26 ワイルドボアの燻製 後編
出発の朝、宿の厨房ではジュウジュウと音が鳴っていた。
底の浅い鍋の上には、アスパラガスを巻いているベーコンから脂が出てきて、香ばしい匂いを立てている。
そうして焼き色がついてくると、ひっくり返して蓋をする。全体に熱が通ると、お好みで胡椒や醤油をかけて完成だ。
皿に盛りつけていると、厨房の入り口からひょこっと緑の頭が顔を覗かせる。食い物の匂いにつられたゴブシだ。
「お前……普段はいつまでも寝ているくせに、食いたいものがあると早起きなんだな」
ろくでもないゴブリンは、てくてくとやってきて、香りを吸い込むと涎をじゅるり。
「ティルシアたちも呼んできてくれ。朝ご飯にしよう」
「ゴブッ!」
元気に駆けていったゴブシ。それからドタドタと音がして、やつとティルシアが客室のある階上から降りてくる。
「もう、走ったら危ないですよ」
ティルシアが厨房に顔を覗かせたあとから、レスティナが入ってくる。そしてレスティナはディナードを見るなり、居住まいを正して「おはようございます」と頭を下げた。
「朝飯ができたぞ。運んでくれ」
「はこぶー!」
ティルシアが元気に答えて、皿をテーブルに持っていく。
それから簡素な朝食が始まる。
アスパラガスのベーコン巻きのほかには、パンや卵を焼いたもの、生野菜など、決して豪華とは言いがたいものだ。
しかし、余所でこれだけのものを食おうとすれば、かなりのお値段になってしまう。なにしろ、このベーコンはワイルドボアの肉で作ったものなのだから。
昨日準備しておいた燻製を、料理としてお披露目する。
早速、ベーコン巻きを口にしてみると、じゅわっと肉汁が溢れ出す。これといった味付けをしているわけでもないが、しっかりと燻製にしたときの香りが移っており、脂身のうまみを引き立てている。
爽やかなアスパラガスの食感に、噛めば噛むほど広がるベーコンの味が絡みつく。
「時間をかけて作っただけはあるな。だが、脂身が少ないのが惜しい」
「もう、ディナードさん。それ何回目です?」
「仕方ないだろう。事実なんだ。だからこそ、今度はバラ肉を求めてオークを食いに行くんだ」
「おーく! ぶたどん!」
ベーコン巻きを口にしていたティルシアがはしゃぐ。
「危ないぞ。フォークは喉に刺さらないようにな」
ティルシアは律儀にフォークを置いてからはしゃぎ始める。ゴブシもそんな彼女と一緒になって喜んでいる。
そんなところを見ていると、
(ゴブシを拾ってきてよかったかもしれねえな。ティルシアも一人じゃ寂しかろう)
などと思うのだ。もうちょっと、賢い魔物のほうがよかったかもしれないが。
そんな賑やかな食事を終えると、いよいよ彼らは冒険者ギルドの案内に従って、馬車に乗り、北の都市に向かっていく。
すでに調査の部隊が結成されており、そちらで合流すればよいとのことである。
馬車に揺られながらディナードは、
「それにしても、こうも馬車に揺られてばかりの旅だと、中年には堪えるな」
などとこぼしてみる。
「ディナードさん、若者よりも体力あるじゃないですか」
「気分の問題さ」
おどけてみせるディナードである。そんな彼は、なんでもないただの風景を楽しげに見て尻尾を振っているティルシアや、このときを待っていたとばかりに、燻製にかじりつくゴブシを見て、活力に溢れているのは若者の特権だと思うのだった。ゴブシの年など知らないが。
ゆっくりと馬車は北に向かっていき、しばらく時間をかけてようやくオークが近くにいるという都市に辿り着く。
こちらの冒険者ギルドに赴くと、そこでは慌ただしく職員たちが動き回っていた。
「こりゃ、大変そうだ。話はあとにしたほうがいいか?」
ディナードがそんな感想を漏らしていたところ、職員が彼らに気づいて駆け寄ってくる。
「ディナード様でしょうか?」
「ああ。おそらくは連絡がいっているその本人で違いない」
「よかった! ……実は先ほど、調査の結果が出ました。オークの縄張りが見つかったのです」
「ほう。仕留めてきたのか?」
「ま、まさか! それが大変なことになりまして……」
ここでは人目があるということで、彼らは別室に案内される。子供のティルシアを連れていることを気にかけていたようだが、ディナードは問題ないと告げると、四人はようやく話を聞くことになる。
「オークの調査に向かったところ、こちらが集団でいるのにもかかわらず、急に襲われたという事件が起きました」
「そりゃあ随分と凶暴だな」
「はい。十数名が重症、数十名が軽傷を負ったと聞いております」
そう聞くと、かなりの被害が出ていることがわかる。
「ということは、かなり大きいのか」
職員は頷く。
オークは膂力に優れており、大の大人数名程度を殴り飛ばせるほどだ。場合によっては、頭を握りつぶされたという事件も起きている。
そんなオークであるが元来、豚であることもあって温和な性格をしており、ほとんど草食に近い雑食であるから、人やその他動物を襲うこともそれほど多くはない。中には人に懐く個体もいるという。
しかし、どうにもその個体は凶暴だという。
なんとも腑に落ちない話であるが、いずれにせよディナードがすることは変わらない。
「あんまり成長していると肉は軟らかくないかもしれないが、脂肪は蓄えてそうだな。ちょうどいい」
元々、ディナードはワイルドボアの脂身の少なさを嘆いてきたのだから。
そんなことを考えている彼に、職員は呆然とする。一方でゴブシは肉と聞いて涎を垂らしそうになっているし、ティルシアも人前ということで静かにしているが、わくわくしている様子が見て取れる。
「それじゃあ、これから俺が行って仕留めてこよう。場所を教えてくれるか?」
「本日は直に日が暮れるでしょう。明日でしたら、招集した兵たちを同行させようかと思いますが――」
「別にいらないぞ? まあ、案内をしたり荷物を持ってくれたりするなら、やぶさかでもないが」
たった一人で魔物を倒すというディナードに、どう対応していいものかと困っていた職員だが、今度は別の者がやってきて、「お願いいたします」と頭を下げた。彼の実績を知っていればもっともな対応ではある。
こんなところを見ていればちっとも凄腕の冒険者になど見えないが、ハースト王国では「魔物食い」と異名をつけられるほどなのだから。
ともかく、明日に出発することに決まると、ディナードたちは街中に繰り出した。
「さて、バラ肉は豚丼と豚汁にするとして、ロースはどうするか」
「柔らかくておいしい部分ですよね」
「そうなんだが、オークは二足歩行なんだ。体を支えるために背中側の筋肉が硬くなっている」
二足の不安定な姿勢を支えるために抗重力筋が発達することになった。そしてほとんどが背筋によって支えている。つまり、柔らかくておいしいはずのロースが硬くなっているような状態だ。
そしてとても柔らかい部位であるヒレ肉。脊椎と大腿骨を繋ぐこれは、四足歩行の動物においては、後ろ足を上げてから蹴り上げるときなどに使う程度であったが、二足歩行では姿勢を維持したりももを上げたりするために使っている。
つまり、オークが外敵を蹴飛ばしている場合、こちらも鍛えられているのだ。
そしてもも肉。こちらも二足歩行の股関節を伸ばした状況においては、引き締まる必要があってかなり発展している。
もしかすると、肩こりもあるかもしれない。そうなると、肩ロースは硬いだろう。
オークの肉は食う者がほとんどいないが、理由はこれだ。
なかなか困りものである。とはいえ、バラ肉は脂肪をたっぷりと蓄えているため、おいしいはずだ。
「どうしたものか。といっても、実際に見てみないとさっぱりなんだが」
もしかすると、普段からごろごろと寝てばかりで太ったオークかもしれない。ゴブリンでさえ、こんな珍妙なやつがいるのだから、より高度な知能を持つ魔物なら性格がいろいろあってもおかしくはない。
「とりあえず、材料だけ揃えておくか」
ディナードはそうして、食材を買いに行くのだった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
人は二足歩行するにあたって、抗重力筋という立っているだけでも必要な背筋群を発達させました。ほかの動物が二足歩行しないので比較はできないのですが、おそらく、豚も二足歩行に進化すれば、同様の筋肉が硬くなるのではないかなあと思います。そんなわけで、今回使うお肉はバラ肉となりました。
今後ともよろしくお願いします。




