生きる者への償いのある社会
前作で述べたように、生きていく上では、我々は様々な不条理を体験します。しかし、我々は生き続けようとします。生きていくためには生まれてこなければする必要のなかったことをしなければなりません。望んで生まれてきたわけでもないのに、生きるための義務に追われているのが我々です。生きるためになさなければならないことがあるのも生きる苦しみだと、僕は思います。生きていく上で体験する不条理と生きるためになさなければならないことがあるという苦しみをまとめて生きる苦しみと呼ぶことにすると、生きる苦しみは親から生まれた時から存在するので、親には生きる苦しみを与えたことの責任があります。そして、親が子供に生きる苦しみを与えることを容認した社会にも責任があります。社会は人々に生きる苦しみを体験させることに加担したと言えます。
親は子供が社会で生きることを望み、子供を生んだので、本来であれば、親は責任をもって子供の生涯の生活費を負担しなければなりません。子供を生むことを容認することで、人々に生きる苦しみを体験させることに加担した社会がなすべき償いは、人々が少しでも生きやすいように、支援することだと思います。社会は、人々の生活に伴う、生きるためになさなければならないことをすることの苦しみを軽減しなければなりません。また、社会は人々が社会を生きていく上で体験する不条理を解決しなければなりません。法律、政治、社会保障などで構成される社会システムは人々の生きる苦しみを除くためにあると言えます。
人は社会で生まれ、成長していく過程で社会の道徳やルールを学び、社会に適応していきます。成人とは、社会の一部としての自己が確立されていると認められる年齢に達した者と言えると思います。社会の一部として機能するのであれば、成人は、社会が人々に生きる苦しみを与えることに加担しているということになります。その償いとして、成人になると、納税や保険料の納付をしなければならないのだと解釈することができます。他国に移住すれば、この償いをしなければならない責任からは逃れられます。
社会は、他国へ移住する人が、文化や言葉の違いのために生活が困難になることについては、責任を負う必要はありません。それは、その人の選択によってもたらされたことだからです。しかし、自分が生きていくのが出身国であれ、移住先の国であれ、生きるためになさなければならないことがあるという苦しみは存在します。この苦しみは、出身国の社会が子供を生むことを容認したことに基づきます。このため、出身国の社会には、人がたとえ他国へ移住したとしても、その人の生きる苦しみと向き合い、解決する責任が存在します。
移住先で生きるためには、その社会に適応しなければなりません。自国社会でそうしたように。出身国の社会は文化と言葉の違い以外の要因がもたらす、社会への適応を阻む障害を除き、移住先で生きる人々の生きづらさを解消しなければなりません。移住した人がその国で差別などを受けて、生きづらくなることは避けなければなりません。出身国の社会は自国民が移住先の国の国民と同等に扱われるように、この国と交渉することになるでしょう。おそらく、両国間では、互いに相手国からの移住者に自国民と同等の権利を与えるといった内容の条約が結ばれることになると思います。
また、人々に生きる苦しみを体験させることを償おうとする社会には、自らが滅んだとしても、その後の人々の生活を支える義務が存在すると考えられます。当然、社会は、自国民が難民になった場合に備えて、自国民が国際機関からの支援を受けられるように手筈を整えることになります。
人々に生きる苦しみを体験させることを償おうとする社会でも、安楽死制度の導入について議論が起きると考えられます。
安楽死制度に賛成の人は、「生きる上での苦しみを除くことが人々への社会の償いである。病によりいかなる手段によっても除去や緩和ができない苦痛を体験している人には安楽死を行い、苦痛を取り除くべきだ」と主張するでしょう。また、「償う者が償いの過程で償う相手を苦しめることはあってはならない。社会は各個人が生きている間に、生きる苦しみを体験させることを償わなければならないとしても、延命させることで死を望むほどのひどい苦痛を延長させることはあってはならない。」という主張もあるでしょう。
安楽死制度に反対する人は、「人々への償いの期間を短くすることで、社会が償いの負担を軽減し、与えられた責任を回避することになる。これは社会の人々の尊厳を傷つけることだ。」と主張すると考えられます。
ここに挙げた議論でもそうですが、安楽死についての議論では、死ぬと、今ある苦しみから解放されるということが前提とされます。しかし、僕はこの前提が間違っているのではないかと思います。
世間一般には、人間は死ぬと無に帰すという考え方があります。死ぬ時にそれまで存在していた自分が消滅するということです。僕の考えとは違いますが。苦痛を抱えている自分が死によって消滅するとしたら、自分は苦痛と共に消滅することになります。苦痛は自分に付随するので、自分と苦痛が分かれてそれぞれ別々に消滅することはありません。つまり、世間一般で言われるように、自分が死んで無に帰すのだとしたら、自分は死ぬ時も苦痛からは解放されないことになります。
僕は、人間が無に至るとしたら、その前段階に過渡期が存在すると考えています。この過渡期では、抱えていた苦痛が消滅します。しかし、これを以って、死ぬ時に苦痛から解放されるとは言えません。自分が苦痛から解放されたことは、苦痛が消滅したその時には分からず、その時のことを後から振り返ることで分かります。しかし、苦痛が消滅した過渡期の後に無に至るのであれば、自分が苦痛から解放されたことは分かりません。自分が苦痛から解放されたことに気づかないまま、自分は無に帰すことになります。この場合も、死によって苦痛から解放されることはないことになります。
以上のことから、死ぬ時にどのような過程を経て無に至るとしても、自分は苦痛からは解放されないことになります。
反対に、死後の生が存在すれば、新たな心身を得て、生前の苦痛からは解放される可能性はあります。
死後の生が存在すれば、苦痛からは解放される可能性があるが、そうでなければ苦痛からは解放されない。しかし、死後の生が存在するかどうかは誰にも分かりません。このため、死は苦痛からの解放をもたらすかどうか分かりません。
もしも、人々に生きる苦しみを体験させることを償おうとする社会が、死が苦痛からの解放をもたらさない可能性があることを理解した上で、安楽死制度を導入するとしたら、この社会は2つの点で人々への償いの意欲を欠いていると言えます。一つは、死という、苦痛からの解放をもたらすかどうかもわからないものに、人々に生きる苦しみを与えたことの償いを任せるという点で、一つは、人々の命を終わらせ、人々への償いの負担を減らそうとしている点です。人々への償いの意欲を欠いているということは、人々に生きる苦しみを与えたことの責任と向き合おうとしていないということです。これは人々の尊厳を踏みにじるということで、許されないことです。よって、この社会で、死が苦痛からの解放をもたらさない可能性があることを踏まえた上で安楽死制度を導入するか否かの議論が行われたら、安楽死制度は導入しないという結論になると考えられます。いや、そもそも議論すら起きないでしょう。
現実の日本社会でも、死が苦痛からの解放をもたらさない可能性があることが広く理解されていれば、安楽死制度が導入されることはないと思います。死が苦痛を取り除かない可能性があるとしたら、安楽死の実行はどのような行為になる可能性があるのか。この問いの答えのために、安楽死の実行に法的な認可が下りることはないでしょう。
これまで述べたことから、社会としては、安楽死制度は導入しない方がよさそうです。僕個人は、安楽死制度に賛成か反対かを問われると、答えに窮します。この質問については、何も言えません。
参考文献
「それでも、安楽死の話をするのなら」 西智弘著 晶文社




