寛容と道徳
旅人は厩舎に立ち寄った。
これまでの旅の疲れから、目的地までの残りの道のりを馬に乗って終えようと考えてのことだった。
厩舎には、一頭の老馬が留められていた。
毛並みの色艶は肌のたるみで閉ざされ、脚は間近に迫った死に怯えているかのように震えていた。
懐事情が芳しくない旅人は、この馬なら安い値段で買えると考え、馬主から言い値で譲り受けようと思った。
旅人は馬主に言った。
「なあ、あんたの馬を譲ってほしいんだけどいいかな?もちろん、あんたの言い値で買うつもりだ。」
「いや、譲ることはできないね。」
馬主はきっぱりと拒否した。
「どうして。あんな老馬、人一人運ぶのが精々だろう。馬を売った金で別のいい馬を買う方があんたにとっても得じゃないのかい。」
「あの馬には助けられたことがあるんだ。」
主人は馬を買うのを断念させようと、馬との思い出話を語ることにした。
「昔、馬車に荷を積んで運ぶ仕事をしていた時の話だ。あの馬に馬車を引かせて、目的地までの道を急いでいたんだ。何せ積み荷を届ける期限が明日に迫っていたからな。
ところが、あいつは広い平原に出た途端、急に立ち止まったまま動かなくなったんだ。鞭打っても、手綱を思いきり引っ張っても、何も応えようとしない。あいつはただ、黒い瞳で俺のことを見つめ、俺の仕打ちに耐えるだけだった。俺が何をしても許すけど、先へは進まない。そう言っているような気がした。あいつがとても強く、大きくなったように感じた。
でも、どうすればいいか分からなかった。積み荷を届ける期限は明日だ。約束は守らなければならない。
それなのに、あいつはいつまで経っても歩き出そうとしない。
俺はやり切れなくなって、絶叫したよ。叫び声は、悲しくなるくらいに辺りに響き渡って、それきり帰って来なかった。
感情を全部吐き出して気持ちが落ち着いてくると、周りがよく見えるようになった。そこには風景になってしまったあいつがいた。あいつは山や空と反目しあわずに、調和していたんだ。何ていうかな、ありのままでいられる美しさの中にあいつはいたんだ。世界の初めから存在したんじゃないかと思える風景の中に。これが本当なんだって、不思議と納得できた。
俺は積み荷を届けるのをあきらめ、家に帰ることにした。手綱を取ると、それまでの頑なな態度が嘘のように、あいつは帰り道を歩き始めたんだ。
後から聞いたところによると、俺が積み荷を届けることになっていた町が敵国に攻め入られて、壊滅したらしいんだ。それも、積み荷を届ける期限の日に。ぞっとしたね。もしあのまま、町に行っていたら、俺は死んでいたかもしれない。あいつは動物の本能か何かで、この事態を予見していたんだと思う。
そんなことがあって、あいつにはすごく感謝している。この先、あいつがどうなろうと、最期まで面倒を見るつもりだよ。」
「へえ、凄い馬なんだね。あの馬を思うあんたの気持ちは分かったけど、あの馬はあんたをどう思っているかな。」
「あんたもしつこいね。まあ、馬語が話せるなら、試しに交渉してみるといい。どうせ無駄だと思うけど。」
旅人は馬を是非とも物にしようと意気込んで、馬に話し掛けた。
「なあ、俺と一緒に旅をする気はないかい。馬語で指示が出せるから、今の主人みたいに鞭打ったりしないよ。」
「ありがたい話だけど、断る。」
「どうして。」
「俺にはあの人がいなきゃ駄目なんだ。」
馬も旅人の誘いを断りたくて、昔話を始めた。
「昔、旅の途中で、食料と水が底をついたことがあったんだ。
砂漠を通っている時に、砂嵐に巻き込まれて、一週間足止めを食ったのが原因だ。
でも、憔悴の中、あてもなく砂漠をさまよっていると、幸運にもオアシスを見つけることができたんだ。オアシスには少ないけれど、一人と一頭の当面の食料と水を賄えるくらいの果物、草、水があった。
当然のことながら、俺は猛烈な勢いで草を食べ、水を飲んだ。飢えと渇きに復讐するかのように。
それを見ていた主人は、俺が飲み食いするのを制止したんだ。彼はこの後のことを考え、食料と水を備蓄しようと、果物を摘み取り、草を刈り、水を水筒に入れ、荷馬車に積んだ。
それがなかったら、俺達は旅の途中で力尽き、餓死していたかもしれない。俺が本当は何を食い潰そうとしていたか、その時の俺は全く気付いていなかったんだ。
俺には自制心がないからな。自分の代わりに自分を制御できる人が俺には必要なんだよ。だから俺はあの人についていきたい。」
彼らの住む風景は彼らだけのものなんだろう。
旅人は馬を買うのをあきらめ、一人旅路に戻った。