてくださいました?またお父様が悲鳴を上げてしまいますわよ?」
室弥家は基本的に、父、母、蛍、祥の順に風呂に入る。そのため、祥が時々、シャワーの温度設定を四十二℃のままにすれば、翌日一番風呂の父が熱さに悲鳴を上げるのだ。
以前、何度か熱さに耐え切れず、素っ裸でリビングまでヘルプを呼びに来たことがあったものだ。
「今日は大丈夫だ。柳静が入ってっから。さっき温度下げてやったし」
「あら、今日はお兄様がお先に出ていらしたのは、柳静様が入浴していらっしゃるからなのですのね。また断られましたの?」
「うん。今日は疲れたからって、のんびり湯船に浸かってる」
「仕様がありませんわ。今日一日だけで普段の五倍以上動き回ったのですから。相当の運動量だったかと。それ以上に、お兄様との入浴は、疲れを倍増させる魔の空間だと思いますわ」
「ははっ。夜になっても妹からの言葉は、愛を氷で包んでいるなぁ!だが安心しろ、俺のあっつあつの妹LOVEで、すぐに溶かして、愛だけ受け取るからよ!」
「・・・・・柳静様は、よくお兄様と付き合っていられますわね。血縁の私はもうお手上げですの」
十八年間、毎日顔を合わせている蛍は、祥のテンションにはついていけなくなってきているようだ。ポジティブ過ぎたり、愛が強すぎるというのも問題だ。そんな祥に、柳静はよくも愛想を尽かさず、長年共にいられるものだ、と蛍は尊敬していた。
「ところで、柳静様、お疲れでしたらまた入浴中に寝てしまうという事は?特に先程まで文字打ちの特訓をなさっていたのでしたら、尚更眼が疲れているのでは・・・・」
「まぁな。あと十分くらいしたら様子見にいくつもり。お前じゃあ、様子見に行けないもんな。行かせねぇけど」
異性という壁と、シスコンとしての悪い虫を寄せ付けないガードがマッチした結果の言葉だった。
入浴中に寝てしまう事がたまにある柳静は、気をつけていないといつかは溺死するのではないかと心配になってしまう。家では大丈夫なのだろうか、と心配したが、家族がきちんと警戒してくれているようだ。
「そうですわね。お兄様にお願いしますわ。ところで・・・・、上達はしましたの?」
「んー。とりあえず短文で漢字変換なしでなら打てるようになったぜ!あいつ別にバカなわけじゃねぇから、一から教えて練習すれば大丈夫だろ。・・・・・捻くれ部分が出なければ、だけど」
「ええ・・・・・・。予測不可能な事態が起きなければ、パニックは起こさないでしょうし・・・・多分」
「ふむ・・・・・」
兄妹間で沈黙が生まれる。
二人の脳内では以前、初代折りたたみ式携帯を使用していた際、設定中にコール音が鳴り響き、どのボタンを押せば良いのか分からずにパニックになった柳静が、見事、買ったばかりの携帯を真っ二つにする破壊神へと進化した姿が思い浮かべられていた。
「まさか、『とりあえずボタンを押す』ではなく、『携帯をへし折る』という方法でコール音を止めるとは、予想もしていませんでしたわ」
「これくらいで驚いてはいかんぞ、妹よ。あの後、携帯を再び購入しに行った時、あいつは店員に『私の握力にも耐え尚且つ折れないものを』と言ったんだぜ。あの時の店員の何この人認定した瞬間の視線が恐かった・・・・・」
「あら、という事は店員は男性の方でしたようですわね」
「なんで分かった?」
その場に居合わせなかった蛍が、さらっと店員の性別を言い当てたため、祥は目を見張った。
エスパーか!凄いぞ、もう好き!と思っている目だった。しかし、実際そんなスゴ技能力ではなく。単純に。
「いえ、もし女性の方でしたら、お兄様はきっとその視線に興奮を少々・・・・」
「俺はそんな変態ではありません!!?」
蛍の不名誉にも程がある推理に思わず横槍を入れた。妹にそんな動機で変態扱いされている事実に、かなりショックを受けてしまう。いい加減慣れたものだが。
「あら、そうでしたの。まぁ、お兄様の変態っぷりなど、どうでもいいのですけれど。入浴後も特訓を?」
気を取り直したように、珈琲を一口飲んだ蛍は時計を見つめた。
現在時刻、二十二時五十分。習慣として、十二時には床につく蛍は、睡眠妨害をされては堪らない部分も含め、兄達の動向に注目する。
「いや、今日は終了~。次はスーパーマ○オの一面クリアを目指す!妨害しないよう、ここですっから安心していいぞ」
「お母様には許可を?」
「とったとった!もう余裕で」
「お母様を納得させられる程の対価に、何をお選びになられたんですの?」
「柳静の寝顔の写メで手を打った」
「・・・・・。友人をあっさりと売るなんて・・・・下劣ですわね。お兄様」
あっさりと友人を売った事を告白した兄に、蛍は幻滅の中にも少々尊敬を込めた視線を送った。
室弥家は十二時以降のテレビゲームは基本禁止である。家族団欒としては良いが、それ以外は母の許可を必ず取らなければならない。室弥家の約束事の一つ。
これは、今年卒業したばかりの高校生であった蛍が十二時には就寝する事や、共働きの両親にテレビを譲るために作られた。
今日は許可をもらう手として、母お気に入りの柳静の寝顔写真を提供する予定。慣れないテレビゲームに疲れ果て、ソファで眠ってしまったところをこっそり撮影するんだ、と祥は意気込んでいる。
「ふっふっ。ちょっち悪を見せる俺って、格好良さが光ってくるだろう。ほら、よくあるちょい悪ってやつだ」
「はぁ。お兄様のその歪み切った思考と低脳さをどう評価したらよろしいのでしょうか。ナルシストという枠をとうに超えていますわよ?はっきりとは申しませんけど」
とりあえず風呂上りのリラックス時間を、鬱陶しいナルシストに邪魔をされたことが相当嫌だったのか、蛍は今から髪を乾かそうとしていた兄からドライヤーを奪い、熱風を顔面にダイレクトアタック。
「あっ!!あっつ!!?熱いぞ蛍!?いつもより愛のムチが激し・・・あっい!」
「減らず口は熱風をも凌駕するんですのね。前よりも耳にした方がよろしいかしら」
「ダメダメ!俺は!俺の耳は敏感なんだ!?」
「耳が弱いことは知っております。そんなどうでもいい事より、ボタンを留めていただけませんか?」
「あ!!?」
左手で必死に耳の防御力を上げている祥は、隙を与えぬよう意識しながら声のした方へと視線を移した。その先には黄緑色のチェック柄の長袖パジャマを着用した柳静が正座していた。ボタンを留められないせいで、パジャマの下から、祥に借りている黒のタンクトップが見え、白く華奢な上半身を際立たせていた。要するに、エロさが滲み出ているという事だ。
「り、柳静様の洋服姿・・・・。レアですわ」
「ちょ、蛍!写真なんて撮らなくていい!お前の携帯の画面フォルダが穢れる!熱ッ!」
蛍はドライヤーを兄に当てたまま、空いた手でスマホのカメラ機能をフル活用で撮影する。
「お母様に後で送信しなくてはですわね。私も今日は夜更かしいたしますので、申し訳ありませんが、これを対価として使用させていただきますわ」
「お前も兄の友人を売ってんじゃねぇか!同罪だ!あ、同じ罪状・・・・、いやん」
「うるさいですわよ、お兄様」
今度は背後から首元に熱風を当てる。首元は地味に熱いのか、祥は「良い子はドライヤーをこんな風に使用しないように!」と叫びながら、パジャマの襟を防御壁として使用した。
そんな兄妹のじゃれ合いを静かに眺めていた柳静は、隙を見て再び口を開く。
「それよりも。祥。早く私のボタンを留めていただけませんか?寒いです」
自分で何度も挑戦して失敗してしまった結果、一番上のボタン部分は雛になっていた。
「それよりも、で片付けられるような熱風じゃねぇ!んとに、いつものファスナーのにしときゃよかった」
「すみません。練習しようにも私服に洋服を持っていませんので・・・・。ご寛大なお心でお願いします」
「ったく、いい加減洋服の一着でも持てよ。二十五にして、ボタン一つも留められねぇってどうよ」
「いえ、大きいボタンは何とか。しかし、こう小さいものは難しいです。掴みにくいですし、穴に入れようとすると反抗して手から離れてしまいます」
直径二~三センチのボタンは留める事は出来る。が、パジャマのような一センチ程の小さなボタンはまだ無理だと、柳静は告げた。
「仕方がありませんわ。柳静様は幼い頃に行うはずの、パジャマ一人で着れるもん!をノークリアなんですのよ?おまけに私服で洋服を一着もお持ちでないんですから。練習のしようもございませんわ」
蛍のフォローに祥はいいや!と切り出す。
「だから俺は今からでも洋服を着ろって言ってんだ!今だって無理矢理着せてようやくなんだからな!もし将来パパになった時、恥ずかしい思いをしてもしらねぇぞ」
「それ以前に、恋人が出来ていない時点で、結婚は不可能かと。私は特に跡取りのために論争するとか、子孫を残し財産を相続させるとかの必要はありませんから。将来独身で良いかと」
「結婚はそんな血生臭い考えでするもんじゃねぇ!お前はサスペンスに出てくる金持ちか!」
「金持ちですので」
「あ、そうだった・・・・」
凪原家は茶道の家元である父と、着物好きにより呉服店を経営する母、そして五つ歳の離れた兄で構成されている。そのため、昔から着物で過ごし、作法には気をつけるよう教育をされてきた柳静。家にはいつもお手伝いさんや弟子、従業員等が住み込み又は通いで訪れていたため、どちらかというと大家族のような感じであった。
跡継ぎは柳静の兄が選ばれ、すでに結婚をし、嫁が呉服屋を手伝っていることから、弟である柳静は特に気を張らずに自由に過ごしている。
昔、祥がサスペンスドラマによくあるお家騒動的な展開はないのか、と大胆にも聞いた事があった。それは一切ない、と柳静は断言した。
柳静の父。作法には厳しいながらも柳静に対しては過保護で、何か柳静が行動しようとすると「そんな事はお手伝いの者に任せておけばいい。お前が怪我でもしたらどうするのだ」と一言。柳静が料理も機械操作も出来ず、一方で同年代の祥にすら敬語を使い、礼儀作法にはきちんとするように育った元凶。
柳静の母。父とは逆に着物のデザイン考案時に柳静をマネキン扱いする女性。「洋服もいいけど、常に貴女で着物のデザインをイメージしたいから着物を着ていて頂戴」と一言。柳静が一着も洋服を持ち合わせておらず、ボタンを一人で留められない現状を作った元凶。
柳静の兄。跡継ぎを一方的に押し付けられ、逆に自由に日々を過ごしている弟を恨んでいると思いきや、全く逆の弟溺愛、超絶ブラコン。柳静が高校卒業前、就職活動をしていた際、ありとあらゆる方法で潰したという。柳静の私物にこっそりとGPSを仕込むなど、ストーカーを通り越して犯罪領域まで到達していたことがある(今現在も続いている可能性も高い)。その理由としては「柳静は俺が養ってあげるから、わざわざ働いて悪い虫(俺の敵)を作らなくていいんだよ」とのこと。柳静がシスコン祥の扱いに慣れているのは、兄の存在が影響している。そして、祥の行動はまだまだ手緩いと思ってしまっている。
「凪原一家が作り上げた最強の存在だな・・・・本当。お前よくぐれなかったよな」
祥と柳静は幼馴染の関係であるため、今迄あまり気にしたことはなかったが、今日は言わずにはいられなかった。家族からの違う意味での押しつけと、将来と、極限の甘さによって作り出された”柳静”という存在。反発一つ起こさなかったこの男は、特に気にした様子もなく平然としている。
「一度受け入れてしまえば後はどうとでもなります。それに、家族からのそれがなければ、私はこうして、齢二十五にして、友人にボタンを留めてもらう、という他人が経験しようがない経験をすることが出来ませんでした」
「案外、ポジティブと天然さんで完成したって感じですわね」
「恐ろしいわ!」
どちらかといえば、天然より諦めの方が強いのではないだろうかという思いを胸に、祥は激しくツッコミを入れると同時に、ボタンを留め終えた。
ちなみに、このチェック柄のパジャマは祥が選んで購入した物だ。急遽宿泊させ、洋服しか選択肢がない状況を作り、着せるために用意していた。もう一つ付け加えれば、次の日の洋服は、パーカーに黒のパンツ、と思っていたのだが、全力で拒否されてしまった。
余談だが、ジッパーは指を挟んだ一件以来、超絶に拒絶している。