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黙想の散歩道  作者: 智康
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生きる者への償いのある社会 補足

 前作では、生きる苦しみを人々に与えたことを償う社会について説明しました。

 生きる苦しみとは、生きるためになさなければならないことがあるという苦しみと生きていく上で不条理を体験するという苦しみです。これらの苦しみは社会に生まれた時から生涯、人々にまとわりつくものです。この苦しみの責任は、子供を生んだ親とそれを容認した社会にあります。親は子供を生んだので、本来ならば、子供の生涯の生活費を負担しなければなりません。社会は親から子への生きる苦しみの押し付けに加担したと言えるので、人々の生活を支援しなければなりません。これは、いわば、社会による人々への償いです。

 前作では、仮に、生きる苦しみの押し付けに加担したことの償いを行う社会が存在するとしたら、どのようなことが起こるかについて考えてみました。

 さらに、この社会で死が苦痛からの解放をもたらさない可能性があることが広く共有されている場合、安楽死制度は導入されることはないだろうという結論になりました。

 社会で死が苦痛からの解放をもたらさない可能性があることが共有されているという想定のため、安楽死制度の導入の可否について、本質的な議論を避けた形になりました。今作では、人々の生きる苦しみへの加担を償う社会という仮想の社会で、我々の社会と同様、死ねば楽になれるという思想が浸透している場合、安楽死制度を導入するか否かについて考えようと思います。以下、人々の生きる苦しみへの加担を償う社会を生を悼む社会と呼ぶことにします。

 人々が社会で生きていく上では様々な不条理を体験します。社会には、人生には不条理や理不尽なことがつきものとの思想があります。しかし、それでも社会では人々が子供を生むことが容認されています。だから、人が社会で体験する苦境の責任は人々に子供を生むことを容認した社会にもあることになります。

 生きていく上では病気にもかかります。生きていれば病気にもかかることがあると分かっているにもかかわらず、社会は人々に子供を生むことを容認したので、病気の直接の原因が患者さんの不摂生である場合でも、社会はその病苦に加担したと言えます。生を悼む社会では、社会はその償いとして、患者さんから病苦を取り除くために、病の治療やその支援をしなければなりません。患者さんにとっての社会には、医師や医療者の方々が含まれていて、患者さんは、これらの方々を通じて社会からの償いを受けるとみなされます。いわば、患者さんに対して医師や医療者の方々を介して、社会が顕現しているのです。

 さて、安楽死の処置は患者さんを耐え難い病苦から即座に解放するために行われます。一見すると、社会は患者さんの病苦への加担を償っているように見えます。しかし、安楽死では、患者さんにいなくなってもらうことで病苦への加担の償いが果たされることになります。これは、苦しめられた側が苦しめた側の行為の責任を取らされるということで、倫理的に間違っています。自分を苦しめた相手に「そんなに苦しいのなら死ねばいい。」と言われれば、誰でも腹が立つと思います。生を悼む社会では、患者さんが望んだとしても、安楽死は患者さんの病苦に加担した社会の償いとしては不適切であり、倫理的に間違っているとみなされるでしょう。

 しかし、患者さんが、精神的なものであれ肉体的なものであれ重病を患い、どのような手段をもってしても回復の見込みがなく、どのような手段をもってしても緩和できない激しい苦痛が死ぬまで続くことが予想される状態にある場合、治療(緩和ケアを含む)を行うことも倫理的に正しいとは言えないでしょう。耐え難い病苦を死ぬまで抱えることになる患者さんを延命することはその苦痛を長引かせることになります。償う者は苦しみに加担した責任に向き合っているものの、償う相手を苦しめ続けるという、あってはならないことが起きることになります。耐え難い苦痛と死ぬまで付き合うことになる患者さんに治療を続けることも病苦に加担した社会の償いとしては不適切であり、倫理的に間違っています。

 患者さんが亡くなるまで耐え難い病苦に苛まれる場合は、安楽死と治療はいずれも病苦への加担の償いとしては不適切であり、倫理的には正しいとは言えません。

 しかし、死ぬまで耐え難い苦痛を抱えることになる患者さんに対して、社会は適切な償いができないといっても、何の対応もしないわけにはいきません。病苦への加担を償う姿勢を示さなければ、個人の尊厳を大事にしていることにはなりません。

 この時、安楽死が社会で認められないことで、病への対処が治療しかないのは、患者さんにとっては不条理なことでしょう。それに、患者さんに治療しか認めないことは、病苦への加担を償う社会が、勝手に決めた償いの方法の了承を患者さんに強制することであり、倫理的におかしなことです。病苦への加担に適切な償いができないことを重く受け止めるのなら、社会が患者さんに自分で病と向き合う手段を決めることを認めることが望ましいと考えられます。このようなことから、死ねば楽になれると考えられている、生を悼む社会では、安楽死制度は導入されると考えられます。

 これまで述べてきたように、生を悼む社会では、社会は人々の病苦への加担を償わなければならない立場にあります。だから、この社会では安楽死制度が導入されても、安楽死の議論で指摘される、社会が社会的弱者とされる人を自分の意思に反した安楽死に追い込むようなことは起きにくいと考えられます。

 また、生を悼む社会では社会が患者さんの死ぬまでの耐え難い病苦への加担を非倫理的な行為によって償おうとすることが否定的に受け止められるでしょう。このことから、社会は人々が安楽死か治療かの二択を迫られる状況に立たされること自体を防ぐために、新薬や新たな治療法の開発に力を入れると考えられます。


 生を悼む社会での安楽死の導入の是非について、人間の命が尊いから安楽死は行うべきではないという意見が出ないことを訝しげに思われる読者の方がおられるかもしれません。その方のために念のために申し上げておくと、生を悼む社会には命が尊いという思想はありません。命があるがために生きる苦しみがあるという考え方があるので、命が尊いなどということはないのです。


 医師の西智弘さんの「それでも、安楽死の話をするのなら」(晶文社)によると、人が死に向かう過程では、「スピリチュアルな苦痛」を持つようになるようです。死が近づくにつれて、自分には生きている価値がないのではないかと感じる方がおられて、死を望むこともあるそうです。生を悼む社会では、自分が生きていることには自分に責任はなく、その責任は親と社会にあるという思想が一般的です。社会が個人の生を支えるのは当然のことと理解されているでしょう。だから、ただ生きることに罪悪感を感じたり、他者から世話を受けることに申し訳なさを感じる人は生を悼む社会ではそうではない社会よりも少なくなると考えられます。


 前作では、死が苦痛からの解放をもたらさない可能性があることが社会で認識されていれば、この社会では安楽死制度は導入されないだろうと述べました。しかし、現実は死ねば楽になれるという思想が世界で主流なようで、世界の一部の国では安楽死が実行されています。僕は安楽死の実行が間違いだとは思いません。死が苦痛からの解放をもたらさないのは、死後の生が存在しない場合に限ったことであり、死後の生が存在するか否かは現時点では分からないからです。ただ、僕は思索の過程で、死は苦痛からの解放をもたらさない可能性があることに気づきました。この事実に気づいたからには、日本に安楽死制度が導入されることに賛成するわけにはいかないのです。

 既に安楽死の処置を受けて亡くなられた方々には、生前の苦痛から解放された安寧を願うばかりです。

 日本では今後、安楽死制度の導入を巡って本格的な議論が起きるかもしれません。死後の生が誰に対しても確約されているとは言えない現状では、死が苦痛からの解放をもたらすとの前提で議論が進められるのは危険です。前作及び今作を読んで下さった方々の中から、SNSや各種メディアでこの点を指摘する方が出てきてくれたらなと思います。


参考文献

「それでも、安楽死の話をするのなら」 西智弘著 晶文社

「人はどう死ぬのか」 久坂部羊著 講談社


 


 



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